【連載】ポルトガル 食と映画の旅 第4回 出会いとはじまり マルヴァオン text 福間恵子

城壁の村マルヴァオン。霧が晴れてきてスペインの山が見えている。

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2003年2月、初めてのリスボンに降り立った。いや、正確に言うと、二度目のリスボンだ。80年代後半にスペインを何度も旅していたころ、北西部のガリシア地方から列車でリスボンまで南下して、乗り継いでマドリードに戻ったことがある。たぶん5、6時間だけのリスボン滞在だったはず。残念なことに、その記憶はすっぽりと抜け落ちている。

だから「初めてのリスボン」である。にもかかわらず、リスボンはまたもやおきざりにして、めざすのはスペイン国境近くのMarvãoマルヴァオン。人里離れた山頂の小さな城壁の村である。なんともひねくれた人間だとわれながら思うけれど、これにはわけがある。

のちにポルトガルにのめり込むきっかけを作ってくれた友人が、一足先に出発してスペイン側もまわるというので、4日後にスペインのサフラという町で待ち合わせを約束しているのだ。そこからスペイン・エストレマドゥーラ地方の田舎をまわろうと計画していた。それに向けて日程を組んでいったら、必然的にスペインに近い方向ということになった。で、国境に近いマルヴァオンだった。短い日程の旅の3分の1がポルトガル、3分の2がスペインという予定。だからこの旅のチケットは、行きはリスボン着で、帰りはマドリード発にしていた。

マルヴァオンは、細長いポルトガルの国土の南北のほぼ真ん中の東端、スペイン国境が目の前という位置にある。標高865メートルのそそりたつ岩山の上、城壁に囲まれた小さな村。広いアレンテージョ地方の北の端っこだ。ここに行くにはバスしかない。まずリスボンからポルタレグレまで3〜4時間かけて行って、バスを乗り換えて1時間。ポルタレグレとマルヴァオン間のバスは一日2往復のみ、土日祝は運休。これはガイドブックで調べて覚悟していた。しかし、初っぱなから予期せぬことが待ち受けていた。

リスボンのトゥリズモ(観光案内所)で教えてもらったポルタレグレ行きのバス時刻は、運行の曜日がちがっていて、その日は運休だった。そのバスがあれば、夕方ポルタレグレを出発するマルヴァオン行きに間に合っていただろうが、次のバスではとても無理だった。この日はやむなくポルタレグレに一泊しなければならなかった。

翌朝、二月の終わりの空はどんより曇っていて、いまにも雨が降ってきそうだった。とても寒い。ポルタレグレの小さなバスターミナルで待っていると、日本人らしい若い女性が入ってきた。ターミナルにいるのは、地元のお年寄りばかりで、観光客などひとりもいない。小さなリュックと手さげ袋を持ったその女性は、旅慣れた学生のように見えた。よくぞこの田舎で、とうれしくなって思わず声をかけると、日本語が返ってきて彼女もまたマルヴァオンに行くのだった。

 「鷲の巣」と呼ばれる城壁の村マルヴァオンへの1時間の道のりは、ひたすら山道だった。バスが止まって、こんなところで人が降りるの? と思うと、遠くに家が見えた。お年寄りたちが運転手に声をかけながら降りてゆく。バスは信じられないほどおんぼろで、カーブばかりの道を、うーんうーんとまるで声を出しているように懸命に走った。身体はずっと左右に揺れっぱなしで、近くに座っている日本人の女性と目を見合わせては笑った。雨は次第に本格的になり、四方を包む霧はまわりの景色をまっ白に変えた。

マルヴァオンに着いたとき、雨と風は頂点に達していた。ほとんど嵐。小さな城壁の村の中にバスは入らず、むろんタクシーなどない。人っ子ひとりいない城壁の外に彼女とわたしは放り出された。仕方ない。傘を取りだし、覚悟を決めてエイッと進みはじめる。すぐさま傘は漏斗と化し、役に立たない。けれども止まるわけにはいかない。目の前にある城門をやっとのことでくぐり抜け、雨宿りをしながら迷路のような石畳を上り下りして、トゥリズモにたどり着いたときには、二人ともびしょぬれだった。わたしの傘はとっくに壊れていた。気分はほとんど、戦いを終えて郷里に戻った二人の兵士だった。実際そこはまるでわが家のようにあたたかく迎えいれてくれた。

