【Review】「無音」と「叫び」の境を生きる 原村政樹監督『無音の叫び声』 text 菊井崇史


木村迪夫氏 田植えの間の休息 ©『無音の叫び声』製作委員会

「戦後、痛切なことばかり多かった時間を経て、思想というもの、それを生かしめる生命力を、もはや虚像ではなく自分のものにする以外、生きる方法がなくなったとき、生活の場をうつしてみる方法があった。新しい視点が必要だった。(「木村迪夫への手紙」)」

わたしがはじめて木村迪夫の名を見覚えたのは、この文が掲載された黒田喜夫『詩と反詩 全詩集・全評論集』(68)だった。本作『無音の叫び声』を観るにあたり、同文に記された「私はいま、貴君を含めて、われわれというのですが、われわれの本当の仲間はまだ少ない。つまり日本民衆の最下層から、生まれ、労働生活とともに育ったというような、新しいインテリゲンチャは少ない」との黒田喜夫の言述に示された、木村迪夫を巡る「われわれ」の実状を確かめたかった。繋がりは、自明ではないからだ。この「われわれ」には、亀裂が奔っている。「貴君は直接、土と結びつけられている」と告げられた木村、「私は村から離れた」と吐露しなければならなかった黒田自身の生の磁場との差異がまずある。だが、黒田は、その隔たりをかかえこむ繋がりを木村に覚えていた。木村もまた、真壁仁を第二の父、黒田喜夫を兄と、敬意の念を明らかにしている。その根拠、可能性をしることは、木村と黒田の固有を超えて、今、「農」との関係を見据えた「われわれ」をとらえられうるのではないか。

2013年2月から撮影されたとされる、木村迪夫の日常を基軸に、映画は彼の生涯をおう。山形県上山市牧野で小作人の長男として生まれ、戦争で父、叔父を亡くし、戦後自作農となるも出稼ぎや廃棄物収集業にたずさわった彼の生涯は、「村」「土と結びつけられ」、戦後の変遷を痛切に被ってきた。木村迪夫の詩は、「村」「土」にもたらされた状況にこそ「結びつけられ」たものだ。木村の六〇年間に渡る詩作、十六冊におよぶ詩集において、詩語の変遷があり、一概に括ることはできないだろうが、彼が「農民詩人」と称されるゆえんだ。木村の詩は、この基底において、悲しみ、怒り、呪詛の情を宿している。

しかし、本作『無音の叫び声』は、慎ましやかに、すすむ。室井滋のほがらかともいえるナレーションとあいまって、穏やかさを貫いている。例えば、本編に挿される、三里塚を撮った小川紳介監督の映画にある「叫び」の直接性が、本作には封じられている、そう意図されているのだ。農村、農民を撮りつづけた原村政樹監督の映画文体の選択が確認できる。前作『天に栄える村』についてのインタビューで「僕の中で百姓魂を伝えたいというのは別の意味があって、単純に「こんなひどい目にあって」という嘆きとか怒りとかを伝える映画では終わらせたくなかったのです。怒りながらも、彼らはどのような日常を生きるのか、あるいはどのような生き方をしているのか。(http://webneo.org/archives/27119)」をこそ見せたいと言及した原村監督の映画の話法は、『無音の叫び声』に維持されているのだ。

左より、小川紳介、木村、真壁仁(詩人)  ©『無音の叫び声』製作委員会

映画は、「農民詩人」としての木村迪夫のみにフォーカスをあてることはなく、ひとりの人間としての彼のひととなり、生きざま、幾多の生との関係をうつし、彼の瞳、視座をとおすことで、「農」の実状に迫り、届こうと試みられている。そして木村の言葉、書記にたいする態度も同様だ。だから、「単に人間の原点としての農業、というわけにはいかない」「人間の原点を支える農業というよりは、農業が現代社会の中でどういう位置づけにあるかを合わせて考える(〃)」という課題は、言葉の問題にも適されるはずで、木村の詩を「どういう位置づけにあるかを合わせて考える」必要がある。本作に幾度となく挿される彼の詩をいかに受けとるかが、「土」と「村」、国家、共同体との関わりを逆照射し、炙り出す側面があるからだ。

本作中、木村は、彼のもっともよく知られた詩篇のひとつだろう「祖母のうた」を朗読し、詩篇が、自ら書いたのではなく、祖母が幾度も口にとなえた「うた」を書いたものだと告げる。彼女は、言葉の読み書きができなかったと。「にほんのひのまる/なだてあがい/かえらぬ/おらがむすこの ちであかい」との詩行が示すよう、「うた」は呪詛の調べをもっている。「皇国」ですらあった祖母が、息子、木村の父の戦死を機に、急転し、戦争に対する怨念をふくらませ、その呪詛、悲しみを農作業にうたい、「労働歌」になったのだと木村は詩の出自を回顧する。本作を観る者はここで、「うた」が表裏なのだとしる。確かに、「祖母のうた」には、国家に対する呪詛の念が「おれのうたなの/うただときくな/なくになかれず/うたでなく」と苦渋によまれ、籠められている、だが、その言葉は、「皇国」の念が反転するように、表裏に生じたものだと。

