『禅と骨』より
——本作では表現も多彩で、例えばアニメーションやCG、ウエンツ瑛士さんが出てる実写ドラマなど、普通の「ドキュメンタリー」に留まりませんよね。
最近、日本のドキュメンタリー映画を観ていると、とても閉塞感を感じてしまいます。
ただ素材を並べただけで、テーマを伝えることにしか関心がない作品が多いと思うんです。
ドキュメンタリーって、映画表現として多様で豊かだったはずなのに、その振り幅が狭くなってしまっている。それは佐藤真さんが亡くなる以前と以後で、より顕著になっていると思います。佐藤さん自身がドキュメンタリーのみならず、様々なジャンルの映画を研究されていたし、ドキュメンタリーにおける映画表現について考えて、実践されていた。しかし僕も含めた次の世代で、その意識をもっている作り手は、ほぼ見当たらない。佐藤さんがやってきたことへの回答として、ドキュメンタリーにおける映画表現の可能性を、現在進行形でやりたいという思いもありました。
——ラストシーンもすごくびっくりしました。ミトワさんが亡くなった後、そこまで映すんだってすごい感動したんですけど、それもご自身の表現の追求なのでしょうか。
どこまで映すのかというよりも、ミトワさんという対象者との関係があって、そうなったとだけの話であって、ドキュメンタリーって時間をかけて、追いかけていくと、「自分が撮ってる」というよりも「撮らされてる」感じになることがあります。映画に撮らされてるということかな。
勿論、何を撮るのか?論理的に組立てて、現場をコントロールして撮っているのですが、「なんで撮ったの?」と後で聞かれても、山じゃないけど、今回ならばそこに“骨”があったからとしか答えようがない感覚に陥っていくんです。実はそうなっていったことへの自覚もありました。この世界に足を踏み入れて、映画だけでなくテレビドキュメンタリーなども手掛けていくうちに、“こうでなければならない”とか“こうあるべき”みたいな、自分の中のルーティンができてくるんですよ。
例えばドキュメンタリーでも、映画だったらナレーションは入れないとか、音楽は入れない、画面が汚れるからテロップはあまり入れないとか。じゃあ画面の定義って何なんですかね?皆、あたかもそれが当然のように話しているけど、どこまで突き詰めて考えているのかと。そもそも表現に「でなければならない」なんてあるのかと。僕もそういった決めごとに縛られていたところは多々あったんです。ならばそれを一度、ひっくり返して、すべてを壊していこうと思いました。それぞれのシークエンス、シーンに対して、最もいい表現は何なのかを追求したかったんです。この映画は純粋な気持ちで作ったと思っているんですけど、それはドキュメンタリーに対して純粋ということではなく、自身の表現を追求することに純粋でありたかったということなんです。
——個人的には、今村昌平の『人間蒸発』(1967)を思い出しました。映画そのものという枠が取り除かれるような。ご自身が影響を受けた作品や作品はありますか。
今村昌平監督のドキュメンタリーは面白いし、刺激的ですよね。『人間蒸発』しかり、『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』(1970)も好きですね。しかし作り手として影響を受けているのは、小川紳介監督ですね。今回の映画を撮っている時にも「映画を獲る」を読み込んで、ちょうどユーロスペースで『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1987)が上映されていたので、もう一度観たくなって駆けつけました。小川さんの作品には、映画表現の豊潤さ、時間をかけてこそ獲得できるものが画面に刻まれていると思っています。
――「ドキュメンタリー」という垣根を取り払って、私自身すごく面白く見た作品でした。
所謂、スニーク・プレビューを2回やりました。同じ料金(1800円)を払って観てみてもらうので、ハリウッド映画にも負けないぞ!という意気込みで作っていたからです(笑)。
バジェットでは到底、足元にも及ばないけど、どうしたら勝てるんだろうか?また1800円分の満足を提供できるだろうかと考えていました。そもそも『ヨコハマメリー』もそうですが、私の映画は、テーマやメッセージを声高に訴えるドキュメンタリーではないので、自主上映はあまり動かないんです。なので映画館が主戦場ということを意識して作っていました。
