カンボジア小特集②【連載】ドキュメンタリストの眼⑱ リティ・パン監督インタビュー text 金子遊

『消えた画』の土人形

『消えた画』

——あなたの『消えた画』という映画は、1975年以降のプノンペン市民(主に都会人、知識層)らの、集団農場や農村への強制労働や虐殺を扱っています。『消えた画』は自伝的な作品ですが、貧しい農民出のあなたの父親は勉学を重んじ、断食をして抵抗して死んだ物語になっています。あなたがクリストフ・バタイユとの共同作業で書き上げた『消去』という本を読むと、その父が前政権の文部大臣の官房長をつとめた上院議員で、権力闘争に負けた側面があることがわかります。

また劇映画である『消えた画』では、父、母、兄弟姉妹たちは強制労働と飢餓のなかで死んでしまいます。自伝である『消去』では、クメール・ルージュの撤退後にあなたは姉のひとりと再会し、ヨーロッパにいる四人の兄を頼って、タイの難民キャンプからフランスへ移住します。『消去』を読んでいて衝撃的だったのは、クメール・ルージュが亡くなった人たちを子ども、女、男にわけて、正確に別々に埋めたという記述でした。『消えた画』のラストシーンでは、あなたの父親の遺体が「土」に埋められます。犠牲者たちの埋められた土から人形をつくり、それを映画に撮ることにこめた思いを教えてください。

リティ・パン 生命というものは、自然の要素でできているのだと思います。わたしたちは塵から生まれて、最後には塵にもどっていくとわたしは考えます。そして、生命の要素には、水、土、風、火などがあって、それらの元素が生命そのものなのだと思っています。『消えた画』における土人形もまた、土や水や太陽からできており、そういった生命の要素をもつものからつくられた人形が、歴史を語るというかたちをとりました。それはまるで亡くなった人がもどってきて、自分の物語を語り、また土にもどっていくようなものです。そして、あとに残るのはフィルムに焼きつけられた記憶だけなのです。

この映画のなかで、土人形は一切動かないんですね。たとえば、フィクションの映画を撮るときには俳優に演技指導をしますよね。その指導にに失敗をすれば、その映画はスペクタクルとしての映像に堕してしまいます。わたしはそのようになることを望まなかったので、それを避けるために人間ではなく、自然の要素から土人形に自分たちの物語を語ってもらう必要があったのです。それぞれの物語が語られることによって、亡くなった人たちの「歴史」がわたしたちに手渡されるのだと思います。

映画『エグジール』より

『エグジール』

——『エグジール』は土人形こそ使わないものの、『消えた画』と似た撮影スタイルで作られていると思いました。これは家族が亡くなった後に、生き残ったあなたをモデルにした少年を描いているのでしょうか。彼の眠る小屋を舞台に、そこにさまざまな幻影が立ち上がってきます。このようなスタイルにしたのはなぜか、そして、そのことによってどのような試みをしているのでしょうか。

リティ・パン 『エグジール』でわたしの分身である主人公が寝起きする小屋ですが、これは母親の胎内のような空間だと考えています。家というのは、わたしたちにとって最も安心できる空間です。そこにいれば、守られていると感じられます。クメール・ルージュの体制下においても、それは同じでした。たとえ、そのほとんどの時期にわたしたちが家をもつことができなかったとしても。この映画に出てくる小屋は家の原形であり、母なる存在でもあるんです。『エグジール』の物語のなかでは、母親の存在がとても重要な意味をもっています。その小屋のなかにいると、主人公の少年にいろいろな思い出がよみがえってきます。

この時代のように大量虐殺が起きているときには、ひとりひとりの人間にとって思い出が、かけがえないのないものに感じられるんですね。もし彼らが思い出を守ることができれば、そして、かすかな記憶を感じることができれば、アイデンティティを完全に破壊されてしまう行為に対抗することができる。思い出は、その人自身の物語です。その人にしか属することがないものです。そこにしがみつき、日々の屈辱や苦痛といったものを何とかやり過ごすしかなかったのだと思います。

——『エグジール』のもうひとつの主役といえるものが、その多くがクメール・ルージュ時代に失われたとされていた60年代から70年代にかけての、カンボジアのニュースフィルムです。ドラマ映像にニュースフィルムを大胆に挟んで行く方法によって、あなたはどのような効果を狙ったのでしょうか。

リティ・パン ニュースフィルムを使う方法は、思い出を語るために適した方法として選びました。ここに出てくるニュース映像は、主人公の少年が夜な夜なみている夢のなかのイメージです。彼が小屋のなかにいるときに、壁にいくつもの映像が浮かびあがってくるシーンがあります。それを見ているのは、少年自身であり、イメージが外在化されています。それから、少年が音楽をきいたり、絵を描いたりする場面があります。これはもちろん、当時はクメール・ルージュによって娯楽としての音楽や絵画は禁止されていたので、彼が自分の記憶のなかで想起していることです。

ひとつ確かにいえるのは、この少年は記憶のなかで生き続けているということでしょう。彼は自分の記憶のなかで、ロックや歌やダンスやそういった禁止されたものを取りもどしている。これこそが、全体主義の体制に対して、内側に自由をもつことで抵抗することを意味するのだと思います。少年が死んでしまった両親を弔って、お墓をつくるシーンがあります。これも無論、記憶のなかでおきていることにすぎません。実際には、あの時代に亡くなった人たちのお墓は、どこにあるのかわからないような状態だったのです。この場面でわたしは、全体主義が無に帰そうとしたものに対して、ひとりの弱い少年という存在が記憶の力で対抗している姿を示そうとしました。

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【Interview】人形に魂を込めることが、虐殺へのレジスタンスだった――『消えた画 クメール・ルージュの真実』 リティ・パニュ監督に聞く text 萩野亮(2014年7月)

【作品情報】

『エグジール』Exile
( フランス、カンボジア / 2016 / 78分 /監督:リティ・パン)

前作『消えた画』に続いてクメール・ルージュ時代のカンボジアを扱い、カンヌ映画祭でワールド・プレミアを飾ったリティ・パンの最新作。革命の理想と現実が生み出すギャップを観る者に考えさせつつ、これまでの作品とは異なる詩的なアプローチで母国を描いた傑作。

※第17回東京フィルメックス 特別招待作品
TOKYO FILMeX 2016 Special Screenings



【監督情報】

リティ・パン Rithy Panh
1964年生まれ。1988年にフランス・高等映画学院(IDHEC)を卒業後、現在までにドキュメンタリー・フィクションを問わず、20本以上の映画を製作。『さすらうものたちの地』(1999、山形国際ドキュメンタリー映画祭2001大賞)などがある。『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002)カンヌ国際映画祭のある視点部門グランプリ受賞作『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)等、ドキュメンタリー映画を中心に国際的に高い評価を受けている。映画製作の傍ら、カンボジアの文化・芸術省等と連携し設立した、カンボジアの視聴覚資料を収集・公開する「ボパナ視聴覚リソースセンター」を2006年に設立し代表を務めるほか、「カンボジア・フィルム・コミッション」を設立するなど、カンボジアの映像分野の牽引役として精力的に活動している。

【執筆者プロフィール】

金子遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。近著に『境域の映像 アートフィルム/ワールドシネマ』(森話社)など。neoneo編集委員。