【連載】「ポルトガル、食と映画の旅」 第17回 アソーレス、大西洋の小さな島々 Ⅲ text 福間恵子

さて、フローレス島初日は土曜日だったので、町の中心にあるトゥリズモはすでに閉まっていた。ぐずぐずしていると、スーパーも閉まってしまう。食堂は少なそうなので、簡単な食料を買っておかなければならない。「旧市街」にある小さな食料品店で、フローレスで作られたブロア(とうもろこしのパン)とトマトを買う。そして「新市街」のスーパーで水やワインや缶詰などを買ったが、品数は選ぶほどもないくらいに少なかった。町の人たちはどこで食材を調達しているのだろうか。

夕方になって、また町まで散歩した。夕日が広い弧を描く水平線に近づいて、海が赤く染まりはじめている。昼間と同じ道が様相を変えていた。人が出てきているではないか。道端で大声でしゃべるおばちゃんたち。家々から流れるおいしい匂い。広場まで来ると、ポルトガルの風物詩「おっさんベンチ」が健在だ。食堂を出入りする人の顔も明るい。今日は土曜日。やっぱりここもポルトガルじゃないか。安心して、身も心もゆるんできた。

広場のはずれ、昼間はなかった場所に黒板の看板が出ている。店の名前らしい「O Marqués」の下にメニューが書き出してあり、肉料理もある。朽ちた塀の真ん中にあるその入り口をのぞいてみると、建物をこわした跡に塀だけが残った敷地である。その奥にかろうじて残されたような屋根だけの部分があって、奥の塀にへばりつくように1階と2階があった。その手前にテーブルと椅子が2組。若い男性と女性がいた。中に入っていくと「ウェルカム!」と言われたので「ビール飲める?」と尋ねると、「シュアー!」とメガネの男性が笑顔で椅子を引いてくれた。いやはや、こんな廃墟のようなカフェは初めてだ。

広い敷地なので空が広く見えている。瓶ビールミニを運んできた彼が言った。

「二日前に開店したんですが、お二人が初めてのお客さんです!」。

「店の名前はO Marqués(侯爵)なのね?」とわたしが冷やかして返して、みんなで大笑いした。それからうちとけて、いろいろ話した。

彼の名前はセーザルCésar。ここサンタ・クルースで生まれて育ち、本土のコインブラ大学に行き、卒業したのち島に戻ってきたそうだ。ここではまだ仕事はないけれど、島の暮らしが好きだと言う。この店も、知り合いの空き地をタダで借りて、夏だけのカフェをやろうと思い立ったとのことだ。いい音楽をかけていたので尋ねると、音楽だけでなく映画もとても詳しかった。アフリカも国内もお薦めのCDを教えてもらった。そして、最もポルトガルらしい映画監督はジョアン・セーザル・モンテイロだと言う。オリヴェイラではなくね、と。なるほどそうなのかと思う部分と、意外にも思えて、興味深い意見だった。「同じ名前だね」と言うと、「モンテイロはジョアンが名前で、僕はセーザルが名前だけどね」と笑って答えた。たぶん25歳ぐらいだろう。

ポルトガルの名門大学を出て、そんなに仕事もないこの島に戻ってきた。これから、どんな人生が彼を待ち受けているのだろうか。

小瓶ビール2本ずつで長居してしまった。夕食のつまみにペイシーニョス・ダ・オルタPeixinhos da Horta(畑の小魚=インゲン)のてんぷらを持ち帰りにしてもらって、店を出た。

夕闇の空は、明るさを残しながら深い藍色が支配してきていて、白い雲が筋を引くように流れていた。その合間に大きな星が輝いている。こんな広い夜空を見たのは、たぶん子どものころ以来だろう。ここに来ることを決めてよかった。

翌日、ホテルの朝食に行くと、年配の男女がたくさんいて、こんなに泊まり客がいたのだと思わされた。とびきり色の白い15人ほどの集団がいる。半分以上の人が金髪だ。ドイツ語に似たような言葉。北欧から来ているのだろうか。ビュッフェ式の、とりたててごちそうでもない朝食を、ナイフとフォークを上手に使って楽しそうに話しながら食べている。こういう光景は、日本のホテルの朝食ではなかなか見られない。それにしても彼らは、この島に何をしにやってきたのだろう。トレッキングだろうか。

きのう買ったとうもろこしのパン、じつに美味しいのだが、これにアソーレスバターを塗ったら、とびきりだった。

日曜日の今日は、ウィークデイでも本数の少ないバス便が皆無に等しいので、サンタ・クルースの町を隅々まで歩くことにした。英語版のガイドブックをしっかり読む。コルヴォ島往復の船もあるようだ。ホテルのおばちゃんに詳しく教えてもらう。明日の便があるという。往復30ユーロ。朝出て夕方戻る。行ってみたいけれど、フローレスの他の町を訪ねる方が優先と考えて、断念する。短い旅の日程は、いつも取捨選択を迫られる。

ガイドブックにthe whale factory(鯨工場)のことが書かれていた。地図を見れば、Rua da Indústria(産業道路)という通りがある。きっとその近くだ。バスターミナルもあるらしい。ホテルの北側、町の北端の海岸線のすぐそばだ。