木村迪夫は、この構造に自覚的だ。この心情は、国家と農地の関係にさえ見られるものだった。試写に配られた資料に引用掲載された文「遥かなる足あと――四〇年経った戦没家族の手記」に、木村は、日本の軍国主義のみを糾弾せず、農村、農民、国民、土地と国家の関係に真向かうことで、責任の所在を短絡に結論づけることなく問いただし、体制加担へのおそろしさを記している。おそらくは、木村の理性が、先の詩をいわゆる「心情詩」と一線を画すものとしている。戦争で父を、子を、親しい人間を失うことの烈しい痛苦を経験し、だからこそ、彼は先の詩を直情的に記したわけではないはずだ。撃つべきを撃たねばならない、その対象に「土」「村」に生きる人が含まれていたとしても、だ。いたみが、「無音」と「叫び」の境で響いている。木村の視座において、「祖母のうた」に宿り放たれる怨念は、国家と同時に、自身が生き、住まう「村」にさえ襲い被さりうるものなのだ。

木村の上梓した詩集 ©『無音の叫び声』製作委員会

黒田喜夫は、木村迪夫だけでなく、当時書かれた「農民詩」にたいする批評のまなざしをむけながら、擁護、批判を記した多くの文を残したが、彼自身は「新しい視点」を具体すべく、先の枠にのみには依拠しえない差異、距離を解消することなく、詩作をはたした。

木村はどうか。木村は、詩の営為の初期、「村」「農民」への埋没を「個」として拒絶する意図があったと述懐している。『無音の叫び声』をとおし、わたしには、「農」にも詩にも一筋縄に腑分けできない木村の長年にわたる営為が、「村」から「個」としての自立のみならず、「農」「村」の自立が意志されいるのだと覚えた。この自立の可能性を模索する過程で木村は、小川紳介はじめ、外部を召還したのだろうと。「村から離れ」ながらに、「村」「農民」さらには「飢え」を、自らの思想の位相において枢軸に据えつづけた黒田喜夫と、「村」「土と結びつけられ」ながらも自立を模索しつづけた木村迪夫の位置の渦中に、黒田が示した「われわれ」という関係は、明るみの一端をひらいておもえた。

この課題は、現在に地続きであり、さらに「農」「村」だけの問題では、断じてない。「戦争詩」と「反戦詩」の表裏の関係だけでもなく、現在、多くの「震災詩」に覚える拭えない違和は、この表裏を鑑みず、共同体の紋切り型の「心情詩」として圧を生み、生の自立、自律をさえ無化し、埋没させ書かれているとうつるからだ。「にほんのひのまる」が「ちであか」く染まるように、「ひのまる」の「あか」は「ち」に流れこむ。径庭は容易に消滅する。小川紳介が牧野を撮るなかで「日本のいちばん底にある――なんていうか、天皇制の問題と否応なくぶつかる(「映画を穫る」)」と述べていることは、この事態と決して無縁ではない。三里塚での闘争、決死の体験を経た小川紳介は、土地の外側から農民を撮っていた、土地の内部から映画を撮る必要があるとの認識で、木村と同意し、牧野にうつったという。小川は、「稲の言葉が聞きたかった」とも述べている。

田中泯の厳かな朗読は、木村迪夫の詩語に籠められた音域を過不足なく湛え、届けていた。誠実な声だった。三月三〇日、日本外国特派員協会主催試写会で、原村監督は、田中泯が本作の朗読参加にいたったいきさつを話した。小川紳介監督『一〇〇〇年刻みの日時計 牧野村物語』に、田中の師にあたる舞踏家土方巽が出演しており、既に、病に侵された晩年の土方は、それをかくし、スクリーンにうつる彼の舞踏が、最高のものだと田中は感じていた、そのなみなみならぬ想いが、今、ふたたび木村迪夫を契機とし、牧野に収斂したのだと。構想から五年、三年がかりの撮影に成立したという本作は、それ以上の時間が籠められている。田中泯だけではなく、映画から伝わる木村迪夫のひたむきさ、やさしさ、言動が多くの人を繋げてきたのだ。原村監督は、木村迪夫が農業から芸術へのベクトルをにあり、反対に、田中泯がもつ芸術から農業というベクトルを衝突、交錯させたかったと告げていた。それは本作の姿勢だ。『無音の叫び声』は、「農」「村」の外部と内部の均衡を保つ位置に、木村迪夫、そして牧野の現在をうつしていた。「無音」と「叫び」の境を生きる地、人間を。

小川紳介にうながされて、木村迪夫は初めて16ミリキャメラを覗いた(山形の小川プロの宿舎にて)©『無音の叫び声』製作委員会

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http://trylinux.org/product/ Buy Propecia Online 『無音の叫び声』
(日本/2015年/122分)

監督・構成・編集:原村政樹(『いのち耕す人々』『天に栄える村』)
語り:室井滋 
朗読: 田中泯
撮影: 佐藤広一 渡辺智史 原村政樹
音楽: 佐々木良純
題字・絵画: 草刈一夫
音声:佐藤広一  松田健史  渡辺一徳
制作助手: 松崎光博  石坂康平
写真: 阿部洋子
宣伝美術:玉津俊彦
配給宣伝協力:きろくびと
企画・製作・配給: 映画「無音の叫び声」製作委員会

buy viagra online canada 4/9(土)より 東京・ポレポレ東中野でロードショー(連日10:50/15:20)
ほか全国順次公開

4月10日[日]  13:30/18:00 長井市民文化会館(山形県長井市)
4月15日[金]  19:00(1回のみ)下高井戸シネマ
5月21日[土]〜6月3日[金] 川越スカラ座
6月4日[土] 時間未定    若柳総合文化センタードリーム・パル(宮城県)
6月5日[日] 時間未定 仙台市内の公共施設
8月11日[木・祝]  10:30/15:00 フレンドリープラザ

公式サイト:http://www.eiga-muon.net/

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http://gravityvortex.com/media/ cialis online 菊井崇史(きくい・たかし)
大阪生まれ。東京在住。
詩、写真を発表。
文芸、映画評論を執筆。
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