【連載 批評≒ドキュメンタリズム③】クメール民話とアピチャッポンの東北 text 金子遊

 

世界中に点在する「東北」

どのような国家や地域であっても「東北」をもっているように、それがどこの誰であっても、わたしたちは内なる「東北」をもっている。

それは、ただ単に中央からながめられたときに、地理的な周縁や辺縁ということを意味するのではない。その場所で、わたしたちは目に見えない存在へと想像力をはたらかせ、さまざまな霊的な接触をおこなう。そこは実在する場所というよりも、魂の所業をつかさどる場としてあるのだ。いってみれば、「東北」というものは、わたしたち個人個人の存在をこえた種がかつてやってきた故里なのであり、死したのちに還っていく地をふくむ根の国なのかもしれない。

アピチャッポン・ウィーラセタクンが監督した『光りの墓』(2015年)に登場する、ピー信仰のお堂の祭壇を見たとき、わたしにはピンとくるものがあった。そこに飾ってあるふたりの王女さまが顕現して、主人公の女性ジェンと対話するシークエンスを見て、わたしが想起したのは、ふしぎなことにタイの東北部であるイサーンではなく、ブラジルの東北部である「セルタン」のことだった。アピチャッポンのインタビューを読んで、その唐突に思われたひらめきは確信に変わることになった。彼はイサーンのコーンケンという町で少年時代の15年間をすごしているが、その町を舞台にした『光りの墓』(タイ語題では『コーンケンへの愛』)という映画に関して、次のような発言をしている。


イサーンは、かつてカンボジアとラオスという異なる帝国から成り立っていて、それは、バンコクが東北部の顕現を掌握し、統一化(またはタイ化)するまで続いていました。僕の家族は、僕が生まれる数年前にバンコクからイサーンに移りました。イサーンは、乾燥地域で、(バンコクがある)中央平原のように恵まれた場所ではありません。しかし、僕にとっては、クメールのアニミズムを伝える、とてもカラフルな場所です。イサーンの人々は、日常生活に生きているだけでなく、スピリチュアルな世界にも生きています。そこでは、単純な事柄が魔法になるのです。(「
DIRECTOR’S INTRVIEW」プレスリリースより)

「東北」というトポスが特権的な場をになうという問題は、なにもタイに限られたことではない。ブラジルの国土の約半分を占めるアマゾンの熱帯雨林は有名だが、北東部に広がるセルタン(奥地)については意外と知られていない。ピアウイー、セアラ、パライーバ、ベルナンブッコ、アラゴアス、バイーアといった州の内陸部には、降雨量が少なく、旱魃や飢饉が起こりやすい乾燥した荒地が広がっている。きびしい条件のなかで細々と農業や牧畜が営まれ、商業的にうるおう沿岸部に比べて観光も低迷し、ブラジル国内でも特に貧しい地域である。また、セルタンから都会へ出ていって、その多くがファヴェーラ(スラム街)の住人となってしまうという図式もある。

50年代から60年代にかけて活発化したブラジル映画のシネマ・ノーヴォでは、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが『乾いた人生』(63)、グラウベル・ローシャが『バラベント』(62)や『黒い神と白い悪魔』(64)や『アントニオ・ダス・モルテス』(69)を、ブラジルの北東部の文化、信仰、口承文学、歴史などをインスピレーション源にして映画を撮った。東北のセルタンは極度に不毛の土地で、その乾いた大地で暮らす農民たちは、独特のメシアニスモや口承文学をもっている。また、バイーアでは黒人奴隷の末裔たちのアフリカ起源の憑依宗教とインディオの宗教やカトリックが習合して、カントンブレやウンバンダと呼ばれる民間信仰が生まれており、その東北的なフォークロアがブラジルらしさとして映画作家たちに再発見されたのだ。

また、日本列島においても東北は、国土の統一をはかろうとした朝廷や幕府の前に、何度も蝦夷などの異族が住む未踏の地として立ちはだかることになった。大地震や津波の被害をくり返し受け、農民たちが冷害や飢饉に悩まされてきた土地でもある。その過酷な自然環境と風土の上にこそ、恐山や出羽三山のような霊山への信仰があり、『遠野物語』のような豊かな口承文学における精霊や妖怪たちの存在があるのだ。口寄せをするイタコだけではなく、民間のなかにもオシラサマ信仰が広まり、神に憑かれた普通の家の主婦が、ある日突然旅に出て、お布施をもらいながら占いをして歩く「歩き巫女」という風習も見られた。そのような中央とは異質な「東北」のフォークロアが世界中に点在していて、平地人を戦慄せしめるような世界観を提示しつづけてきたのだ。

 ※ブラジルの黒人宗教「ウンバンダ」の祭壇(筆者撮影)

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