「飾りメンツ」に噴き出る、日本人の芸能体質
A-4「愚連隊仁義」はさらに凄い。
「桜花咲きゃぱらりと散って花の大江戸八百八町、昨今改めまして大東京、その名も高き明治神宮の御社背に受けましてトントントン下りましたるは新宿、赤い灯、青い灯、黄色い灯、ネオン花咲く不夜城にござんす。仮親と発しますは『角田』組二代目『関沢栄』従いまする舎弟にござんす」
もう、ほとんど歌舞伎。テキヤや愚連隊のこうした自己顕示優先の仁義は、「飾りメンツ」と呼ぶそうだ。
B面の各地方の仁義も、「飾りメンツ」のバリエーション。
「生国と発しますは、北は最果て蝦夷ヶ島、当今改めましては北海道は根っからの道産子でござんす。北海道、西と東にふりわけまする日高の山々天に見て、魔女の息吹は墓場の歌か、命張っての襟裳の岬、男荒波くだける音を聞いて育った道産子なれば、馬の目を抜く大都会、男度胸一筋と命張っての修行の身でござんす」(B-1「北海道仁義」)
など、七・七・五の韻に合わせた、お国自慢が半分の調子の良いものが続く。ここではもう、「お控えなすって」と謙譲を示し合う古い作法とは、精神が逆の働きを起こしている。江戸期は、無宿人となれば戸籍簿から存在が消され、ホントに「人間外の者」として生きざるを得なかった。基本的人権が認められた時代にそこまでの謙譲は必要無い。様式は、必要が無いまま育つとファンタジーに近くなる。
遂には、やくざではないのに、やくざと通じる集団心理・相互監視の強い社会の中で「飾りメンツ」を祖とする新しい仁義が、局地的に生まれるに至る。
「上げますお姐さんとはお初にござんす。従いまして私、生れも育ちも池袋です。渡世につきましては、ネオン慕って飛び来る蝶のフーテン集めて赤蜘蛛一家を作っております。姓名の儀、御免蒙ります。姓を掘田、名をシズ子。通称、赤蜘蛛のおシズと申します。以後よろしゅうお頼ん申します」(B-6「ホステス仁義」)
僕はここまで、あくまで幕末から明治にかけての博徒の仁義を正統と考え、他の仁義を異色の派生と捉えて紹介してきた。
もしかしたら、それは180度違うのかもしれない。博徒の実務的な仁義のほうがむしろ異例であって、ハレの言語感覚をギラギラと駆使した自己紹介のほうが、日本人が根っこに持っている芸能体質をより顕著に顕してきたのではないか。
実際、そう考えると途端に、戦国の世の武者名乗り(やあやあ我こそは)から、現代の「飾りメンツ」―MCバトルのリリックまでが、一気につながるのだ。
どれも、相手に見下されたらオシマイという緊張感が土台にあり、それゆえ表現として研ぎ澄まされている。自分がどう思うかより人からどう思われるかのほうが大事な、日本人の基本的性格が凝縮されている気がする。
企画会議やディベートなど複数いる場で手を挙げ、意見を交わすのは永遠に苦手なのに、舞台を整えて一人ずつの自己完結型アピールだったら途端にキレキレになる。メンドくさいポテンシャルを個々に持つ日本人! フシギな民族だ……。
※盤情報
『日本仁義全集』
1972
日本コロムビア
2,000円(当時の価格)
若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
さて今回は、仁義という儀礼に絞りつつ、全体にやくざの話でした。単純に、怖い、悪い、と嫌う人も多いかもしれませんが。江戸初期の人物で、歴史に残る最古のやくざである幡随院長兵衛の仕事は、幕府が江戸市街の整備をしたい時に人足を送り込む、口入れ業(人材斡旋)でした。近世においては、地方で生活にあぶれた者や社会秩序の外に置かれた者は、他にまるっきり居場所が無かった。長兵衛のような親分には、そんな連中を束ねてプールする、公的な役目も多分にあったのです。
僕だって、もしも幕末の農村の次男坊、三男坊に生まれてこんな性質だったら。小さな畑を譲られるだけなのも嫌だし、戯作師になりたくても江戸は遠いし、ならば地元の一家でいい顔になろうとしていたかも……と想像する次第です。
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