仏教本もレコードも、布教の努力から生まれる
実は蓮如がつとめるまでの本願寺は、門徒が減って寂れ、宗派の中心寺院としての面目を失ったボロ寺だったそうだ。それが、今なら『往生したいあなたへのメッセージ ~やさしくまなべる浄土真宗~』なんてタイトルが付きそうな手紙形式のガイドを書く、起死回生のアイデアによってみごと再興、現在の宗派の礎をつくることとなった。
蓮如って、マスコミ文化人として活躍する僧侶のパイオニアだと言えそう。一時期の五木寛之が熱心に蓮如を紹介していたのは、そういうことだったかとようやくナットク。
こうした歴史を知ると、仏教もタイヘンなんだな……と思うのである。 僕の世代はどうしても寺に、金もうけばかり優先しているイメージを持っている。幼稚園を経営したり、広い有料駐車場を持ったり。「葬式仏教」は完全に悪口。
でも、自分の代で廃滅させるわけにはいかない、開祖に申し訳が立たない、というプレッシャーの大きさは、日本の文化と歴史の根っこにガッチリ組み込まれてきたぶん、尋常ではないのだろう。
それに神道国教化を推進した明治時代の廃仏毀釈(仏教排斥)政策は、多くの寺院を破壊し、京都や奈良まで荒れ寺だらけにしてしまったと聞く。もしかしたらこれ、未だに仏教界全体のトラウマになっているんじゃないかな。
話や文章のうまい僧侶が本を出したりメディアに登場したりするのを見て、またビジネスにいそしんでら……と思う向きもあるでしょうが。僕は親鸞の思想と蓮如の努力を鑑みて、効果的な布教と経済は、現世では分けては考えられないのだと理解したい気がするのだ。
本盤にも当然、声明に取り組む僧侶や門弟向けでありつつ、世に浄土真宗を広めたい望みはあったはずだ。 訓覇信雄宗務総長は解説で、「此度、ミノルフォンレコードの協力により(中略)LP六枚が世に出ることになったことは大きな喜びであります」と胸を張っている。下の欄では、制作演出を担当した評論家・仏教学者の菊村紀彦が「いま、ここにLP七枚のレコードが、誕生した」と書いてはあるんだけど。
実際は6枚組だったのか7枚組だったのか。
いずれにせよ、僕はその1枚目である本盤をバラ売りの状態で買ったわけで、けっこうなヴォリュームのセットだった。それに総長の口ぶりだと、レコード会社から提案した企画ではなく、本願寺サイドの希望だったことが伺える。
面白いのは、「協力」したのがミノルフォンということだ。 今は存在していないが、昭和歌謡に詳しい方ならご存知のレコード会社なのだ。「高校三年生」「星影のワルツ」「せんせい」「北国の春」などなどの作曲家・遠藤実が社長をつとめたから。ミノル先生のレーベルなので、ミノルフォン。
どこか似ている、遠藤メロディーと声明
ミノルフォンは、会社名とレーベル名が違う時期と同じ時期があるので、概史を整理する。
【1965年】
○遠藤の後援者が太平音響を創立。専務・遠藤の名を冠したミノルフォン・レーベルがスタート。
第1号シングルは三船和子「ベトナムの赤い月」。初期はほとんど遠藤の作曲作品
【1966年】
○山本リンダ、「こまっちゃうナ」でデビュー
【1968年】
○社名もミノルフォンになり、遠藤、同社取締役に就任
○66年に発売された千昌夫のシングルのB面「星影のワルツ」が、ロングセラーで大ヒット
【1969年】
○三谷謙、「雨のヨコハマ」でデビューするが不発。のちの五木ひろし
【1970年】
○遠藤、同社を退任
【1972年】
○徳間書店に買収され、社名を徳間音楽興行に。ミノルフォンのレーベル名は83年に徳間ジャパンと改称されるまで続く
遠藤が関わった期間はわずか5年。ヒット曲の少ない経営不振で遠藤が去ることになったものの、第1号シングルにベトナム反戦歌を選ぶ攻めっぷりから察せられるように、意欲的な会社だったらしい。作り手主導のインディーズ・レーベルがフォークやロックより前にあったことは、もう少し知られてもいいよね。
解説によると本盤は、1967年の8~9月にかけての4日間、昼夜にわたって録音された。ただしクレジットには「製作・発売 ミノルフォン株式会社」とあるので、1968年の発売だと考えて、まず間違いない。
そして僕は、遠藤実率いるミノルフォンはこのプロジェクトに、かなり積極的に乗ったのだろうと考えている。
ひとつは、なにしろ東本願寺がお客さんという、仕事の大きさ。 もうひとつは、遠藤実自身が(宗派は分からないが)観音像をコレクションするなど、仏教に関心のあるひとだったこと。
改めて朝日新聞の追悼記事(2008年12月12日付・編集委員篠崎弘)を読んでみると、その思いは相当だった。 遠藤実は極貧の少年時代に新潟で門付けをしていた経験から、仏教に関心を持つようになったそうだ。「歌謡曲は一番身近なお経」とも語っていたという。
門前で様々な芸を披露して金品をもらう門付けは、寺男など下級宗教人の、生活の手段から始まった放浪芸。あけすけに言えば、宗教と芸能の最底辺(であり接点)。
遠藤先生は大ヒット・メーカーになった後もハングリーな原点を忘れない人格の持ち主だった、と言えるし、門付け芸人の立場で人を見た経験からおそらく、本質的なもの―歌はどこから生まれ、また、誰のためにあるのか―を鋭く掴んだのだとも思える。
「遠藤メロディーの特長は、メロディーの起伏が少なく、やさしいようだが歌詞を理解しないでメロディーだけを歌うと唱歌のように聞こえる。情感をこめ、歌詞を語るように歌うと奥行きが深い」
『歌謡曲おもしろこぼれ話』(2002/社会思想社)にあった、長田暁二の評だ。
ナルホド、「北国の春」なんか特にそうだよなあと感心し、♪白樺 青空 南風……と口ずさんでみると。その特長、まさに声明にも当てはまると気付く。 歌謡曲は一番身近なお経。噛めば噛むほど、凄みのある言葉だ。
ゴスペルを探して見つけた声明レコードから始まった、仏教にわか勉強のインナートリップ。まさか終着に待っていたのが、遠藤メロディーの魅力に触れる感動とは。 超いきあたりばったりだが、面白い旅だった。これも御仏の機縁である。なーむー。
※盤情報
『東本願寺 声明集 1』
(1968/ミノルフォン 価格不明)
若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。書きながら思い出したことですが。子どもの頃、ボーイスカウトの指導をしていた人が僧侶で。坐禅を教わり、意外と面白くてしばらくひとりで続けていました。仏教への親しみは、当時からあったんだ。東日本大震災の直後は、何をしても落ち着かず、雑誌に載っていた般若心経をほぼ暗唱できるまで繰り返し見ました。ウルトラマンは肝心な時「ひかりの国からぼくらのために」飛んできてはくれない、こういう時は般若心経だ、と自然と思った。あの心の動きは何だったのか。宿題だと思っています。
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