暖をとって落ち着いたわたしたちに、とびきりの宿が紹介された。

「キッチンと暖炉つきのリビングにツインの寝室で40ユーロ。それに今日は、客はあなたたちだけよ」。

親切で人なつっこいトゥリズモの女性はたぶん、わたしたちを母娘だと思ったようだ。

「いいですか、ご一緒でも……」

彼女とわたしは、ほとんど同時にそう尋ねあいながら、まだお互いに名乗りあっていないことに気づいた。

「恵子です。恵むに、子」

「わたしはめぐみです。同じ恵です」

ポルトガルの田舎でたまたま出会ったわたしたちは、偶然にも同じ漢字を持つ名前で、嵐がみちびいてくれた縁で、その日の宿を共にすることになった。

泊まった宿のリビング&キッチン。恵さんが笑っている。

そこから翌日の午後までの24時間を、恵さんとわたしは一緒にすごした。この日のマルヴァオンには、観光客はわたしたち以外にいなかったはずだ。

すばらしい調度品のある宿に落ち着くと、ふたりともおなかがペコペコだった。

雨があがるのを待って、トゥリズモで教えてもらった、村に一軒しかないパン屋に行った。何の看板もない古い木戸を開けると、年季の入った大きなかまどがあり、その横にはマキが積み上げられ、年老いた夫婦が焼きあがった大きなパンを並べていた。めずらしい東洋人のわたしたちに、おどろいた表情でほほえみながら、なにか問うのだけれど、わからない。ジャパンから来ました。そう言うと不思議そうな顔をしながら、パンを指差した。どれもこれもめちゃくちゃおいしそうで、さんざん迷った。子どもの頭二つ以上はある大きなパンとドライフルーツの入った小さなパンを買った。ワラ半紙にくるりと上手に包むおばあさんの手は皺くちゃで、指の節が曲がっていた。恵さんと声をそろえて「オブリガーダ!」と言うと、ふたりは笑顔になって「オブリガード」と返してくれた。

わたしたちは、外に出るとすぐに小さなパンをほおばった。言葉も出てこないほどにおいしかった。荒削りの繊細さ。それが嵐の不安を吹き飛ばしてくれた。昔のことなど知らないのに、懐かしさがこみあげた。この村には中世がそのまま残っているのではないか。

ようやく日が射しはじめたこの村を、何度もくまなく歩いた。移り変わりの速い曇り空だったものの、雲が流れるとそそり立つマルヴァオンからは八方が見渡せた。

霧のあがったスペイン側の山々、揺れる金色のミモザの林、遠くの村の茶色い城壁、あっという間に近づく雨雲、城に吹き溜まる風、城壁にこびりついたコケ、家々の白い漆喰の壁、濡れた石畳の狭い路地、皺をきざんだ老人たちの顔、カフェの中のコーヒーとタバコの匂い、スペイン語とはちがうやさしい響きを持つポルトガル語の音、挨拶を返す女性たちのはにかんだ表情、そしてそんな風景の中にいる恵さんの顔。

 石畳の道を歩きながら、雨宿りをしたバルの中で、あるいは宿の暖炉の火の前で、わたしたちはお互いのことを少しずつ語りあった。美大を中退して清掃会社のバイトをしながら、ステンドグラスと絵を勉強している恵さんは22歳。3ヶ月の休暇を取っても復帰できる職場だからこの旅に出られたと言う。

「ポルトガルとスペインを2、3ヶ月かけてまわろうと思って。でもわたし、海外旅行初めてなんですよ」。

旅に出てちょうどひと月がすぎたという彼女は、とてもそんなふうには見えなくて、ゆったりどっしり落ち着いていた。今日までに出会った人たちをスケッチした絵を見せてくれながら、それぞれの人物を語る言葉は、恵さんの純粋で素朴な人がらをよく伝えるものだった。

夕食。ほとんど平らげたころに、あわてて写真を撮った。 

夕食は、村に一軒しかない小さな食堂へ。そこで、お互いの旅に乾杯した。アレンテージョの濃い赤ワインと、アレンテージョを代表する料理「カルネ・デ・ポルコ・ア・アレンテジャーナ」(豚肉とアサリの炒めもの)とアジのグリル焼き、そしてあの老夫婦の焼いたどっしりパン。ポルトガルで初めてまともに食べた料理は、やはりどこか懐かしい「おふくろの味」だった。

ポルトガルの端っこの山頂の村にも、こんなにおいしいものがあって、ちゃんと人がつどって楽しそうに飲み食いしている。めずらしい東洋人のふたりの女が気になって、こちらをチラチラ見ているが、目が合うと笑顔を返すそこにも、なぜか懐かしさがただよっている。この懐かしさは、どこから来るのだろう。

翌朝早く目ざめたわたしは、消えそうになっている暖炉の火を見守りながら、まだ眠っている恵さんのことを思った。旅慣れていようといまいと、旅はそれぞれの生きざまを映しだす。自分と向き合うことが旅だ。なにごとも受け入れようとする22歳の女性が、隣の部屋で眠っている。その人と季節はずれのポルトガルの田舎の時間を共有している。彼女の人生にとってこの旅がきっと大きな力になるだろうように、50歳を目前にしたわたしにもこの旅は新しい風を吹き込んでくれるはずだ。

 朝昼二便しかない午後のバス便を待っている間に、またマルヴァオンの空は厚い雲に覆われてきた。恵さんは、バスを途中で乗り換えて北の村への日帰り旅行をしてマルヴァオンにもう一泊する。わたしは、ポルタレグレに戻って国境に向かう。わたしたちはバスの中で別れることになった。

