【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」第21回 『東本願寺 声明集 1』


浄土真宗のキモが分かる「正信偈」

せっかくここまでくると、ニャムニャムニャムニャムナー……の意味は、さすがに少しでも知っておきたくなる。
図書館へ行き、『傍訳 原書で知る歎異抄・正信偈・和讃』(2006/四季社)を借りて、本盤と照らし合わせた。A面の最初で唱えられる「正信偈(しょうしんげ)」は、親鸞の主著『教行信証』にある漢詩。真宗僧侶の勤行や通夜の席などで、最もよく選ばれる経文とのこと。

この「正信偈」が、親鸞の考えの代表的エッセンスと考えてよいようだ。計120句と長いので、冒頭のみ書き起こして、原文と並べてみる。現代語は、前述書の訳を僕なりにもう少しひらたくしたもの。

きみょうむりょうじゅーにょらい
帰命無量寿如来
「無量寿如来」(悩めるひとをお救いくださる阿弥陀仏)を心から信じ
なーむーふかしぎこう
南無不可思議光
はかりしれない智慧の光にすべてをゆだねます
ほうぞうぼーさーいんにーじー
法蔵菩薩因位時
あなた(阿弥陀仏)がまだ「法蔵菩薩」の名で修行し
ざいせーじーざいおうぶっしょー
在世自在王仏所
「世自在王仏」を師としていたころ
とけんしょーぶつじょーどーいん
覩見諸仏浄土因
あらゆる御仏が住む世界の成り立ちと
こくどーにんでんしーぜんまーくー
国土人天之善悪
その土地の人と天の良し悪しを見極め
こんりゅうむーじょうしゅーしょうがん
建立無上殊勝願
浄なる世を建立する無上の願いを立てられました

……このように「正信偈」は、あるべき信心の持ちようから始まって、阿弥陀仏、釈迦から法然にいたるまで、親鸞が学びを得た高僧のあゆみを順次リスペクトしていく内容だ。
割と混同されがちだと思うので書いておきますが、阿弥陀仏と釈迦は別の仏さま。 阿弥陀仏は、宇宙最尊の仏であり、諸仏の王。釈迦は地球上でただひとり仏の悟りを得た者だけど、宇宙規模においては、あくまで! 阿弥陀仏の弟子のひとりなのだ。




阿弥陀仏is宇宙ナンバーワン、なんて。スケールがでか過ぎて圧倒されてしまうものの、「正信偈」の構成自体は、現代人の僕らにも呑み込みやすいものだ。新書のタイトル風に言えば、
『ぼくはこんな仏・高僧から学んできた ―親鸞が選ぶ、浄土真宗のベースをつくったレジェンドたち―』
という感じ。怒られるかな……。ともかく、どういう内容なのか大掴みできると、声明の有難味も増してくる。

しかし、僕はこうしてモタモタとした理解のスピードだが、世の中、こういう音を求めるマーケットは確実にあるのだ。最近、最寄りの山野楽器を覗き、「お経」のコーナーがしっかり用意されているのを見つけて唸った。東本願寺の声明の最新録音を始め、曹洞宗、天台宗……各宗派のCDがズラリと揃っていた。 (冒頭に書いた孝信さんのCDも、確認で教えてもらうと、1985年に丹波明の監修で真言宗の声明を録音した、本格的なものだった)


親鸞の教えをポピュラーにしたのは蓮如

さて、親鸞の教えは鎌倉初期に確立されたものの、一気に庶民の間に……とはいかなかったようだ。そらそうだ、と思う。漢詩で、やっぱり難しいもの。
そこで登場するのが、時代がくだって室町時代の本願寺第8世門主・蓮如。 蓮如は親鸞の教えの要点を短くまとめ、平易にかな書きされた手紙を全国に送った。手紙は各村の寄り合いの場で読まれ、親しまれるテキストとなり、門徒が爆発的に増えることとなった。 それが本盤にも収録されている「御文(おふみ)」だ。「御文」のみ声明ではなく、ひとりの僧侶の読み上げ。今でいうボーナストラックか。

それ人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに
およそはかなきものは この世の始中終(しちゅうじゅう)
まぼろしのごとくなる一期なり
されば 未だ萬歳(ばんざい)の人身をうけたりということを聞かず
一生すぎやすし
今にいたって誰(たれ)か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや
我や先 人や先 今日とも知らず 明日とも知らず
遅れ先立つ人はもとのしずく 末のしずくよりも繁しと言えり
されば 朝(あした)には紅顔あってゆうべには白骨となれる身なり

「御文」の中でも有名な一通、「白骨」の一部を、岩波文庫の『蓮如文集』(1985)などを参考にしつつ書き起こした。おそろしいほどの名文だ。おれもおまえもみんな死ぬ、と容赦なく言い切り、グズグズを許さぬ清潔さに、フェアなあたたかみがある。




ハードボイルド調、私小説作家調、で意訳を試してみたが、結局は以下のような、読者に話しかける文体がしっくりときた。

人ひとりの人生なんて、はかないものだな……。
しみじみ、そう思うことはありませんか?
この世に生まれてから生を終えるまでの間は、あっという間。
まるで、まぼろしです。
多くを望んだところで、寿命が一万年なんて人の話を聞いたことがありませんよね(笑)。
人生は、みな平等に過ぎやすいもの。
一万年どころか、百歳になるのだって大変です。
先に逝くのはあなたか、それとも誰かか。今日なのか、明日なのか。
いずれにしても、終わりは訪れます。草葉の滴が散るよりも確かに……。
どんなにチャーミングな少年少女も、やがては骨になる。それが人間なのです。

そう、この、ライフスタイル指南エッセイのような伝わり方が、ミソだったんだと思う。 手紙のテーマはあくまで「念仏を唱えて阿弥陀仏への信心を獲得しましょう」にあるのだが、結論を急ぐ前に、あなたは人生についてどう思う? とゆっくり問いかけている。訴求対象に対して、まず自分自身の中に(救済への)ニーズがあることを自覚してもらう、というやつ。プロモーションやセールスのセオリーだ。 室町時代の庶民にとってこの、〈自分のことを一生単位で考えてみる/考える権利が自分にだってある〉概念の発見が、とんでもない、ワクワクするような文化的ショックだったのは容易に想像できる。


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