さて、リスボンは地方でいうとエストレマドゥーラに属する。小さな街とはいえ一国の首都であるから、国内各地のみならずブラジルからもアフリカからも人々はやってきて住みついている。さらに近年は、アジア(ネパール・バングラディシュなど)や旧ロシアからの移民も増えている。言語も文化も食も多様な首都だ。とはいえ、東京のように世界中の食が集まる首都ではない。自国の食文化がなによりもまず優先されていて、後続するチャイニーズ、アフリカンは大きく差をつけられている印象だ。アメリカのファストフードや各国料理と銘打った店は、ごくわずかしかない。ポルトガルの食は、いい意味での保守なのだろうかとときどき思う。
全国から食材が集まるリスボンだが、ことタラについてはもっとも豊かな街ではないだろうか。ポルトガルといえばバカリャウ=タラ。タラを語らずしてポルトガルを語るなと言われるように、リスボンにタラあり、である。市場やスーパーやタラ専門店で、塩だらけの反った白い板のような姿で並んでいるタラは、リスボンの、いやポルトガルの風物である。
大きいカフェのカウンターのガラスウィンドウの中には、小さなおつまみペティスコスが並んでいる。パステイシュ・デ・バカリャウPastéis de Bacalhau(タラのコロッケ)、パタニスカス・デ・バカリャウPataniscas de Bacalhau(タラのかき揚げ)、バカリャウ・フリートBacalhau frito(タラの天ぷら)の三つがタラの代表ペティスコスである。見るからにおいしそうで、たいしておなかも空いてないのに、赤ワイン片手にちょっとつまもうかという気にさせられる。店によって姿も味もちがうので、とりわけ小さなコロッケは、ついここのも食べてみようかとなる。
わが家のタラコロッケ、パシュテイシュ・デ・バカリャウ。
アレンテージョの北の町ポルタアレグレで初めてパタニスカスを食べた。ふんわりとしみじみ美味しくて、帰国してすぐに作った。まだシリーズ本は2冊しか持っていなくて、どちらにも載っていなかったので、味の記憶だけをたよりにした。当然ながら、どこかなにかちがう。そう思って何度もつくった。切り身のタラに塩をして身をしめて、玉ねぎとパセリを加えてかき揚げの要領だが、ふんわり度がちがう。粉を強力粉に変えて牛乳を加えた。だんだん似てきた。その後、これもまた店によってずいぶんちがうものだとわかって、いまでは我流でいいのだと思っている。余談だが、この我流パタニスカスは福間健二の映画『秋の理由』に登場させ、食堂の女主人(安藤朋子さん演じる)に「ポルトガルの味よ」と言わせている。
パタニスカスは、日本の「ひりょうず(飛竜頭)=がんもどき」の元祖とも言われている。ポルトガル語で「オリーブ油で揚げたパンケーキ」ほどの意味のフィリョfilhóという単語があって、そこから来たという説がある。カステラやコンペイトウなどの南蛮渡来語のひとつだろう。ひりょうずのつなぎの豆腐を牛乳で溶いた小麦粉に代えて、ひじきやゴボウやニンジンをタラとパセリに置き換えれば、ポルトガルの味だ。ポルトガル料理は、じつは日本がもともと持っている庶民の料理ととても似ている。
旅の終わり、明日は帰国だという日は、だいたいリスボンにいる。そういう日、ポルトガルとしばらくお別れだと思うと、なぜか食べたくなるのがコジード・ア・ポルトゥゲザCozido à Portuguesa(ポルトガル風煮込み)だ。これもまたポルトガルを代表する煮込み料理。北の地方には、ランショRanchoという名前で、ほとんど同じような煮込み料理がある。コジードは、豚足・豚のスペアリブ・鶏の骨つき肉・チョリソ・血入りチョリソ・キャベツ・にんじん・じゃがいも・カブ・インゲン豆をしっかり煮込んだものが大皿からはみ出すほどの山盛り。初めてのときにその量にまいって、以後は必ず二人で半分(メイア・ドーゼ)を頼むことにしているが、食べても食べても「まだこんなにある!」状態は長い。ひとりでなんかとても注文できない。だがしかし、困ったことに、これがじつにうまいのだ。なにもかも放りこんで煮た、素材すべてから出てきた旨み。しかもそれぞれがちゃんと存在感をもっている。味つけは塩だけ。魔法のような料理。これぞ大家族の家庭料理、母ちゃんの味である。旅が終わりになるころ、それを無性に食べたくなるのだ。
リスボンで食べたコジード・ア・ポルトゥゲザ。
初めてこれを食べたときの光景が、いまもくっきり目に浮かぶ。カモンイシュ広場をすこしはずれたところにある小さな食堂。ほぼ満席だが、一番奥のひと組の老夫婦のテーブルに相席で案内された。メニューを見ながら決めかねているところに、老夫婦の料理が運ばれた。それを見て夫と、暗黙の「驚き!」を目でかわし、わたしたちもそのメニュー、コジード・ア・ポルトゥゲザに決めた。すごい量だから、前菜を一つ注文して、コジードは二人で分けることを断わったうえで注文した。老夫婦はコジードと小アジの唐揚げのそれぞれを二人で分け合って食べていた。山のようなコジードを、肉の骨を外しキャベツを上手に切り、しずかに黙々と口に運びながら平らげていく。そのさまは、みごとでとても美しかった。食べ終わった皿は新品のように汚れひとつなかった。彼らの身なりから察するにそんなに裕福ではないだろう夫婦の、週一回、いや月一回の贅沢な夕食だったのかもしれない。
わたしたちは残念にもくやしくも、食べきれなくて残してしまったが、「コジードの食べ方」の師匠と仰いで、あの夫婦のことは忘れない。これぞポルトガル人だと思った。それにしても、小柄な老夫婦の身体のどこにあの量がおさめられたのか、謎のようでもある。
家で一度だけコジードに挑戦したが、肉もチョリソも同じようなものは手に入らず、見た目は似ても味は激しく非なるものになってしまった。ほかの料理はさておき、コジード・ア・ポルトゥゲザは、ポルトガルでポルトガルの人々とともに食すものである。
ポルトガルで食べる。ポルトガルを食べる。わたしの旅はいつまでも終わらない。
<つづく。次回は8月5日前後に掲載します>
福間恵子 近況
梅雨の最中なのにもうこんなに暑い。福間健二監督、企画の中止から立ち直り、新企画を立ち上げて第6作を8月に撮影します。猛暑の東京はこりごりだったはずなのに……。がんばりまーす! タイトルは「パラダイス・ロスト」。どうぞ応援してください。