【特別企画】対談「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」より 田代一倫(写真家)×倉石信乃(写真評論家)〜いま 肖像写真を撮るということ〜

田代一倫『はまゆりの頃に』

はまゆりの頃に

田代
 次は「はまゆりの頃に」というシリーズです。私は2010年、30歳の時に福岡から拠点を新宿二丁目にあるphotographers’ galleryに移すために上京しました。その約一年後に東日本大震災が起こり、震災の一ヶ月後から、被害のあった太平洋側沿岸の地域と、そこから内陸に入った山間部、さらに内陸に入った都市部で撮影していました。さっきの「椿」と同じように、「はまゆり」も、釜石市にある遊覧船の名前に使われているなど、その地域のシンボルとして認識されています。オレンジ色をしていて、崖の上などによく咲く花です。震災の被害があった場所というだけではなく、もう少し広い視点で見たいということで、このタイトルにしました。

倉石 このシリーズの撮影期間は、2011年の春から始まって、最終的には2013年の5月に終わるということですね。丸々2年間ちょっと。その間にいろいろと、田代さんの中で認識の変化があったのではないかと思います。写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』(里山社、2013年)の後ろのほうに、春、夏、秋、冬と、それぞれの季節の変化ごとの心境の変化が載っていて、とても素晴らしい文章です。一番最初の「2011年 春」のセクションで、田代さんは、ある少女と出会い彼女に誘われて、みんなのお弁当のある所に連れて行ってもらう。しかし、そこで中に立ち入ることができなくて引き返してしまう、というシーンと、その後若い男性と出会って「他人の不幸で飯を食うな」と言われるシーンが綴られています。非常に印象的なイニシエーションのような出来事が、ふたつ出てくる。そういう経験がまず最初にあったということなんですね。

田代 そうですね。まだ瓦礫が道の両端に高く積まれている中で、ジャージ姿で下校していた女子高生がいて、話しかけました。しばらく話をしていると、「カメラ持っているんだったら中に入ってくればいいじゃない」みたいな感じで、避難所に入るように案内されました。迷いながら避難所の入口までついていきましたが、入り口に立った時、食事の匂い、洗濯物の匂い、色んな生活の匂いがしていて。避難所の中は、いろんな人の声も響いていた覚えがあります。そこで「大勢の人が生活をしている場所なんだな」というふうに体感してきて、ここに入るだけの勇気というか、想いはまだ私にはないなと感じたことを覚えています。

倉石 この写真集は、そういう具体的な、さまざまなエピソードがひとつひとつ積み上げられていくことによって成り立っていて、「被災者」と一括りで捉えてしまうような、いわゆる「イメージ化」から逃れようとすることが、まず念頭に置かれています。「2011年 秋」の章では、地方の共同体について考えるうえで、とても重要なことが書かれています。岩手県の田野畑と宮古市で、年配の女性にそれぞれ話を聞くくだりですが、その女性たちは、ふたりとも「ここの者じゃないので・・・」って言うんです。彼女たちは、同じ県内の別のところから就職のために移住したり、あるいは嫁いできたりしている。その人たちが、いまいる場所が「自分にとって地元じゃない」と言う。しかし遠く離れた者から見ると、かなり近いところ、「同じ場所」にずっといた人たちだと思ってしまう。そういう距離の繊細な問題が、この写真集にはテーマとしてよく出てきます。そういう細かな気づきにこの本は満ちているんです。個別的な気づきによって田代さんは、自分自身と東北との距離を確かめることができて、その結果として「自分がよそ者である」と定義するところもあるわけですよね。

田代 もともと、撮影に行きたいと初めて思ったのが、テレビで避難所の映像を見て、インタビューに答えていない人の方の生活が気になったからです。テレビなどの報道で伝えられない方々がどういう気持ちで、どういう生活をしているのか。言ってしまえば単なる好奇心ですが、そういう方々もいることを、忘れてはいけないと思っていました。だから、出会った人が発する言葉というものに、とても敏感になっていたんだと思います。

倉石 こういう「聞き書き」というか、語られた言葉を日本語に置き換えていく作業は、難しいことだと思います。よく目にするものとして、その土地の言葉をそのまま書く。つまり、方言をそのまま表記するという方法があります。田代さんは証言をいったん自分の言葉に置きかえて、それを引用として鉤括弧に入れて記録していますね。それはひとつには、慎重な手続きと時間を経て言葉を置きかえていくことによって、証言を記録する主体的な責任を自ら取ることを意味していますが、記述方法に関して心がけていることや、考えていることはありますか?

