【Book Review】 沖縄イメージの攪乱:『las barcas 別冊』text 松田潤

 現在発売中の『las barcas 別冊』。表紙の写真は根間の「paradigm」

■事物の現れ、時のかたち

では、こうした避難所(アジール)としての仮の共同性の場である『las barcas』において、沖縄イメージはいかにしてずらされ、意味を変様したものとして提示されているのであろうか。まず、端的に言って『las barcas』の作品群は、沖縄を撮り、描きながら一見して沖縄とは分からないイメージの集合によって構成されている。

『別冊』の表紙と巻頭に配置されているのは前述した根間智子の「paradigm」からの抜粋である。そこで写し出されるのは背景の青と黒に滲んでいる輪郭の曖昧な枝、無数の白い光の線、月の残像、画面一面を覆う雲などで、それらから名前のついた場所や地域を想起することは難しい。根間はこの作品制作のきっかけについて、車での移動中、手前の風景は高速に過ぎ去り、遠い風景は停止しているように遅く感じられる対称的な時空の違いを感覚したことにあると述べ、風景を認識することの困難を次のように言語化している。

風景が言葉として置き換えられ、認識したいと思った瞬間に風景が手からすり抜けていく。

見えているものを理解したいと思うことは、例えば、ピントがシャープにあっていないものを見ると、得てして感情が不安定にならざるを得ない。

私達は、いつも見えていたいのだ。普段、ピントがシャープにあっている写真に見慣れている私たちはいつも見ている風景も同じように見えているのだと思い込んではいないだろうか。

自ら風景を取り戻すことは可能だろうか。[vi]

移動中遠近の風景の速度感覚を決定しているのは、移動する主体の視界における視角の変化の振れ幅の大小であり、物理的には角速度の違いとして説明される現象である。近いものは視角の変化が短時間で大きくなるため早く移動しているように感じ、焦点を合わせる間もなく過ぎ去ってしまう。根間の慧眼は、この日常的な(しかし誰も気に留めることもない)瞬間の現象に着目し、像を結ぶ前の風景ならざる風景を可視化させ、逆にいつも容易に焦点化され像を結んでいる風景を見慣れない形で前景化したことで、私達の認識=知覚の中枢を支配し続ける視覚に対して疑義を呈したことにある。この見えないものを可視化させ、見えているものと「思い込んでいる」風景を不可視なものに変形させる操作は、私達の感情を不安定にし、知覚を宙吊りにしてしまう[vii]

こうした不安定な知覚=「パラダイム」への投企によってこそ、「かつてそこにあった」(バルト)ものとは異なる時空間の錯視が可能となり、常に既にすり抜けるしかない風景/イメージの取り戻しが速度の異なる時間を混交させながら始まるのだと思われる。

また根間作品のみならず、山城知佳子の「土の人」、仲宗根香織の「予感の断片」、阪田清子の「或る山についてのメモランダム」にしても、もちろんそれぞれ主題や方法は異なっていながら、沖縄らしい表徴の不在、そして事物たちの現れという点において作品横断的な関心を共有しているように思えるのである。

たとえば阪田作品においては、大きさや材質の異なる複数の四角形の紙が貼り合わされた白とベージュを基調とする矩形のキャンバスに、貝殻や枝や花や葉やその他何なのか判然としない素材が画面上の点として貼り付けられ(コンバイン)、この点を線が結ぶという形式が反復される。絵画における物質的次元を多焦点そのものの物質性によって強調しながら、点と点を結ぶ線を視線に追わせることで矩形空間内部の平面性にいっそう意識が向けられる。重要なのはその際貼り合わされた紙と線がキャンバスの辺によってぶつ切りにされることで、逆説的にも矩形の外部空間への意識が要請され、そこに平面の物質性が転移されていることではないだろうか。外部とはすなわち絵画の間に挟み込まれた「沖縄からは見えない山」をもつ故郷の風景や放射線量を記した14のメモからなるテクストであり、雑誌のレイアウト自体の矩形である。

それぞれの作品および物質性を備えたテクストは、『las barcas』というフォーマットの中で、一つの完結したリシーズを目指しているというより、複数の事物の複数の時空間が相互に連鎖しあうシークエンスを「作品横断的」に構成していると見なすことが可能である。宙吊りされた知覚が錯視する歪な風景や(根間)、切断された諸身体やモノたちからなるもはや人間なのかも不明な集合体(山城)、予感という未来系の時制において多層空間を静かに横切り逃れていく断片的ないくつもの線や(仲宗根)、併置されたテクストさらには雑誌という枠そのものへ転位的に拡張・拡散し入れ子構造を形成する絵画の平面性および物質性(阪田)。これら事物の痕跡たちが、潜勢や折り重なりや逃走や拡散という異なる時間性(系統年代systematic age)を宿した運動において相互連鎖的に現れるとき、さまざまなシークエンスが重なり持続していくことを通して事物はまた新たにつながり、「時のかたち」として出来していることを見逃してはならないだろう[viii]

