【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.21 ブリランテ・メンドーサ監督(TIFFコンペ審査委員長)インタビュー text 金子遊

2005年の長編映画デビュー以来、『フォスター・チャイルド』(07)や『サービス』(08)や『キナタイ マニラ・アンダーグラウンド』(09)といった、いわゆる「スラムもの」のリアリティあふれる作品群で国際的な評価を高めてきたブリランテ・メンドーサ監督。だが近年は、実際にフィリピン南部の武装組織によって起きた観光客誘拐事件をあつかった『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』を撮ったり、東京国際映画祭で上映された『汝が子宮』は南部のイスラム教徒の少数民族を撮った作品であったり、フィリピン国内のさまざまなマイノリティの姿に光を当てている。そして、日本国内でも劇場公開された『ローサは密告された』(16)では、久々に本格的な社会派の「スラムもの」を撮りあげた。来日した監督に近作を中心にお話をうかがった。(構成・写真=金子遊)



ファウンド・ストーリーの方法論

——メンドーサ監督が師事した脚本家のアマンダ・ラオのメソッドが、どのようなものであったか教えて頂けないでしょうか。

メンドーサ
 それは「ファウンド・ストーリー」と呼ばれているメソッドです。この「ファウンド」というのは4つの原則に基づいています。1つ目は、現実の状況や経験に基づくストーリーでなくてはいけないということ。2つ目は、それが自然なものではなくてはならないことです。映像を見たときに、人物の動きが振り付けされたり、リハーサルされたりしたものであってはならない。本物の人間の動きでなくてはいけない。3つ目には、社会的な関連性や意味がなくてはならないこと。登場人物の男性、あるいは女性の物語であったとしても、彼ら/彼女らが属するコミュニティに関するストーリーになっているべきだということです。4つ目には、映画の物語のなかに何か課題がなくてはならない。それを哲学として、映画を通じて伝えるものが何かなくてはいけません。これら4つの要素のなかにさらに細かな要素があって、それらの要素がその哲学を定義していると考えます。それが、わたしが「ファウンド・ストーリー」と呼んでいる物語づくりの原則です。


——たとえば、メンドーサ監督が撮った『フォスター・チャイルド 』 (2007) という映画のなかで、フィリピンにおける里親の制度を取りあげたのは「ファウンド・ストーリー」に基づくものだったのですか。この映画では、長まわしを基調とするカメラが、主人公の母親であるテルマの行動に密着して、人物のセリフと街の雑踏などのノイズが生々しく耳に飛びこんできます。マニラのスラムでたった5日間の撮影で撮られたというのも驚きです。スラム街をリアルに描くとき、そのコミュニティが持っている課題をどのように考えて撮ったのでしょうか。

メンドーサ スラム街に暮らす人たちにも、もちろん人生や愛の物語があります。ある人が家族や恋人に愛を注ごうとしても、実際の人生においてはそれが十分になされることはありません。そのスラムの社会において自分が生き延びていくためには、もっと現実的な側面においてやらなくてはならない課題がいろいろあるからです。『フォスター・チャイルド』のなかでわたしが伝えたかったのは、まさにそのような人間性が直面している課題だったのです。

この映画に登場するテルマという母親には、実子がふたりいます。その一方で、テルマは里子(フォスター・チャイルド)に行く子どもを一時的に預かる仕事もしています。3歳のジョンジョンを引き受けており、アメリカ人の里親が見つかるのを待っているところです。彼女は里子に対しても、母親としてその子にできるだけのことをしたいと思っています。実際には自分の子どもではないという現実をきちんと理解しながらも、心のなかではすべてを捧げたいと思っている。やがて里親の希望者が見つかって、テルマは切なさを感じながらもジョンジョンを連れて引き渡しの場所に向かうことになるのです。
『フォスター・チャイルド』(2007)

ローサは密告された

——同じくフィリピンのスラム街を舞台にした新作『ローサは密告された』 (2016) は、日本でも劇場公開されてソフト化もされて、一般的に広く観られる作品になっています。この映画の製作には5年の月日がかかっているということですが、この映画でフィリピンの麻薬問題に光を当てたのはなぜでしょうか。

メンドーサ 麻薬の問題は現代のフィリピンにおける社会的な課題になっており、それを取りあげたかった。取りあげなくてはいけないと思いました。麻薬のテーマだけを扱っているのではなく、『ローサは密告された』に登場する小売店をやりながら、裏で麻薬の販売に手を染めている夫婦とその家族が主たる登場人物ですが、彼女たちは麻薬の問題を含む難しい状況に直面するような場所に暮していたわけで、その生活の全体を描こうとしました。この映画は家族のストーリーであり、特にローサという女性の母親としての物語になっています。この映画のなかで描こうとしたのは、彼女の人生のなかにおけるグレーゾーンの側面といえるものです。

