【Interview】「僕らの根っこはシュルレアリスムとアヴァンギャルド」〜『断食芸人』足立正生(監督)&山崎裕(撮影)text 小林蓮実

山崎裕カメラマン(左)と足立正生監督(右) 

山崎と僕をつないでいるのは、「おもしろいものを作りたい」
「新しい方法や技術を作りたい」という情熱。

——日芸卒業後、それぞれの道に進まれたり、『略称・連続射殺魔』で交流したりなどは、どのような経緯があったのでしょうか?

山崎 俺は、プログラムピクチャーは、あまり観ていない。大きな映画会社などの撮影助手には興味がなく、ドキュメンタリー系を撮りたいと考えていた。当時、松本俊夫の『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(63年)という評論集があり、アヴァンギャルド(シュルレアリスム)の方法論でドキュメンタリーをつくるという考え方があった。そして、松本俊夫も野田真吉も黒木和雄もドキュメンタリー的なPR映画も作っていた。

足立 日本記録映画作家協会が設立され、そこの研究会では3年程度、「作家の主体性論」というテーマが追求された。PR映画はコマーシャルだが……。

山崎 作品化する。

足立 納品先の会社が要求しているものとちがうものが作られていた。

山崎 黒木和雄の『あるマラソンランナーの記録』(64年。終わりにCMを入れるかどうかという問題)をきっかけに、この日本記録映画作家協会が分裂する。

足立 松本俊夫の『白い長い線の記録』(60年)という電力会社のPR映画も実験的に「作品化」されたが、「働く場を失ってはいけないから先方の意見も聞くべきだ」という意見もあった。新左翼の誕生同様、60年代反安保闘争をどうするかが基本的にあったともいえるかもしれない。日本記録映画作家協会からは、左翼的な思想をプロパガンダしたり、作り手としての作家性を求めたりした人が分離したんだ。

山崎 また、『ノンフィクション劇場』(62〜68年)というドキュメンタリー番組が、日本テレビのプロデューサー・牛山純一の企画で展開されていた。そして、日芸にいた監督・脚本家の西尾善介は高校の仲間の知人だが、『エラブの海』(60年)という沖縄を舞台にした水中撮影によるセミドキュメンタリーを手がけたところ大ヒット。そこで、水中撮影の劇映画を撮らせようと考えた人がいて、その作品の撮影助手見習いで参加させてもらうはずだったが、若狭湾でのテスト映像を試写したら、俳優は水中でしゃべれないし、水中めがねをかけていて表情もよく見えない。それで、クランクイン前日にお蔵入り(笑)。でも、西尾はその後も、日本テレビのジャイアンツ(読売巨人軍)のドキュメンタリーにカメラマンとして声がけしてくれたために俺は就職活動もしなかったが、この作品も結果的にはボツになった。でも、同級生の多くがNHKなどに試験を受けに行くのを、威勢のいいことをいっておいて、国家権力におもねるのかと興ざめするような気持ちでながめていたね。俺は結局、フリーランスとして出発し、PR映画やCMを経て、TVドキュメンタリー、ノンフィクションを多く手がけるようになったんだ。でも、カメラは嘘をつき、映像は光がチラチラ点滅しているだけと意識していた。いっぽうで、インディペンデント、ATGなどの映画はチャンスがあればやりたいとは思っていたし、そのうちTVドラマの撮影などもやるようになっていた。

足立 僕はVAN映画科学研究所にいて、5人くらいでルームシェア生活をし、最初から作りたいものを作ることを追求した。でも、みんなPR映画のアルバイトなどをして疲れ果てている。「それなら自分でやればいいじゃない」と、神原寛さんらとコマーシャル映画会社を設立したら、これがあたったんだよ(笑)。だけど、僕ら素人だから、電通とか博報堂の支払いが半年後とか知らなかったんだよね。それで、僕も助監督を多くやっていたが、会社の運営費が作れず、「黒字倒産」するんだよ。そして、「安かろう、早かろう、よかろう」のピンク映画を勉強しに行っていたのが若松。でも、僕にとっては、ピンク映画もアヴァンギャルドも同じ。はずれのほうにいるぶん、やりたいことだけをやりたいくらいにはできたの。

足立正生監督

山崎 外から見ると「はぐれもん」の、あっちゃんがいて、沖島勲がいて、大和屋竺がいて。「映研時代と変わってねえな」「やっていることも集まっている顔ぶれも同じじゃねえか」と。

