根間智子「paradigm」
■変容する沖縄イメージ
先日都内で公開された根間智子の写真展示「paradigm」(表参道画廊・1月18〜30日)と奥間勝也の監督作品『ギフト』(2011)、『ラダック:それぞれの物語』(2015、山形ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波奨励賞)(成蹊大学・2月7日)は、共に従来の沖縄イメージの表象からは明確に距離を取り、またイメージが沖縄へと囲い込まれることから逃れていく様を撮りえていた点で、多分に共鳴するものがあった。
たとえば同名の写真集(小舟舎)がもとになっている根間の展示は、色、形、線の過剰なぶれが写真間、ギャラリー空間、観者を貫いて振動してくるようなイメージを形成していた。
奥間の作品はそれぞれ沖縄の那覇とインドのラダックを舞台にしていながら、土地の記憶や世代間継承、グローバル資本と軍事主義に翻弄される周縁への視線といった共通した主題を持っている。両作品とも映画を撮るプロセス自体を見せることで映画における語りの形式が前景化され、大きな物語には回収されない中断や不和やずれを含む多層的な語りが映画のなかに折り込まれている。
根間の写真と奥間の映画に共通して言えるのは、イメージが現実や出来事をなぞり従属させられたり、あるいはそれらを所有するのでもなく、現実や出来事との距離自体を呈示したり見えなくする操作を通じて、言わば現実や出来事の可能性の条件をあぶり出すことによってイメージが距離自体として現前する瞬間を捉えている点にあるとは言えないだろうか。
そのようなイメージは写真や映画というメディウム自体の様式を問い直しながら、イメージを本質主義や反本質主義といった共犯的な理解の枠組みに閉じ込めることなくイメージとして肯定し直す思考と実践に開かれているように思えたのである。こうした印象はまた、両者とそれぞれの会場でトークを務めたキュレーターの岡田有美子氏との対話で紡がれた言葉からも喚起されるものであった。沖縄をめぐるアートや映画、イメージ、そしてそれらを語る言葉が大きく変貌を遂げようとしていることを感じさせた。
奥間勝也『ギフト』(2011)より
■沖縄イメージの捏造
一方であらゆるメディアや論壇の別なく、またその政治的主張を異にしていても、沖縄なるもののイメージがそこでは共有されている気がしてならない。現在に至るまでのこうした沖縄イメージの生産・流通・消費のサイクルに、米軍統治期の民族的プロパガンダが関わっているのは間違いないだろう。米軍が「沖縄=琉球」という規定を喧伝しだした50年代末、米軍の統治政策は「銃剣とブルドーザー」による圧政から、米国の政策・国際的な役割に対する理解と認識を得るための住民の馴致・宣撫政策へと転換していった。反共と琉米親善が統治の骨子に据えられ、日本への帰属意識を薄めさせ復帰運動を抑制するために、住民には「琉球人」としてのアイデンティティを育成することが奨励されたのである[i]。
その宣撫工作として重要な役割を果たした米軍発行の日本語の月刊誌『今日の琉球』(57年創刊)と『守礼の光』(59年創刊)では、伝統文化や伝統芸能が繰り返し特集され、琉球の独自性が強調された。またその一方、沖縄=日本という言説も「祖国復帰運動」に限らずあらゆる領域で大量に生産された。沖縄イメージが今日いかなる文脈で想起され使用されようとも、認識形成の根本的な次元を貫いている歴史性、政治性、体制と決して無縁ではないのである[ii]。
だから、真の沖縄の風景や沖縄を語る言葉が他にあるといいたいのではない。対抗的なオルタナティブもまた、代理=表象の機制から逃れられず、対抗という相互規定的な構えにおいて当のイメージの流通の磁場から自由ではないからだ。問われるべきは、共犯的に再生産され続ける沖縄をめぐるイメージと、これらのイメージを感性–情動的なものの配分に関わって成立させている、「美学的体制」[iii]そのものである。
■「相容れないわけではない」共同性の場
氾濫する沖縄イメージに異を唱え、制度化された美的イメージを攪乱しだすプロジェクトの始動として今回取りあげるのは、根間や奥間や岡田も参加している雑誌『las barcas(ラスバルカス)』である。スペイン語で「小舟たち」を意味する『las barcas』と名付けられたアートと批評の雑誌が沖縄で創刊されたのは2011年7月。2012年10月には2号が発売され、別冊号(2014年10月、以下『別冊』)で通算3冊目。
『las barcas』に参加しているのは、沖縄を中心に/沖縄に関わって創作をしている写真家や現代美術家、キュレーター、映像作家、映画祭スタッフ、文学や美学を専攻する研究者、小説家たちである。主宰の仲宗根香織は、沖縄のインディペンデントの写真雑誌『LP』の編集を経て『las barcas』を立ち上げた。そのきっかけは2011年3月11日の大震災後、被災地から遠く離れた沖縄でもみんなが失語的状況に陥ってしまったことへの危機感だった。創刊号の巻頭に掲載された仲宗根の「漕ぎ出す前に」という文章には、混迷のさなかにあって、こわばった身体をほぐしながら航海をスタートさせる繊細さと力強さが同居した言葉がつづられている。この雑誌のコンセプトが明確に表現されていると思うので(また創刊号はすでに完売してしまっているので)、引用しておきたい。
果てしなく広い海に、ぽつりぽつりと浮かぶ何雙もの舟が集まって旅に出ることにした。
お互いを知る人もいれば、未だ知らぬ人もいる。
その中の一人が話し始めると、もう一人がその物語を引き受け、さらに、もう一人がその物語を描き出す。
リンクしているようで、していない、しかし、決して相容れないわけではない。
きっとこうやって繋がっていき、広がる世界があるはずだ。
海を進みながら、時には大波にまみれ、時には凪に漂う
夜の闇に光る一点の星を目指して、とにかく力を込めて丁寧に漕いでいく。
一つの場所に止まらず、言葉を生み出し、思考を巡らせ、身体から出てくる声に耳を傾けてみる。
漂流しながら、どこかの港に停泊して、寄り道しつつ、ゆっくりと言葉とアートの旅をしてみたい。[iv]
大海原で漂流と停泊を繰り返す小舟たちの、「相容れないわけではない」という共感とは異なる微妙な繋がりから生まれてくる言葉とアートをめぐる旅。ここには、自己を含めた大切な他者と一定の距離感を保ちつつ、共に漂いながら信頼や親密な関係を築いていくことへの意志が読み取れる。また「仮の停泊所、仮の避難所としての雑誌」[v]としても語られるように、同人たちにとって雑誌を作る営みがすなわち生きられる場をセーフティ・ネットのように編み上げていくことであり、同時にその時空間を漂うという運動にまかせることで、流動的で一時的な共同性を「仮に」作ることが目指されているのである。
『las barcas 2』と 『las barcas 別冊』表紙