アピチャッポンの個人映画
2013年にアピチャッポン・ウィーラセタクンが「東京フィルメックス」の講師で来日したときに、立ち話をしたことがある。タイの言葉は、日本語話者であるわたしたちが聞くと、とても音の響きがやさしく聴こえる。そのこと以上に、アピチャッポン自身がとても物腰のやわらかな、ちょっと人見知りをする感じの繊細な人物だという印象を受けた。いわゆる「映画監督」という、現場で多くのスタッフやキャストを指揮する人物のイメージからかけ離れている感じだった。物書きでも映画作家でも単に作品で知っているというだけでなく、直接会ってみることは大切で、それによってわかってくることもある。
このことは、彼のアーティストとしてのキャリアを見てもわかる。アピチャッポンは1970年生まれだが、93年に留学生として、アメリカのシカゴ美術学校というシカゴ美術館付属の学校に留学して、そこで4年間をすごしている。そのときの先生のひとりにダニエル・アインバーグという人がいて、彼は映像アートをつくる映像作家である。アインバーグが『アピチャッポン・ウィーセタクン』(ジェイムズ・クァント編、未訳)という書物のなかで、こんなエピソードを紹介している。学生時代のアピチャッポンにいろいろと実験映画を見せたら、マヤ・デレン、ジョナス・メカス、スタン・ブラッケージ、アンディ・ウォーホルの映画や話題に反応していたという。それらの実験映画と出会い、シャイな性格であったアピチャッポンは、個人で映画をつくることを決意したのだ。
※『光りの墓』より
アピチャッポンが大学からもらった製作費を使って16ミリフィルムで制作したのが、処女作の『弾丸』(93)や『ダイヤル011-6643-225059をまわせ!』(94)といった短編映画である。『弾丸』という作品は、1920年と21年にシカゴで撮られたニュースフィルムを持ってきて、それをオプティカル・プリンターで再撮影した作品だ。ニュースフィルムの一部を最大限に拡大して、それが具体物ではなく抽象的な模様になるまで拡大している。さらに動きをだすために、再撮影のときにカメラを移動してみせる。後半になると作品が複雑に展開してきて、多重露光を使ったり、フィルムの乳剤面をひっかいたり、直接ペインティングをしてみたりと工夫された作品いになっている。
フランスでいえば、イジドール・イズーやモーリス・ルメートルといったレトリスム映画の作家たちがおこなった、「切り刻み」の手法やディスクレパン映画に似ている。アメリカの実験映画でいえば、スタン・ブラッケージらのペインティッド・フィルムのような手法も使われている。しかし、93年の時点で『弾丸』が広く上映されたとしても、あまり見る人にインパクトを与えることはなかったのではないか。昔ながらの実験映画における伝統的な手法をつかい、完成された作品をつくったという程度の評価しか受けることはできなかっただろう。
『ダイヤル0116643225059をまわせ!』のタイトルになっているのは、タイのコーンケンで暮らす実家のお母さんへの電話番号である。こちらもモノクロームの16ミリフィルムを使った実験映像だが、『弾丸』よりも見応えがある。アピチャッポンのアメリカ留学先のアパートの部屋の映像と、タイにいるお母さんの写真がカットバックされて、そこにお母さんが延々と話す声がかぶさる。そのうちに、その声が段々とノイズまじりになって、最後にはヒップホップにおけるスクラッチの手法のように、ノイズ音がリズミカルに刻まれる。このような方法は60年代や70年代の実験映画にはあまり見られず、90年代のアピチャッポンならではのものだといえる。また、ここにはすでに『ブリスフリー・ユアーズ』(02)や『トロピカル・マラディ』(04)や『世紀の光』(06)で見られる、2つのまったく別の映像的な要素を、並列的に示すという試みがなされている。
※アピチャッポンの短編映画『Ashes』より
アピチャッポンが、ただ単に若い頃に実験映画をかじって、そこからドキュメンタリーや劇映画の方向へ進んだ映画作家であると指摘するだけでは、何か大事なものが抜けてしまう。なぜなら、彼はその後もずっと一環して実験的な映像やビデオアートを撮りつづけているからだ。たとえば、2012年の『ASHES』は、LomoKino MUBIという35ミリフィルムのトイカメラを使った作品である。フィルム文化が廃れようとしているこのご時勢にあって、手回しのクランクで、フィルムを回転させて撮影できるのだ。シネスコよりも、さらに横に長いフレームサイズを使っているところもおもしろい。
『ASHES』は、キングコングという名前の犬との散歩風景を撮っている。キングコングはアピチャッポンが子どもの頃に夢中になった映画だ。その映像が途中で上下に二分割されたり、吉増剛造の写真のように多重露光で重ねあわされたり、遊び心に満ちている。よく映像を見ると、映写機の回転によって微妙に振動しているので、多重露光はデジタルの編集段階で重ねているのではなく、スクリーン上に何台もの映写機で同時に投影してそれを再撮影しているか、あるいはカメラ内で撮影するときに重ねているか、あるいはその両方をやっているように見える。また、フィルムで撮影して、それを現像し、森のなかでピクニックをしながら、スクリーンを貼って、撮影したものを投影するという「プロジェクトとしての映画」の全体を記録する側面ももっている。
▼page4「プロジェクトとしての映画」につづく