協力プロデューサーの利重剛さんが言っていたのが、「『ヨコハマメリー』は中村君が撮れてしまった映画だけど、『禅と骨』は中村君が確信的に撮った映画だね」と。確かに『ヨコハマメリー』は自身が初めて撮ったということもあるし、自分の方法論を模索しながら、対象者たちとの出会いや偶然が重なって撮れた映画だと思うんです。でも『禅と骨』は1秒ごと、1フレームごとに確信的に作っています。また先ほどの「でなければならない」の話の続きになりますが、今回は『ヨコハマメリー』の方法論を壊すところからスタートしました。テーマはスクラップ・アンド・ビルド。全てを壊したところから、立ち上がってくる「何か」を見つけたかった。30代半ばから作り始めて、いま42歳になった時期だからこそ、無謀な挑戦をしたかったのかもしれません(笑)。
そもそも僕は、ドキュメンタリーでは小津(安二郎)のような監督は出てこないと思っています。溝口(健二)も、(テオ)アンゲロプロスもですね。ドキュメンタリーでは、自分の表現スタイルなんて作れないだろうと。テーマ、そして対象者との関係の中でスタイルが浮き上がってくる。ミトワさんが対象者で、それも途中で図らずもいなくなって、このスタイルになったけれど、次回作では、内容によっては、3時間ワンカットの映画を撮るかもしれません(笑)。料理人と同じで、素材(対象者やテーマ)を見つけてから、その素材にあった料理法を考える。まずは素材をどう生かすか?ここでじっくりと思索することに、僕は時間をかけてきました。自分のスタイルや価値観に押し込めようとすると、ドキュメンタリーは魅力を失っていくんです。
映画を観た友人に、「『禅と骨』はそれぞれのリテラシーや見方によって、撃鉄(トリガー)がひかれる映画だ」と言われました。嬉しかったですね。どのタイミングでひかれるかはわからないけど、それが無数にある映画だねと。元々、一言で簡単に説明できる映画にはしないぞ!という覚悟で作っていたので、狙い通りの映画ではあるんですけど、配給や宣伝の方は大変だとは思います(笑)。でも勿論、一言で語れるような娯楽映画はあってもいいけど、それだけだと面白くないじゃないですか。例えば、アメリカンニューシネマでも、子どもの時に観ても面白かったけど、その後、大人になってもう一度観ると、当時のアメリカの社会背景や歴史などが反映されていて、全く違った映画のように感じたりする。年代を重ねるごとに見え方がまったく違う、そういう映画を作りたいと思ったんですよね。監督としては、手応えはあります。ずっと喋ってきましたけど、実はあまり『禅と骨』について語りたくないんです。それは監督である僕が語ることによって、映画の価値とか見え方が小さくなってしまう気がして。映画はスクリーンで投影された時点で観客のものだと思っているので、さまざまな解釈をしてほしいですね。
『禅と骨』より
【映画情報】
『禅と骨』
(2016年 / 127分 / HD 16:9 / 5.1ch )
監督・構成・プロデューサー: 中村高寛 / プロデューサー: 林海象
ドラマパート出演:ウエンツ瑛士 / 余 貴美子 / 利重剛 / 伊藤梨沙子 / チャド・マレーン / 飯島洋一 /山崎潤 / 松浦祐也 / けーすけ / 千大佑 / 小田島渚 / TAMAYO / 清水節子 / ロバート・ハリス / 緒川たまき / 永瀬正敏 / 佐野史郎
ナレーション: 仲村トオル
音楽:中村裕介×エディ藩・大西順子・今野登茂子・寺澤晋吾・武藤イーガル健城
挿入曲「赤い靴」岸野雄一×岡村みどり×タブレット純、「京都慕情」岸野雄一×重盛康平×野宮真貴
エンディング曲「骨まで愛して」コモエスタ八重樫×横山剣(CRAZY KEN BAND)
配給:トランスフォーマー
劇中写真は全て©大丈夫・人人FILMS
公式サイト:www.transformer.co.jp/m/zenandbones/
ポレポレ東中野 キネカ大森 横浜ニューテアトルにて公開中
ほか、全国順次公開
【監督プロフィール】
中村高寛(なかむら・たかゆき)
1997年、松竹大船撮影所よりキャリアをスタート、助監督として数々のドラマ作品に携わる。99年、中国・北京電影学院に留学し、映画演出、ドキュメンタリー理論などを学ぶ。06年に映画『ヨコハマメリー』で監督デビュー。横浜文化賞芸術奨励賞、文化庁記録映画部門優秀賞、ヨコハマ映画祭新人監督賞・審査員特別賞、藤本賞新人賞など11個の賞を受賞した。またNHKハイビジョン特集『終わりなきファイト“伝説のボクサー”カシアス内藤』(10年)などテレビドキュメンタリーも多数手掛けている。