【特別企画】対談「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」より 田代一倫(写真家)×倉石信乃(写真評論家)〜いま 肖像写真を撮るということ〜


田代一倫「椿の街」

椿の街

倉石
 この「椿の街」というシリーズは恐らく、今回展示しているシリーズ、東京のポートレートと、基本的には同じ構造ですね。

田代 ええ。そうですね。

倉石 通常、写真のアプローチとして、人と土地を写すっていうアプローチはよくあると思います。これは国境という、目には見えないけれども、厳然としてあるものを隔てて、言い方が難しいですが、両方を繋げるとか、比べるという視点が入ってくる。韓国と日本のことを考えた時に、その連続性や差異をどういうふうに考えていますか?

田代 私は、福岡市にある九州産業大学の大学院に通っていたのと同時に、同じく福岡市で、2006年に開設された「アジア フォトグラファーズ ギャラリー」という、写真家たちで運営するギャラリーに、創立からメンバーとして関わっていました(2011年3月に閉鎖)。その中で、メンバーに韓国人、中国人の方が何人もいて、多分東京の人が感じる韓国、中国ということよりも、地理的な距離も人間関係にしても近かったんだと思います。その人たちと韓国に行ったり、一人でふらっと旅をしたりしていました。身近な人を知るっていうことと、韓国っていう国を知るっていうこと、そして撮影することは、同じような感覚だと思っていました。 あ、すみません。質問は何でしたっけ?

倉石 いや、それがいい答えになっているようですね。国境は目に見えないけれど、それを自然に越えていくところがこのシリーズにはあって、面白いと思います。1990年代に入ると、アジアの都市の類型を前よりもはっきり映し出す写真が、日本では例えば北島敬三さんによる『AD 1991』という作品集の中で示されました。そこにはソウルが含まれていて、アジアと西洋の諸都市との差異と同一性を浮き彫りにするものでした。また、ドイツのトーマス・シュトゥルートによる都市風景でも、結果的に東西の都市類型を比較可能なものとして扱っていた。韓国と日本との比較という点においては、溝部秀二さんが2009年に、ソウルと東京の街をそのまま並置して、切れ目なくつながるような形で提示する『here and there』(2009年)という写真集を出して少し話題にもなりました。溝部さんのように非常に明快なアプローチと比べて、田代さんのこの「椿の街」のシリーズは、わりと見えにくい所を撮っている。九州と韓国の近さや、微妙な違い、また逆に類似性もみえてきますが、これは両方の国の、いろいろな地域で撮られているのですね?

田代 そうですね。

倉石 非常に近しい関係が見えてくると同時に、よくみるとその中に異質さも見えてくる。とても微妙で、繊細なところが問題になってきているようです。こういう例えは誤解を生むかもしれないですけど、兄弟とか姉妹における近親関係と似た何かが、このシリーズの中にはうまく入っているように思えたのですが、田代さんにとって韓国は、どういう国なんですか?

田代 そうですね。皆さんご存知かと思うんですけど、日本と朝鮮半島との関係は、国と国で考えるととても複雑な関係で、だからどういう国だとは言いづらいのです。国ということを考えると、どうしても私は、「日本人」という立場からしか判断できないのです。

実は、以前にそういう話を、倉石さんと福岡でお会いした時にさせていただきました。竹島の領土問題が表面化する前に、木浦(モッポ)という、韓国の南西の漁業が盛んな街に行った時の話なのですが、韓国の人ってすぐ仲良くなってくれるんです。道で声をかけた同年代の男性と仲良くなったのがきっかけで、その人の友達と、毎日一緒に過ごしていました。頼んでもいないのに宿に毎朝誰かが迎えに来てくれるような、とても熱心に友達として誘ってくれて、これは好意に甘えるのがせめてもの恩返しだと思い、数日しかいる予定のなかった街で、一日、二日と、滞在期間を延ばしていました。ところが、ついに翌日帰国するという時に、盛大な宴を開いてもらったその席で、その中の一人から「独島(竹島)はどちらのものだ」という質問をされたんです。みんな私の返事に注目していました。私にはそんなに知識もなく、ただ近い国に遊びに行くような感覚で韓国に撮影に来ていたので、瞬発的に「日本のものだと思う」と返しました。当然、その場ですごく反発され、次の日の朝は、誰も迎えに来てくれませんでした。。

あの場で何と返せば正解だったのか、ずっと考えていた時に、倉石さんと福岡で二人でご一緒する機会があって、その時の話をしたら、倉石さんがムッとして「竹島はその土地に住む漁師のものだ」とおっしゃったことがありました。その言葉を聞いた時に、すごく視界が開けたというか、すっきりした気持ちになりました。私の国についての考えではありませんが、韓国との関係を考えるとき、その言葉はずっと残っていて。また、その倉石さんのお話を聞いて、一人一人撮影をしていくという行為は、意味があるんだなと思いました。

倉石 そうでしたか・・・。ただ、そのことが問題というよりは、恐らく写真とか撮影をすること自体が、我々が通念として持っている国境みたいなものを自然と越えさせてくれるような、ひとつのスプリングボードになっているところがあって、そのことの方が大切なのかなと、見ていて思いました。おそらく境界というのはいろんな次元で、いまも日本と韓国にもあるし、日本と中国にもあります。あるいは、かつては日本と「琉球」と中国の間にも引かれてあったけれども、逆に明治の初めの頃には未だ、例えば「樺太」がロシアとの雑居地であったように、日本の周辺に曖昧な土地がいくつか点在していた。いわゆる無人島的な、どこにも属領化されていない土地がありました。その後近代国家としての日本が、それをことごとく自分たちの領土に入れていく手続きの中で、写真がそれを記録してきたという問題も、日本の写真史にはある。それと同時に、日本の国境なら国境というものが、ある時点で人間が作ったものだと明かしてくれるのも、写真という記録装置の大事な役割としてあるんですね。この「椿の街」シリーズでは、そうしたことも具体的に教えてくれるものだと思います。

では、次のシリーズを見てみましょうか。

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