田代 基本的にメモは取りません。方言というものは、自分が理解できているというか、自分の身体に入っているような言葉だったら、そのまま書くことも意味を持つと思うんです。ただ、私はこの撮影で初めて東北に足を踏み入れたので、その土地の人から出される言葉のニュアンスを、ほとんど理解できていませんでした。ハングルを聞いている時に近いかもしれません。だから、二人の間で交わされたやり取りを、私が理解できた言葉に置き換えることで、ようやくリアリティを持つような気がしています。

倉石 なるほど。この撮影の2年と少しの間にもいろんなことが起こりますが、その間絶えず、自問しているわけですね。被災地という場所で自分がどういう形で写真を撮ることができるのか、写真を撮る資格があるのか、という問いを繰り返されていた。

田代 そうですね。

倉石 あと面白かったのが、「2012年 春」の中で、郡山駅の繁華街を歩いている時に「楽しそうに酔っ払った若い男女と出会いました。」というところ。「一緒に飲みに行くことになった」という、このあたりの経緯もなかなか不思議です。少し話していると、「『あなたたち首都圏に住む人も当事者なんですよ!』と女性が怒り出しました。」というふうになってエスカレートしていく。「女性の怒りは収まらず、堰を切ったように次々と言葉が飛び出してきました。『保証なんていいから普通を返してください!』『福島の人たちは、放射線のことを考えないようにしながら、生活していくしかないんです』『あなたは住み慣れた土地や今までの生活をリセットできますか?』私は実家の近所の方からいただいたお米を泣きながら捨てているんですよ!」『あなたに言ってもしょうがないけど』という私への気遣いの言葉を間に何回も挟みながら、次々と湧いてくる怒りの言葉に、私は何も言葉が出て来ずに、ただただ聞いていることしかできませんでした。」と書かれています。最後の方で田代さんは、「『震災の当事者でない自分に撮る資格があるのか』と何度も自問しますが、それを考える時、自分が被災において当事者かそうでないかという選択肢しか考えていませんでした。しかしこの言葉を聞き、私は加害としての立場もありえることに気付かされました。」とあります。これは、こういう形でおのずと自己認識が深まっていくプロセスがよく分かります。ただここで注目すべきなのは、最後の「認識を得る」ことだけではなくて、まず最初に一緒に飲みに行くというところだと思うんですよ。なんていうのかな。短い間でも、ある程度交流するみたいな。

田代 たしかにそうですね。変ですね。

倉石 いや(笑)、変ではないと思いますが、たぶん、完全に仲間になってしまう距離感、そうやって、きわめて近い距離から撮るということも田代さんの選択肢としてはありえたと思う。いくつか行動を共にしたり、交流があったりすることもあると思いますが、このように激しい言葉が出てくるきっかけになったこの時は、どのような感じだったんですか。

田代 このときは、若い男女がホストとホステスという感じの方で。結構酔っ払っていたときに「撮らせて」と言ったら、「撮られるのはダメだけど飲みに行こう」と言われて。お酒は飲めないんですが、行くなら行こうか、みたいな感じですかね(笑)。撮ることと一緒に過ごすことがごちゃごちゃになっていたのかもしれません(笑)。

倉石 そのへんがなんか不思議ですね (笑)。撮影の対象者と距離を保っているようで、行くときは行く、みたいな感じが。そのあたりはどのようなことを考えているのか、何も考えていないのか。その場の雰囲気で、適当に行っちゃうのか。ただ撮られた写真には、その距離感というのは平静に保たれているし、それが節度として必要なことと考えているのかな。

田代 写らないところでの距離感というのは、受け身の一方ですね。撮影時間、場所、声をかけるなど、全て私のタイミングですので、できるだけ相手の誘いには乗ろうというのが、基本的な考えです。

倉石 なるほど。その受け身というのもさることながら、先ほどのメモを取らないっていう話も重要ですね。福島の原発の近くに住む人たちのために、ニュータウンができますよね。いわき市に仮設住宅の町ができる。全く何も無いところに町ができるわけだから、そのストリートを区別するのは徹底して記号だったりするわけですよね。記憶をもった地名ではなく、記号によって識別されるニュータウンが突如出現するということについて、田代さんはこう書いています。「地図を見ず、メモも取らず、家の建ち方、山や海の佇まい、また集落の名前でその土地を記憶する私は、その全ての判断基準を失ったような感じがしました。」通常はそういう撮り方なんですね。その場に行ったら、完全に動物的というか。