足立 鈴木清順と組む大和屋や田中陽造は早稲田のシナ研(シナリオ研究会)出身で、学生時代にもドキュメンタリー作品をVAN映画科学研究所で上映していたが、若松プロダクションで出会い直す。それがおもしろかった。『略称・連続射殺魔』(69年)は、全部一緒に「ベタ」でやるんだけど、真面目な山崎と僕のような乱暴者をつないでいるのは、やっぱり「おもしろいものを作りたい」「新しい方法や技術を作りたい」という情熱だったのね。永山則夫の足跡をたどり、アンダーグラウンド・センターもつくって、『略称・連続射殺魔』やプライベートだったりインディペンデントだったりの作品を手がける。そこに、アメリカのアンダーグラウンドシネマ勃興に一役買っているドナルド・リチー(アメリカの映画批評家・監督)が現れ、「勝手にバラバラにやっているのはおかしい」という。彼は黒澤明やのちには是枝裕和の作品を世界に広めた功労者で。でも、ビデオができ、8mmカメラが普及し、TVが発展して、メディア自体がおもしろいから「メディア派」、「映像派(映像主義者)」のようになる人も増えた。大林宣彦も、自主映画を経て、CMディレクターの大巨匠となっていた時代だった。高度経済成長期で、メディアが「第三の権力」と呼ばれ、みんなそこに溶けていく。山崎は真面目でへたくそだからドキュメンタリー系をずっとやっていきながら、会社をもち、若い人も育てている。でも、僕は55年前も今も食うや食わずで、やりたいことを探しながらどこにも行かなかったという話なだけなんだよね(笑)。

山崎 俺は、50歳を過ぎた頃300万円くらいで、自分で映画を作ろうと思っていた。すると、その1〜2年後に是枝から連絡があったので『ワンダフルライフ』(99年)を撮影。それには、素人の方が出演していたので、緊張せずに話せるよう、余計な機材を用いずに自然光や自然光風の撮影をおこなった。その後、是枝の『DISTANCE』(2001年)、『誰も知らない』(04年)、『花よりもなほ』(06年)、『歩いても 歩いても』(08年)などの撮影に携わってきた。また、河瀬直美の『沙羅双樹』(03年)、『2つ目の窓』(14年)、岩松了『たみおのしあわせ』(08年)をはじめ、若い人や新人に声をかけられることが多かった。 

山崎裕カメラマン

常に「関係性」の中で抗うしかなく
「自由の牢獄」を告発するのは全面否定の抗い方のみ

——そして新作『断食芸人』。まずは、20年来の足立ファンでありながら、いまだピュアな感性に打たれました。

足立 好きで撮っているからね、楽しかったの。

——そして、作品を2回観て、トークをお聴きし、『幽閉者(テロリスト)』を再度観ました。風景論の観点からも「息苦しく閉じ込められた世界・現代社会」で、「己のうつろな点を埋めようとしている」人々があふれかえる。でも、そこを「突破」しなければならず、「存在を問い返せば、時代と向き合って批評すれば、そのこと自体が社会への抵抗」なのだと。それが、足立さんの表現であり、運動であるのだと。『幽閉者』の「自分のやりたいようにやって、心の自由に向かって、最後まで走り続ける」とも重なると考えました。そこで、お2人が作品に携わられたときの意図や、作品のもつ意味をお聞かせください。

足立 安全神話がはびこり、恨む対象に自分を含めざるをえないという3.11後のまなざしに翻る構成とした。その後、人とのつながりが求められ、「おもてなし」まで到達し、時代はさらに軽薄化した。本作では、断食芸人はどこからきて何をしていてどこへ行くのかもわからない白紙の状態。何をするでもない、リアクションするものをもっていない。いっぽう、欲望が満たされるはずの外の人こそが、檻に入っているように見える。常に「関係性」の中で抗うしかなく、この現代の「自由の牢獄」に対する断食芸人の全面否定の抗い方が、時代を告発しているという構造になっている。そして、3.11に象徴される現代を自分の問題として捉えてこそ、人との関係を築き、動く形でも抗っていける。ひきこもりの青年、自傷の少女、断食の男、若い坊主などにこめた、「やりたいようにやればいい」も私のメッセージ。そこに行くために、「紙芝居」として、まだ何をしてよいかわからない女性の美大生は、自分の頭をかちわる「お地蔵さん」を置くことにより、「生きていく」ことを宣言したんだ。

山崎 昔のあっちゃんの映画を観ると、「フェミニスト」であることがわかる。あの「お地蔵さん」の若い女性も、そう。

——ラストシーンは原作にはありませんね。そこに、「最高傑作」と呼び声の高い本作に対する満足感や、人間の「生きる喜び」のようなものが表現されているのではないかとも思いました。

足立 体内からひり出したものは自分でしかないわけで、自分を食ったらうまいに決まっている。断食芸人のもとに集まる人々は何かを求めているが、自分の器に合わせた発言しかしない。断食男は、それを批判するわけがなく、黙って聞いている以外ないんだ。そして、吉増剛造本人が照れたあの絶叫する朗読のシーンは、「それぞれがそれぞれであることによって関係する」「お祝いの言葉を断食男に述べる」ということを象徴している。

撮影後、ハンスト中の大学生に連帯を求めたが、僕のこともカフカも知らず、作品名を「『だんしょく』芸人」と読む。すると、僕やカフカが造形、イメージしている世界と、彼らのそれとの間に、ギャップが出てくる。そんな僕たちとの間にはギャップの生じる彼らやSEALDsも、自前で声を上げ始めた。「この映画を作ってよかった」と喜びを感じたし、彼らは加齢臭の僕たちにかまうことなんてないんだよ。

『断食芸人』より ©2015「断食芸人」製作委員会
▼page3  芝居している内容が信じられるものとして 観る者に見えるかどうか につづく