【連載】「ポルトガル、食と映画の旅」 第14回 ポルトからナザレへ text 福間恵子

さて4日後、充実のポルトを離れ、コインブラを経由して、漁師町ナザレにやってきた。コインブラからのバスはなかなかのローカル線で、田舎町に寄りながら2時間以上かかって到着した。バスの降車場に、なんとホテルの客引きがいた。チンピラにいちゃんではなく、ナザレ名物黒ずくめのおばさんである。バスを降りた観光客とおぼしき人間は5人ほどしかいないから、もちろんわたしたちにも声をかけてきた。どこか胡散臭い。もう決めてあるからと断わると、「シェ!」みたいな声を吐いて、離れていった。

ここもまた、漁師町セジンブラを思い出すような段丘の下に古くからの町がある。でもこちらの方が広がりがある。細かい砂の浜も、湾曲してずっと南につづいている。

夏は、ポルトガル国内だけでなくヨーロッパからも、バカンス客が押し寄せるのだそうだ。でもいまは3月。人は少ない。さっきのおばさん、閑散期の小遣い稼ぎをねらって来ていたのだろうか。

 

写真3 崖上の展望台から少し離れたところから見たナザレの町。

宿も決めて、観光案内所に行く。地図を広げただけでも、町のつくられ方がよく見えてくる。段丘の下、西側の大西洋に向かって町が作られ、東西に走る細い通りが何本も並んでいる。それが密集したところが「Bairro dos Pescadores」漁師地区と呼ばれ、ここから町ができていったことがわかる。浜の始まりである北端は切り立つ崖になっていて先端には展望台がある。崖の上にも町があり、そこにはケーブルカーで行ける。

今日は晴れていて風もおだやかで、町はこぢんまりといい気配である。大西洋も遠くまで輝いている。ここに2泊することに決めた。都会から漁師町へ。なかなかいいコースだ。

写真4 ナザレのおばちゃんの定番コスチューム。客引きおばさんの黒ずくめは寡婦の衣装だそうです。

ナザレといえば、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」(原題「Barco Nagro」黒い舟)。日本でも多くの歌手に歌われて有名だ。映画『過去をもつ愛情』(1956年、アンリ・ヴェルヌイユ、フランス)で、アマリアが歌って挿入され、映画のヒットとともにアマリアを世界に知らしめた曲である。わたしはこの映画を観ていないが、曲だけは知っていた。

逃避行の末にナザレにやってきた主人公の男女が、幸福な一日をすごす時間に流れる「Barco Negro」。その歌詞は、漁に出たまま戻らない夫を、年寄りたちがもう帰ってこないと言っても、浜で夜を明かして待つ妻。愛する夫との思い出を胸に、あなたはいつまでもわたしの心の中で生きている。そんな悲しい愛の歌だ。けれども、曲調は暗いわけではない。波のようなうねりがある独特のテンポで、ファドとは少しちがう印象。ずっとそう思っていた。夫を待つ妻が浜のどこかにいるかもしれないナザレの町を歩いてみたい、そんな単純な思いでここにやってきた。ところが、旅のあとで「Barco Negro」のことを調べていたら、とんでもない事実に行きあたった。

この歌はもともとブラジルで1950年代にヒットしたのだが、映画『過去をもつ愛情』の挿入曲のために、ポルトガルの詩人デヴィド・モウラオン・フェレイラが詩を書いてアマリアが歌ったという。それが「Barco Negro」。ブラジルの歌は、ピラティーニとカコ・ヴェーリョという二人のブラジル人が共同で作詞作曲した「Mãe Preta」(「黒い母」)という歌だった。どちらも黒を意味するnegro(a)とpreto(a)。どうちがうのかむずかしいところだが。当時「Mãe Preta」の歌詞はポルトガルでは禁止されていたという。その歌詞ははたして、恐ろしいものだった。

 

 ちぢれ毛の白髪

 しわだらけの老女

 どん底におちた

 物乞いする女

 