サンタ・クルースの東の海岸線から。コルヴォ島がかすんで見えている。

きのう見た限りでの、サンタ・クルースの海岸線は真っ黒なゴツゴツした岩だらけで、いかにも溶岩の痕跡というものだ。サンタ・クルース北端の海岸線は、それの最たるものだった。東映映画の三角マークのバックの黒い岩、それのもっと激しいものがずっと海岸線を埋めている。そのつけ根あたりに、Porto do Boqueirão(大きい口の港)という名前の港がある。その名前に首をかしげるほど小さな港だが、近くに元鯨工場があった。建物の正面には、クジラを真っ二つに切断したオブジェが置いてある。この工場で鯨を解体し、加工したのだろうか。こんな小さな港から大きなクジラをここまで運ぶのは大変だったのではないか。建物の中には入れないようになっていた。

すぐ近くに1軒のバルとちょっと豪華そうなホテルがあった。バルの古い看板にはクジラの絵が描かれている。そこから産業道路に沿った区域に入ると、古い工場跡のような大きな箱型の一連の建物が、その間を広くとって向かい合わせに並んでいた。使われていないものが半分ほど、残りの半分は、大きめのスーパー、おもちゃのチェーン店、車の整備工場、カフェ、バスの営業所などだった。どこもがらんとしているが、スーパーには人の出入りがあった。バスルートと時刻を確認してからカフェに入る。ちゃんと喫煙スペースがあった。奥が広そうなのでそちらを見ていると、レストランもあるのよ、と店の女性に言われた。

それから再び元鯨工場あたりに戻って、港から岩場の方におりた。波打ち際まで歩くのも大変なほどの岩場で、その先端には波しぶきをあびながら釣りをしている人が数人いた。近寄ってバケツの中を見せてもらうと、大きな真サバが数匹入っている。こんなところでサバが釣れるなんて。

ポルト・ヴェーリョの防波堤から飛び込もうとしているおっさんたち。

サンタ・クルースのもう二つの港にも行ってみた。Porto Velho(古い港)というところに、小さな漁業組合の建物があった。日曜日で人の気配はまったくないが、どうやらここに漁師たちの獲った魚が集められると思えた。そばに漁師町らしい古い造りの家が4、5軒残っている。この港の防波堤から、おなかのぷっくり出たおっさん三人が、子どもみたいに体を突つきあって海に飛びこむ様子が、なんともおかしかった。とはいえ、防波堤はかなりの高さで、きっと下の海も深いはずだ。この島で子どものころからそうやって生きてきたのだろう。その横でももちろん釣りをする人がいた。

二つの港のある東側の海岸には、大小の岩礁がすぐ目の前にいくつも並んでいる。それらのはるか向こうの他の島々や、さらに遠い本土に視線を馳せながら、大きな夢を抱く子どもも大人もいたにちがいない。

夕食は、工場跡のカフェのレストランに行った。奥に入っていくと、天井の高い広い空間だった。簡素だが丈夫に作られた木の大きな長テーブルが六つ。客はいない。ここに座っていいかと尋ねると、隣にちゃんとしたレストラン席があるからそちらにどうぞ、と昼間の女性が言う。いや、ここが気に入ったからここでぜひとお願いした。ここは、観光客ではなく町の人たちが利用する「食堂」なのだろうか。奥正面が広い調理場になっている。

お薦めのアソーレス名物料理Alcatraアルカトラと、Lirioリリオという魚のグリル焼き、ワインはピコ島の白をお願いした。出されたアルカトラは、テルセイラのそれとずいぶん違うものだった。あちらは牛スネ肉の煮込み、フローレスのそれは味付けしたビーフステーキだった。フローレスのアルカトラはこれなのよ、と女性が言う。アソーレス名物といっても島によってこんなにもちがうのだ。これにポテトフライとサラダがつく。リリオのグリル焼きには、茹でじゃがいもとサラダ。サラダはレタスとにんじんの千切り二人分たっぷりをまとめて別皿に盛ってくれた。すべてがすばらしく美味しかった。リリオは、たぶんカツオの仲間なのだろう。脂は少なめだが、新鮮で上品な味だった。ピコの白ワインは、日本でも手に入る銘柄の上のクラスのもので、キリッとシャープでとびきりだった。しめて36ユーロは、わたしたちには贅沢な値段だったけれど、この島でなら仕方がないと納得した。

フローレス島の「アルカトラ」とリリオのグリル焼き。

勘定をしてから、この建物のことを女性に尋ねた。

「店の名前『O Moleiro』のとおり製粉所だったのよ。隣はパン屋。捕鯨が盛んだったころは、島の人間だけでなく外国人もたくさん来ていたから、パンが大事。アメリカから小麦が運んでこられてね。ここが島の産業の中心だったのよ。市場も整備工場もなにもかもあった。だからこんなに広くて天井が高いの」と教えてくれた。

「20世紀初めごろから捕鯨の仕事で島は潤ったけど、1980年ごろに捕鯨が終わって、ここもどんどんさびれていった。そのあとしばらく使われなかったけど、いまはこうしてスーパーもできて……」。

この話を聞いて、英語版ガイドブックのこの島の歴史を読んだ。鯨はコルヴォ島の男たちが捕獲して、それをフローレス島に運んで解体して加工したという。フローレス島には、サンタ・クルースとラージェス・ダス・フローレスLajes das Floresに工場があったそうだ。そして彼女が言ったとおり、アソーレス諸島西グループ(フローレスとコルヴォ)の捕鯨は、1981年のコルヴォでの捕獲をもって終了したという。

アソーレス諸島全体に、捕鯨の歴史とともにある人々の物語は数限りなくあるけれども、産業にとぼしい最西端の二つの島にとっての捕鯨の終焉は、より深刻なものだったろうと想像する。

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