仲宗根香織「予感の断片」

■反・作品としてのアート

大事なのは、時のかたちとしての事物の現れを作品や作家のテクストにのみ還元するのではなく、批評的テクストとの往還の直中で見て/読んでいくことだろう。それは『las barcas』を作家と批評家の役割分業的な労働の成果としてではなく、作品と批評が他者を聞くという構えにおいて相互に作用し変形しあう協働の仕事と労働=反・作品として捉えることでもある。

酒井直樹は、未知なるものへの接近という努力を要する仕事が、「私を生み出す労働/陣痛であると同時に、根本から私を変形してしまうもの」であり、この仕事(work)は「作品(work)」を生み出さず「欲望の核心を拡散させ、転位し、断片化する」「反・作品(unwork)」であると定義した上で、次のように述べている。

目的地に到着したいという欲望は、異なった社会関係に対する異なった欲望によって転位され、未知の言語を知りたいという欲望は、多くの互いに異質な欲望に分解し増殖するだろう。その結果、ジャン=リュック・ナンシーのいう「共同体」が、自己と異種混淆的な他者との間に介在してくることになる。[ix]

このような反・作品としての作品として『las barcas』を見ること/読むことはまた、刮目が要求されている限りにおいて読者にとっても骨の折れる労多き仕事となる。そうした労働への接近によってはじめて、沖縄イメージの諸々のクリシェにまつわる欲望が焦点を結ばないよう欲望を散らしてしまう「一定の術(アート)」[x]を読者も習得することが可能になるに違いない。「オール沖縄」や独立やアイデンティティの唱和が喧しさを増せば増すほど、そうした術(アート)がいっそう大切になってくるはずだ。

雑誌『las barcas』におけるアートと批評の戦略に賭けられているのは、事物の現れにおいてイメージを捉えることで、沖縄をめぐる既存の表象枠組みから撤退し、私たちの欲望を再配置し、まなざしを鍛えなおしていくことである。それは同時にこれまでとは異なる異種混淆的な他者たちからなる社会関係へと読者を含めて投企していく実践であり、アートの政治性を極めてラディカルに予示するのである。


[i] 宮城悦次郎『占領者の眼:アメリカ人は〈沖縄〉をどう見たか』那覇出版社、1982年、256頁。

[ii] 沖縄を琉球として、あるいは原日本として見つめる視線の連なりに軍事占領の視線があることを忘れてはならない。徳田匡は、米軍政における統治の視線が『守礼の光』のカラー写真を通して「離島」にまで行き渡っていたことを指摘し、東松照明の撮影した沖縄の写真にこれらカラー写真との「視線の重なり」を読み取り、次のように述べている。「東松が見いだそうとした「アメリカ離れ」の旋回軸としての沖縄の島々における無垢な日本の発見と、島々から東南アジアへという視線の移動は、しかし、そのアメリカによる、軍事的な旋回軸としての沖縄を中心にした日本本土から東南アジアを貫く視線の移動と、パラレルな位置にあったと言わざるを得ない」(「〈占領〉とカラー写真:東松照明と島々」『現代思想』青土社、2013年5月臨時増刊号、210頁)。

[iii] ジャック・ランシエール『イメージの運命』堀潤之訳、平凡社、2010年(原著は2003年)、特に一章を参照。

[iv] 仲宗根香織「漕ぎ出す前に」『las barcas 1』小舟舎、2011年7月、1頁。

[v] 「カルチュラル・タイフーン2014パネルトーク収録:雑誌『las barcas』―「世界」と「沖縄」を横断するアートと批評」『las barcas 別冊』小舟舎、2014年10月、48頁における新城郁夫の発言。

[vi] 同上、44頁における根間の発言。

[vii] ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り:注意、スペクタクル、近代文化』岡田温司監訳、大木美智子、石谷治寛、橋本梓訳、平凡社、2005年(原著は1999年)。

[viii] 事物の相互連鎖的な時間性、シークエンスとシリーズの差異についてはGeorge Kubler, The Shape of Time: Remarks of the History of Things, New Haven: Yale University Press, 1962を参照。

[ix] 酒井直樹『日本思想という問題:主体と翻訳』岩波書店、1997年、Ⅴ章を参照。

[x] 同上、38頁。酒井は「日本思想史を構成する諸条件を歴史化する一種の反歴史的な「歴史」」を、欲望を散らす「一定の術(アート)」と呼んでいる。

  
『las barcas 別冊』写真が多数掲載されているのも特徴 

【雑誌情報】

『las barcas』

※現在は 『las barcas 2』    850円+税
             『las barcas別冊』 1800円+税 のみ発売中

問合せ、バックナンバー販売店、その他最新情報は下記公式サイトへ

公式HP:http://lasbarcas.net

【写真展情報】

根間智子写真展『Paradigm』

那覇・小舟舎
2016年4月8日(金)〜4月17日(日)
月〜木休み。13:00—19:00

沖縄県那覇市楚辺1-5-10 盛ビル3F
TEL 098-996-5025

※上記日程以外は要予約 (予約メール)

http://kobunesha.com/news/nemasatokoexhibit/

 

【執筆者プロフィール】
松田潤 (まつだ・じゅん)
1987年、沖縄県生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在学中。専攻は沖縄文学・思想史。論文に「非人間的なものたちの生命線:阿嘉誠一郎『世の中や(ゆんなかや)』論」(『言語社会』9号、2015年3月。)

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