 旦那様の息子のゆりかごを

 ゆすってねかしつける

 

 奴隷小屋の中で

 白い子として生まれた 

 わたしの愛する子を

 大きな喜びとともに

 抱きあげる

 

 でも奥様がすぐに

 奪ってしまった

 

 黒い母はあふれる涙をぬぐい

 悲しみを愛のなかに洗い落として

 

 黒い母は

 旦那様の息子のゆりかごを

 ゆすってねかしつけていた

ポルトガルが200年以上にわたってブラジルを支配し、アフリカから多くの人々を奴隷として連れていったことは歴史が証明している事実だ。しかし、1950年代にブラジルでヒットした曲の歌詞がこのようなものだったことに、ポルトガルがブラジルに残した深い傷跡をあらためて思う。そしてその曲は、歌詞を変え映画に使われアマリア・ロドリゲスを有名にしたものだった。

ポルトガルといえばファド、である。ファドのルーツは19世紀前半にリスボンで生まれたというのが一般的だが、その原型はブラジルで生まれたという説が定着してきている。それも、アフリカから奴隷としてブラジルに送り込まれた人々の音楽と、ブラジルの土着の音楽とがあわさって生まれたものだという。それがポルトガルに逆輸入されてリスボンで発展していった。

「Mãe Preta」(「黒い母」)がブラジルで生まれ、ポルトガルに渡って「Barco Negro」(「黒い舟」)となった。ポルトガルにはブラジルから「奪い取って」きたものが、あらゆるところにある。それを侵略と呼ぶか融合と呼ぶかは、世界が抱える問題でもあるのだろう。

ナザレの町の崖の上の展望台に立った。3月の暖かい風が、そそり立つ絶壁をやわらかいものにしている。光る海の水平線には、ゆっくりと進む大きな船が数隻見えている。ここからどこにだって行ける。旅行者にさえもそんな気持ちを抱かせてくれる。この海には未知の夢がひろがっている。

ケーブルカーで下まで一気に降りると、喉がカラカラだった。登る前にチェックしておいた、店頭にバケツに入れた貝が置いてある食堂。年季の入ったチェックのネルシャツを着た赤ら顔のおっさんたちでいっぱいだ。漁師の男たちだろう。ここでビールと貝を注文する。赤貝を小さくしたようなベルビガオンという二枚貝。山盛りの貝の上に玉ねぎを辛く煮たものがのっかっている。うまい! カウンターを見れば、男たちはみな小さな細長いグラスで赤ワインを飲んでいる。わたしたちもそれを2杯ずつ。いい機嫌になって浜を歩けば、夕日がさきほどの絶壁を赤く染めていた。

写真5 赤貝を小さくしたような二枚貝のベルビガオン。味はあさりに似ている。このピリ玉ねぎがよく合った。

写真6 ナザレの市場で買ってきた朝食。とうもろこしのパン Broa のおいしかったこと! にんじんスライスも売っていた!

ポルトでブラジル出身の役者の芝居に出会い、ナザレでブラジルを思う種を拾った。ポルトガルを旅しているとどこに行っても、この国が支配した国々の、人にも文化にも言葉にもぶつかる。この混じり合いから何が生まれているのだろう。夫はいつも、ポルトガル領だったアンゴラなどのアフリカから入ってきた文化が、気になって仕方がないようだ。

帰国するたびに宿題はふえるばかりである。

(つづく。次回は3/5頃を予定)

今回の旅の舞台(地図)

福間恵子 近況
新年をポルトガル・アソーレス諸島のひとつテルセイラ島で迎えた。リスボンに戻りシネマテカで、ポルトガルで映画をつくっている鈴木仁篤さんにお会いできた。在ポル10年。2013年、草月会館でのポルトガル映画特集で鈴木さんの2作品が上映されたが、見逃していた。DVDで観せてもらった『丘陵地帯』(『Cordão Verde』2009)、すばらしかった。いま、共同監督のロサーナ・トレスさんと新作を編集中。完成が楽しみだ。