田代 確かにそうですね。動きだしたら、勘と流れに任せようっていう感じですね。だから、一人で行く時には、宿はほとんど取っていきません。なにが起こるか分からないと常に思っていて、その日の終わりの場所を決められないんです。誰かが「お茶飲んで行きなさい」とか、「泊まっていきなさい」とか言うかもしれないし、そのときは「いや。ホテル取ってあるんで」とも言いにくいし。そういうことを考えると、自分がどこでその日を終えるのかという決断がなかなかできなくなってしまいます。

倉石 メモを頼りにしないというのは、後から本当に覚えていることだけ、時間が経った後にそれをまとめるというやり方ですか。

田代 そうですね。重要なというか、心に引っかかった出会いとか言葉というのは、ずっと残っているんです。倉石さんからお聞きした言葉もそうなんですが、後から「あれ、これすごい引っかかったんだけど、重要なことかもな」と思い返す。基本的にその場での感情はぼんやりとしかなくて、遅れて言葉が出てくるんです。だいぶ遅れて自分の感じていたことを言語化して理解する体質のようです。まあ、だから写真を撮っているのかなとも思うんですけど。

倉石 『はまゆりの頃に』の話の締めくくりとして、もうひとつエピソードを紹介してみたいと思います。2013年の元旦に載った初詣の写真があります。南相馬の小高神社での初詣の大きな写真が新聞に載ると、そこに写真を撮ろうとしている田代さんが、逆に撮られてしまい、新聞写真に写っていた。その話をちょっとしていただけますか。

田代 はい。南相馬で朝刊を開いたときに、(警戒区域内にある)小高神社が2年ぶりに初詣をやるということで、その時は夜でも入っていいよということで、人がたくさん集まっていたんですね。報道陣のほうが多いんじゃないかっていうぐらいで。まあその中の一人が私なんですけど、報道されるためにこの場があるような雰囲気が何か嫌で、報道陣の人は、境内の上の方から眩しい照明を当てて撮っているので、じゃあ、私は後ろから見守ろうと思って、後ろに周って眺めていました。その姿が、新聞に小さく写っていたのを、偶然見つけたんです。やっぱり、自分で見ても馴染んでいないんですね。報道をしてる側でもなければ、されている側でもないというか。じゃあ、一体自分は何をしたいのかというのを分かっていない状態で。自意識が過剰なだけかもしれませんが、そこだけ異物が紛れ込んでるというふうに自分のことを思えて。でも同時に、自分は「こういうことをやりたかったんじゃないかな」というふうにも見えたんです。

倉石 アメリカの作家ジェームズ・エイジーが、写真家のウォーカー・エヴァンズと一緒に、1936年に不況下のアメリカ南部で小作農の人たちの生活を記録して出した共著『いまこそ有名人を讃えよう』(1941年)の中で、自分たちの仕事の「複雑さ」のわけについてこう書いています。「ジャーナリストでも、社会学者でも、政治家でも、エンターテイナーでも、人道主義者でも、司祭でも、アーティストでもない立場で、だがシリアスなやり方でテーマに取り組もうとしているからだ」と。写真は様々なジャンルで役立つので、いろんなことに役立たせることは可能だし、すぐに分類をすることも可能なんですが、どうしても分類できないような余剰というか、余りの位置というか、よそ者の位置というか、外れの位置というか、そういうところに入り込むことができるのも、あるいは、その位置において重要な仕事を歴史的に担ってきたのも、写真ではないかと思います。自分が異物であることを認識し、時には後ろめたいとか暗い気持ちを抱えながら、その場に張り付いているというのか。ともかく田代さんはそういう距離感やテンションを持続して、ここまで来ているように思えます。

そのような「よそ者感」については、写真家の大島洋さんが、とても重要な写真家と比較して論じていますね。田代さんのこの写真が、アジェ(*1)のパリ郊外のジプシーたちや、街路に立つ市井の人たちを撮った一連の写真と関連があるというわけです。田代さんの写真は、アジェのストリートの風景を撮った写真よりも、ストリートやその郊外で彼の撮ったポートレートと共通性がある、と指摘しています。大島さんは「人との付き合いがあまり上手くなかったといわれるアジェがカメラを介在させて人を撮ることによって、刹那ではあっても濃密な人との関係をつくっていたのだと書いたことがある。それは、田代一倫の撮り続けてきた肖像にも通じるところがあるかもしれない。」とも言っています。さらに田代さんの写真について「ずっと後になって本当の意味は見出されることだろう。」とも言っていますが、まさしくその通りだと思いました。

*1 ウジェーヌ・アジェ(1857−1927)…フランスの写真家。20世紀前後のパリの生活風景や建築物や、室内家具などを系統的に撮影し、「近代写真の父」と呼ばれる。

▼page4『警備員』に続く