【連載】ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー 第25回 『日本仁義全集』


やくざ者とかつて呼ばれたのは、博徒・テキヤ・愚連隊

やくざ映画をある程度以上に見ると、次第に、別に本物がいる世界に憧れるわけでは無いのに映画が好きなのはどうしてだろう、と居心地の悪さを感じ出す。〈やくざとやくざ映画は別物〉と納得するまで、ちょっとしたジレンマに苛まれる。こういうブキッチョ経験を経てきた人、結構いるでしょう。

僕の場合、本を読んで、やくざを社会的存在として学ぶことに頼った。
主に助けになったのは、加太こうじ『日本のヤクザ』(1964・大和書房)。僕が買ったのは1985年に出た新装版。それに江戸風俗研究家・三田村鳶魚の文章を朝倉治彦がまとめた〈鳶魚江戸文庫〉の一冊、『目明しと囚人・浪人と侠客の話』(1997・中公文庫)など。飯干晃一の現代ドキュメントものを読んだりするのは、また少し別の文脈だった。


特に『日本のヤクザ』は、今再読しても良い本ですね。加太こうじは、戦前は紙芝居作者。その時代にやくざと付き合い、「ヤクザというものは仲間になってみれば、だれもかも気持のさっぱりしたいいやつばかりだ」と実感しつつも、弟がグレてその仲間に入ると気を揉んで烈しく怒った。そんな内訳を正直に明かしながら、やくざの定義、発生、性質などを細やかに書いている。
あの『黄金バット』の作者のひとりで、後に『思想の科学』編集長という振幅の大き過ぎるプロフィールが、こういう、血が通ってなおかつ冷静な文章を書くお人柄ならば、と呑み込める。

その加太さんも主な参考文献に挙げている歴史家・田村栄太郎の本を、今回、初めて手にした。『やくざの生活』(1964・雄山閣出版)。戦前からの在野での研究に、増補を重ねてきたもの。僕が図書館で借りたのは〈生活史叢書〉の一冊として出た、1981年の新装版。
やくざ研究書の先駆的一冊という評価はナットクもナットク、凄い情報量だ。仁義についても詳述されていて、ああ、本盤の中にある解説文も、「キネマ旬報増刊 任侠映画大全集」(1971)も、この本を参考にしていたんだとすぐ分かった。

以上の本に書いてあることを、かなり噛み砕いてまとめると―。

まず、戦前までのやくざは、大きく三種類に分かれる。
・「博徒」。江戸の都市拡張で多くの人足が必要になり、賭博も盛んに。その賭場を開き管理し、手数料を得る者。賭博をなりわいとする者も博徒のうち。
・「テキヤ」。露天商などの集団。博徒の賭場とは別の、独自の縄張りを持つ。
・「愚連隊」。大正昭和の盛り場に自然発生。新興やくざ。博徒、テキヤが手を出さない仕事を扱う。

この区別は、戦後はまるで通用しずらいものとなった。一段低く見られていた愚連隊のほうが、麻薬、土建業の手配など大きな商売をするようになり、昔からの博徒はほぼ解体している。なぜか? 各都道府県が公営の競馬競輪を開催しているからだ。今はお上が貸元。博徒の商売を国が奪ったのだ。

で、仁義は、やくざの中心だった博徒の世界で生成された。

仁義口上は街道のネットワーク文化

○幕末になって町人の経済力が上がり、流通と交通が活発になると、宿場の人足部屋では連日賭場が開かれた。特に江戸の周辺・関八州では博徒が増大、それぞれ一家を構え、帯刀して力を誇示するようになった。

○幕府はこの、遊興を美徳とする新たなアンダーグラウンド・シーンを警戒。人足部屋の親分に、罪人を見つけたらすぐ引き渡さないと罰する、と代官を通じて申し渡した。一方で、江戸以外では足りない警察力を彼らに補ってもらい、御法度の賭博はある程度黙認する関係も生まれた。

○人足部屋の親分は賭場の貸元も兼ねる。お上との無用なトラブル回避のため、無宿人や一匹狼の博徒の出入りを把握する必要が生まれ、自分の縄張りを初めて訪れた者には挨拶を要求するようになった。

○挨拶にはかなりの情報量を求められる。後で、お上への報告の可能性が出てくるからだ。もとは大工などの渡り職人の業界での挨拶、「辞宜」を見本にしているうち、自分のプロフィールをまとめて伝える「仁義」の作法が練られていった。

○親分のほうも、きちんと仁義を切れる者は客人として一宿一飯でもてなし、小遣い銭を与え、次の宿場へ移ってもらう。この恩情には、後で役人の取り調べがあった時に「ここには確かに来たがもういない」と弁解できるための、暗黙の厄介払いの意味もあった。

○だから旅人にも「順達」といって、宿場から宿場の移動は順々に、の縛りが生まれた。例えば板橋で一宿一飯に預かった者が、蕨を素通りしてまっすぐ浦和を訪ねるのは、親分衆に迷惑をかけることになる。筋を外してもいいが、それによって生きづらくなるのは自分である。


ここまでかなり駈け足で整理すると、仁義は特殊な社会の中で磨かれてきた儀礼であると同時に、街道のネットワーク文化であり、名刺も身分証明証も無い時代の合理を併せ持っていたことが分かる。
そして、だから廃れたのだということも。
明治に入り鉄道が走れば、列車に乗る。急行ともなれば、どうしたって幾つもの縄張りは素通りするようになる。宿場から宿場、のルールはあっという間に無意味になる。

やくざものの小説を多く書いた作家・青山光二の『ヤクザの世界』(1991・光風社出版)に、ある親分が喫茶店で一服していると若い者に仁義を切られ、恥ずかしくて閉口する逸話があるのを読んだ。
本が初めて出たのは1970年。この時点で、その場に同席していた青山の筆には、時代遅れの仁義をテキヤ独特の叩き売り調でやり出し、親分を困らせた男へのはっきりした侮蔑がある。名刺一枚出せばいいものをと。

そう、昭和に入ってもなお仁義が残ったのは、テキヤがいたからだ。

A-2「テキヤの仁義」から抜き出すと。

「手前生国と発しますは江戸にござんす。江戸と申しましてもいささか広うござんす。江戸は江戸でも花川戸、ご存じ助六ゆかりの土地でござんす」

博徒のA-1と比べたら、ずいぶん芝居がかっている。本来の身分証明の実務性が薄れた代わり、露店の口上など言葉を武器にする者たちによって、装飾性が増している。寅さんが、まさにこれ。


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