そろそろ乗り換え場所が近いかと、どきどきしていると「恵子さん、手のひら見せて」と唐突に彼女が言った。「別に手相が得意なわけじゃないんだけど……」とわたしの手のひらを眺めていたと思ったら、

「目をつぶって。はい、手を握りしめて。もう目は開けてもいいけど、わたしが見えなくなるまで手は開けないでね」。

そう言ったかと思うと、「ありがとう、恵子さん」とささやいてバスを降りた。

窓の外のバス停に立つ恵さんの笑顔はあっという間に消え、ひとりになったわたしは握りしめていた手をそっとほどいた。小さなステンドグラス。いびつな菱形に三色のガラスが埋め込まれ、ペンダントにできるように輪がついている。彼女の作品だった。知らぬ間に涙が頬をつたっていた。

 それからわたしは二つのバスを乗り継いで、その夜に国境の町エルバスに到着した。ここで一泊して翌日の午後にバスで国境越えだ。リスボンから出る長距離バスにはここからは乗車できない。つまり国境を越えるためだけのバスだから、車社会かつEU圏のなかで利用者などほとんどいない。で、一日1本のこのバスは、わたしと常連客らしきスペイン人のおっさんひとりを定刻から30分待ってあげて(!)乗せたと思うと、10分で国境を越えた。バスは、あたりに何もない草の生えた大きな廃屋の建物の前で止まり、運転手が終点だ、と言った。慌てたわたしは、ここからどうやって町まで行くのだ! とスペイン語で叫んだ。運転手は落ち着いたもので、スペインのバスがすぐ来るから待て、と言った。ポルトガルのバスは来た道を戻り、おっさんはいつの間にか消えていて、わたしはひとり残された。不安で胸が張り裂けそうだった。スペイン側バスがやってくるまでの5分が30分に感じられた。

こうしてスペイン側に入り、またバスを乗り継いで、夜になってサフラに到着し、約束どおり友人と無事に会うことができた。

 翌朝、エストレマドゥーラ地方の村をバスでまわることがほぼ不可能であることがわかった。友人とわたしは途方にくれた。先に帰国する友人は3日後にはリスボンに戻らなければならない。わたしはといえば、ポルトガルに戻れば4日後には三度目の国境越えをしなければならない。

スペインに入ってきた国境より南にも、国境越えのバスルートがあり、そこへの経路に、生ハムで有名な村ハブーゴがあることを知った。せめてそこを体験してから、ポルトガルに戻ろう。ふたりで決めた結論はそれだった。

スペインに入って3日目、国境地点のエル・ロサル・デ・ラ・フロンテーラへのバスは、どんぐりの林を両脇に見ながら西へ向かった。エル・ロサルは一軒のバルがあるだけの国境で、もちろんここもまたスペインのバスからポルトガルのバスに乗り換えて越える。時差もあるから2時間待たされた。EUのおかげでヨーロッパには国境がなくなったというのは、車社会だけの話で、わたしたちのような不器用な旅人には通用しない。こうして友人とわたしは、ふたたびポルトガルに戻り、バスの終点である南アレンテージョの中心の町ベージャに到着して別れた。

田舎町の広場、夕方のおなじみの光景。

その後わたしは、不便なバスを待つことにも少しずつ慣れてきて、アレンテージョ地方中部のスペイン国境に近い二つの小さな町を訪ねた。ここでもまた、懐かしくて親しい笑顔に出会った。それから、5日前と同様にふたたび同じ国境を越えてスペインに入り、マドリードをめざした。

成田に着いたときに、一番に思ったのは恵さんのことだった。元気でリスボンにいるだろうか。その思いが彼女に届いたように、自宅に帰り着くと手紙が届いていた。「おかえりなさい、恵子さん」と。

 12日間の旅で3回の国境越え。ポルトガルとスペインの境を右往左往した。ポルタレグレ、マルヴァオン、エルバス、サフラ、ハブーゴ、フロンテーラ、ベージャ、ボルバ、そしてメリダ。雨をしのぎ、お日様を待ち、バスを待った。ポルトガルの片隅で、自分と向きあう時間だった。何に惹かれているのかわからないままに、ここがわたしのポルトガルのはじまりだった。

アレンテージョ地方のパンのおいしさは有名で、スペインからも買いにくるほどで、なかでもマルヴァオンのあの老夫婦のパン屋は、アレンテージョ地方のパンの伝統を頑なに守りつづける稀有なものだと、のちに知った。

恵さんはその後3回の個展をして、やむない事情で九州の郷里に帰った。わたしたちの友情は変わらずつづいていて、彼女は結婚し、いま二児の母になっている。

わたしはといえば、その後12回もポルトガルを訪ね、いまもなお「食と映画の旅」をつづけている。

(つづく。第5回は3月5日に掲載します)

福間恵子 近況
『秋の理由』の上映がひとくぎりついたところで、2週間の休暇を取りリスボンに滞在した。映画三昧の日々の上に、シネマテカの厚意で郊外にあるすばらしいアーカイブで貴重なフィルムを見せてもらえた。ポルトガルの映画作家の知られざる才能に興奮した。これらについては、追って書いていきます!