映画を観ている人々に、ローサの人生においてどの部分が正しいもので、どの部分がまちがっていたのか、考えてもらいたいと思ったんですね。何が道徳的なもので、何が非道徳的なものであるのか、そのような問いかけを観客にむけて投げかけたかった。実際にローサが置かれたような状況に自分がなってみなければ、本当の意味で何が正しくて何がまちがっているか、簡単にはいえないのではないかと思うからです。麻薬のシンジケートや政府の側から見たときに、ローサという女性は良き市民とはいえないかもしれません。でも彼女の子どもたちにとっては、彼女が良き母親であることにまちがいない。ということは、彼女が正しいとかまちがっているということは、誰にも指摘できないことなのかもしれません。わたしにとって道徳とは、選択の問題にすぎないのです。

——『ローサは密告された』のストーリーをつくるにあたって、そのアイデアは新聞記事から来たものでしょうか。それから、ストーリーを形づくっていく上で、どのようにリサーチを進めていったのでしょうか。たとえば、警察の内部における汚職や腐敗の問題などは、どのように調べていったのか。

メンドーサ この物語は新聞記事からきているのではありません。実際にわたしの知人が、警察に拘束された経験を聞いたことが、それがこのストーリーをつくることになった発端です。不思議なことに、わたしはどのような社会を撮影対象にしても、どのようなストーリーをつくるときでも、現実的な問題を調べていく方法を何とか見つけてしまうのです。なぜなら、わたしは映画の登場人物たちのひとつの側面だけを見せようとするのではなく、必ず別の側面をも表現しようとするからです。良い警察官もいれば、悪い警察官もいます。実際にフィリピンで警察官をやっている人のなかで、警察官としての物語をわたしに語ってくれる人物が何人かいます。

——『ローサは密告された』における即興演出についてお聞きしたいのですが。たとえば、ローサのお店に警官たちが強制捜査で踏みこんでくる場面は、どのように演出をしたのでしょうか。

メンドーサ ローサとその家族を演じた人たちには、お店のなかで夕飯を食べていて下さいといいました。それで、彼らは食事をしていました。そして、警官たちが外の夜の闇から近づいていきました。だから、彼らは次に何が起こるか知らされていませんでした。一方で、お店に踏みこんでいく警察官役の人たちには、店のなかで麻薬を探してくれ、と指示しました。あの場面では、3人のカメラマンを使っています。ひとりには人物たちのクロースアップを撮ってくれと指示し、もうひとりには、とにかくローサだけを追うようにいいました。それで3人目のカメラマンには全体の状況を撮るように伝えました。それら3人が撮影したものを編集で組み合わせていったのです。

——映画から少しはなれた質問になりますが、実際のフィリピン社会における警察の腐敗について、どのように考えていますか。それから、この映画の物語はドゥテルテ大統領が強権的に麻薬の撲滅運動を進める前の話でしょうか。

メンドーサ フィリピンの警察だけに限らず、どこにでも腐敗は蔓延しています。このような腐敗した状況を外部にさらけ出そうとしている映画作家は、わたしくらいのものなのかもしれませんが。だからといって、他の世界のどこか別の国において、まったく腐敗がないかというと、そうではありませんよね。先進国においても、もっと大きなスケールにおいて汚職や腐敗がなされているのだと思います。

そうです。この映画はドゥテルテ大統領が登場する以前の物語です。いまの政権は、麻薬の売買や使用に関して、フィリピン社会に問題があるということを理解しています。わたしたちの国のなかで、この麻薬の問題がとても大きな問題であることがわかっています。ドゥテルテ大統領は、麻薬の問題を解決しようとするための、彼なりの方法をもっているように見えます。彼は大統領であり政治的指導者であり、そしてフィリピンの多くの人間に投票されて選ばれた大統領です。ですので、大統領という権限において、彼がどういうふうに解決しようか決めることができる。その権限を彼に付与したのは国民です。ただ彼がおこなっているやり方に、すべてのフィリピン人が合意しているわけではありません。つまり、すべての人が彼に投票したわけではなく、常に彼に賛成しない人がいることも事実です。ただ大多数の人間が彼に投票したという事実は、尊重されるべきだと思います。
『ローサは密告された』(2016)

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