【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜 中野理惠 すきな映画を仕事にして 第44話、第45話

1995年ごろ、『ナヌムの家』のビョン・ヨンジュ監督と 

開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして

第45話 日本橋三越の展覧会と、母の死
(「エルミタージュ幻想」その2)

<前回 第44話 はこちら>

エカテリーナⅡ世のセーブル磁器展

「展覧会のオープンが一か月後に迫っているのに、写真を一枚も送って寄越さないから困っている」

そういう事ならば、

「『エルミタージュ幻想』の35㎜プリントをお貸ししますから、いい場面をスティル写真にして使っていいです。ただし、全ての写真に映画の題名と公開劇場、封切り日を書いてください」

ラッキーチャンス

日本橋三越の展覧会がそのまま、『エルミタージュ幻想』の宣伝会場になってくれたのは言うまでもない。我が仕事人生で数少ないラッキーチャンス・ゲットの瞬間だった。

会期中、行ってみたところ、写真は勿論のこと、贅沢な晩餐会のテーブルが再現されてあり、そこにも映画公開を告知してある。そういえば、予告編も会場に流しっ放しにしていただき、出口には映画のチラシを設置、と至れり尽くせりであった。実は、映画の宣伝が超難航(いつもソクーロフ作品はそうだった)していたので、ロシア人の怠慢のおかげ、と感謝した。

日本橋三越の展覧会

展覧会の紹介記事

『エルミタージュ幻想』は朝9時が最初の回で夜9時が最終回、つまり、一日7回上映し、記憶では2月から6月ごろまでユーロスぺ-スでロングラン。10年以上経った今でも見続けられている。

『エルミタージュ幻想』のチラシ(拡大はこちら)

母の死

時期は前後するが、『エルミタージュ幻想』公開前年、父の死からおよそ1年半後、2002年10月26日、母が81歳で亡くなった。父の時と同様、姉と姉の家族がずっと面倒をみてくれていた。感謝の言葉もない。

亡くなる一週間前の土曜日に見舞うと、ベッドから起き上がっていたところで

「ああ、りえこ」(※)と、口にしながら浮かべた嬉しそうな表情を、忘れることができない。

いよいよ、という時、病院のベッドの傍らで姉と付き添っていた。弟が現れないので探しに行くと病院に到着したところだった(と思う)ので、「早く、早く」と急かした。すると、弟が部屋に入ったとほぼ同時に、ふーっと大きく息を吐くと、枕もとの血圧計の針が、横に一本、すーと伸びるだけになった。母は、かわいがっていた弟を待っていたのだった。

母は、地元の女学校卒業後、東京で栄養士の専門学校に通ったからだろう、オカズを前にして、どういう栄養素が含まれているかを、弟とお喋りしながら食事をしていたことを思い出す。

母とネコのピピ(1965年)

母が抱いている猫のピピは、朝の勤行から父が抱いて庫裏に戻り「誰かが境内に捨ててたんじゃないだろうか、飼おうよ」と言って家族の一員になった。芳叔母は、「ウチにはいつも猫がいた」と言い、妙幸伯母が住職していた寺院には、墓石の一つ一つにいるくらいたくさんの猫が暮らし、冬はそれぞれにアンカを与えていたそうだ。数十匹飼っている従妹もいたし、富美伯母が亡くなった後、従姉は残された猫に餌を与えに毎日通い、その従姉の娘と哲夫伯父の孫は獣医師になってい
る。

 

母のエピソードは多い

数年前の法事での食事の際、挨拶に立った檀家総代の昭九郎さんが、「ワタシャ、うーんと奥さんに叱られた」と話し始めると、座に一斉に笑いが溢れたものだ。

最近、議員の公費出張や、税金の遣われ方などのニュースに接するたびに、子どものころ母がしょっちゅう口にしていたことを思い出す。

「ギイン(当時は町会議員を指したと思う)ちゃあ、よっぽどいいことがあるんだよなあぁ。いっきゃあなったら、みぃーんな、やめたぎゃあんにゃあ(一回なったら皆辞めたがらない)」

モリタ ハナ

私が子どものころ、つまり、昭和30年代。敗戦の名残もあったためか、裏山に数人のホームレスが暮らしていたのではないか、と思う。時折、その中の一人ではないかと思うのだが、モリタハナさんという女性が降りてきた。ハナさんは降りてくると、庫裏に立ち寄り、玄関の上がり框に腰かけて、母の握ったお握りを食べながら話し込む。母は問わず語りに彼女の一代記を聞き出していた。そして、弟が言う事を聞かないと、母は、「あんたはモリタハナの子だ」と言う、すると弟が泣き出す、というようなことを繰り返していた。だが、ハナさんはいつの間にか現れなくなった。

忍従の人生とは?

リブ運動にかかわるようになった時期「母のような忍従の人生を歩みたくない」と多くの女性が口にするのを聞き、違和感を覚えたものだ。忍従の人生は男性のものだと思っていたからだ。父にしても祖父にしても、である。

1980年に市川房枝が参院選に立候補した時、母は選挙を手伝えば、と言ってきた。更に続けて、「選挙権が女性に与えられてから、私はずっと社会党に投票してきた」

と言うではないか。また、1980年代から1990年代初めにかけて社会党の勢力が伸び、

女性代議士が増えた時期には、「お調子に乗って。そのうちにしっぺ返しを食うから」と言っていた。

そんな母が、アメリカから私が戻り、暫く後だったと思うのだが、会いたいと突然、東京にやってきた。会ったのは東京駅の地下だったような記憶だ。

「あんたのしている仕事はなんだね?」

と聞くので、出版や映画の説明をした。すると、「なんだかよくわからない」と言い、じっと私の顔を見ると一言、加えた。

※昭和20年代生まれの女性の名前には<子>がたいてい付けられている。<理惠>は珍しい名前だったので、イヤでたまらなかった。それで、自分で強引に名前を<りえこ>と呼び、両親も含めて周囲はそう呼んでいた。小学校入学前の健診時に自分の名前を書かされた時もそのように書いた。ところが横から父が「この<こ>を取ってください」と言ったので、学校が始まると私の机に貼られていたのは<なかのりえ>だった。毎日、毎日、名札の一番下に<こ>を鉛筆で書いたところ(つまり机に直に書いたのだ)、ついに担任の渡辺光子先生が根負けして<こ>を書いた新しい名札に張り替えてくれた。

(つづく。次は4/15に掲載します。)

中野理恵 近況

友人宅の全盲の猫のルークと。