【連載】ドキュメンタリストの眼⑳ ジョージア(グルジア)映画祭 はらだたけひでインタビュー text 金子遊


10/13(土)から東京・神保町にある岩波ホールで「ジョージア(グルジア)映画祭」が2週間の日程で開催される。劇場未公開作品ばかりを20本近く集めた本格的な映画祭である。1年以上前から映画祭を準備し、ジョージアの監督たちと直接交渉を重ね、チラシや解説文の執筆までして、プログラミングを担当したのは、同ホールのはらだたけひで(原田健秀)氏だ。氏は絵本作家として知られ、ジョージアを代表する画家ニコ・ピロスマニの日本での紹介者でもあり、著書に『放浪の聖画家ピロスマニ』(集英社新書)などがある。2018年4月に新著『グルジア映画への旅』(未知谷)を刊行し、映画祭を企画したはらだ氏にお話をうかがった。(構成・写真=金子遊)


グルジア映画との出会い

——グルジアやグルジア映画との出会いを教えてください。


はらだ 今からちょうど40年前の1978年秋に、当時はソ連邦の一部だったグルジア映画『放浪の画家ピロスマニ』の公開に携わったのが最初です。当時ぼくは24歳でした。ぼく自身も絵を描いていたこともあり、ピロスマニの絵画に魅せられ、映画のもつ独特の雰囲気にも魅せられ、それまでまったく知らなかったグルジアという国に強い関心を抱くようになりました。岩波ホールとして初めて外国から監督を招聘したのも、この映画でした。グルジアからギオルギ・シェンゲラヤ監督が来日し、わずか1週間の滞在でしたが、彼は熱心にピロスマニついて語り、グルジアの宴会の作法をぼくたちに教えてくれました。グルジア民族への熱い思いは、ぼくだけでなく岩波ホールの総支配人高野悦子やみんなも感化されました。ぼくがピロスマニのことをもっと知りたいというと、シェンゲラヤ監督が「ピロスマニを深く知るには、グルジアを知らなければならない」と答えたことをよく覚えています。

その3年後、ようやく願いがかなって1981年春に新婚旅行も兼ねて、グルジアを訪問しました。到着するなりシェンゲラヤ監督が迎えてくれて「あなたたち2人は、ここでは人々の温かさ、優しさ以外に見いだすことはないだろう。そしてこの国を去るときには別れが辛くて涙を流すだろう」といいました。まさにその言葉通りに、滞在中にとても厚い歓待を受けて、完全に魅せられて帰ってきました。それからはどんなに小さな記事でも、グルジアの「グ」の字があれば切り抜いてスクラップしてきました。その後も岩波ホールでは、オタール・イオセリアーニ監督の『落葉』(66)や、ラナ・ゴゴベリーゼ監督の『インタビュアー』(78)を公開し、「はらだに捕まると1時間はグルジアの話を聞かされる」と映画記者たちにいわれるほど熱くなっていました。

そして1986年に、言語学、音楽、歴史などの専門分野でグルジアを研究する学者の人たちを中心に「日本グルジア友の会」を設立しました。我が家の狭いアパートがその事務所になりました。ミニシアター・ブームのなかで岩波ホールの仕事が大変忙しくて、ぼく自身はなかなかグルジアを再訪できなかったのですが、グルジアから科学者、音楽家、演出家などが来れば、ぼくたちでもてなして交流をずっと続けてきました。1991年の春にグルジアが独立し、12月にソ連邦が解体して彼らの念願がかなったわけですが、その後、グルジアが混乱と戦乱に巻きこまれったいったことは、みなさんがご存知の通りです。
はらだたけひで氏

著書とグルジアへの旅

——ご著書『グルジア映画への旅』がどうやって成ったのか、教えてください。

はらだ 9・11が起こり、その後、世界が不安定になってゆくなかで、私も鬱々とした思いになっていました。そのなかで2006年頃、ピロスマニのことが心から離れなくなり、ぼくも人生をそれなりに年を重ねてきたけれど、結局ピロスマニの所に帰ってきたわけです。そのことによってぼくはなんだか救われたような思いがしました。そしてピロスマニの研究も他人がするのを待っているのではなく、まずは自分で動かなければならないと思い、ふたたびピロスマニとグルジアと向き合うようになり、『放浪の聖画家ピロスマニ』などの本を書き、2009年には久しぶりにグルジアを訪れました。その頃にはトビリシの街もようやく落ち着きを取りもどしていましたね。

さて、60歳をすぎた頃から、2019年春に岩波ホールを定年退職することを意識するようになり、ピロスマニのときと同様に、自分の使命として今のうちにグルジア映画について知っている限りのことを書き残しておく必要があると考えるようになりました。それまでに集めたグルジア映画の断片的な資料を2015年くらいから整理しはじめました。同じ時期にグルジア在住の言語学者、児島康宏さんから、いろいろ工夫すれば、画質は悪いけれど古いグルジア映画をYouTubeで観られると教えられて、言葉はわからないけれど時間があるときに片っ端から作品を観ていきました。

たとえば、この本でも書いた『少女デドゥナ』(85)というダヴィト・ジャネリゼ監督の作品は、コーカサス山脈の山間に住む女の子の物語です。父親とふたりだけで暮らす少女の質朴な生活を、淡々と追った作品です。シナリオを書いたのはレヴァズ・イナニシュヴィリという作家で、イオセリアーニの『田園詩』とか、テンギズ・アブラーゼの『希望の樹』の脚本を書いた人ですね。1985年のマンハイム映画祭でグランプリを受賞して、この映画を観た人が書いた「すばらしい作品だった」というレポートを読みました。それからずっと30年間観たいと思っていた作品でしたが、それがついにYouTubeで観られたのです(現在は不可)。

2017年7月に、ロシア文学者の沼野充義氏や金子さんたちとグルジアを訪れたときに、ジャネリゼ監督にようやく会うことができました。本にも書いたエピソードをご紹介すると、監督に映画祭で上映したいというと「プリントは失われて、ネガはロシアにあるが、もう自分には手が届かない。でも君の気持ちはとてもうれしい」といっていました。その後、12月にグルジアの映画祭で会ったときに、『少女デドゥナ』の古いプリントから個人的にDVD化したものをコピーしてプレゼントしてくれました。帰国してから上映をあきらめきれないぼくは、ためしに岩波ホールのスクリーンに映してみたら、色はあせて、ノイズなど、いろいろな問題点はあるけれど、映画の良さは、観客の心に十分届くのではないか、と思いました。そしていただいたDVDをDCPにして上映したいと恐る恐る監督にメールしたところ、とても喜んでくれました。

はらだたけひで著 『グルジア映画への旅』(未知谷 刊)

▼page2 ジョージア映画祭への道 につづく