【Interview】歌は、歌い続けることで守られる 『あまねき旋律(しらべ)』アヌシュカ・ミーナークシ&イーシュワル・シュリクマール監督インタビュー text 若木康輔


インドのドキュメンタリー映画『あまねき旋律(しらべ)』が、封切られると同時に高い評価を受け、順調にロードショー中だ。

昨年開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭で〈アジア千波万波〉部門奨励賞と日本映画監督協会賞を受賞した時の題名は『あまねき調べ』だった。公開タイトルはより音楽映画の本質に近づいたものとなり、民族音楽に興味・関心を持つ観客を惹きつけている。といって馴染みのある、いかにもインドらしい伝統音楽が流れるわけではない。紹介されるのはインド東北部ナガランド州の、ミャンマー国境付近の村で歌われる民謡「リ」。
山間の棚田で村人が働きながら歌う「リ」は魅力的で、しかしよく聴くととても不思議な奥行きを持っている。元気のある斉唱ではなく、各自の歌声が重なり合ってコーラスになっていく。最大では男女混成八部にまでなるという、楽理的には非常に複雑な構造の合唱なのだが、実に涼しく、伸び伸びと聴く人の胸に入ってくる。南アジアの中では、かなり稀な形態の音楽らしい。
監督のアヌシュカ・ミーナークシとイーシュワル・シュリクマールは、同じ演劇集団のメンバー。その延長でインド各地の日常に根差した歌や踊りを記録する活動をスタートさせ、ナガランド州のペク村で「リ」に出会った。
音楽に触れることがすなわち労働の記録となり、村の生活と文化を知ることになる。詩情と考察がぴったり噛み合っていて、誰が見てもなんらかの瑞々しい発見が得られる映画だ。
試写用プレスシートに掲載された、配給のノンデライコ(大澤一生)による公式インタビューが非常に充実していて、製作に至る経緯や撮影・録音の工夫、ペク村の歴史的背景まで、この映画をより理解するための基本的な情報が網羅されている。いささか熱心に掘り過ぎて、「取材しても他に聞くことがなくなる」と苦情(?)を受けるほどだったそうだ。
公開後は一般の観客も読めるようになっているので、安心して、なるたけ公式インタビューとは別の話を聞かせてもらった。
(取材・構成/若木康輔 通訳/藤岡朝子)



私達の日常は、なぜ歌と切り離されてしまったのか

−−まず感想を。市場で流通される音楽以外の、全ての音楽の要素が入っている映画ではないでしょうか。能動的に見ていく人ほど、蓄えられた情報量の厚みが分かるでしょう。
お二人は『あまねき旋律』を通じてナガランド州について知ってほしいとよく語られていますが、見る人の多くはそれ以上に、自分の国や生まれ育った場所の文化を学び直したい気持ちに誘われる気がします。それは本意とは違ってきますか?

アヌシュカ いえいえ、そんなことはありません。『あまねき旋律』を作りながら私達もずっと、自分達のライフスタイルについて考えさせられてきましたから。

イーシュワル 魅力的なおばあさんが登場する映画を見たら、自分の祖母に久しぶりに電話してみたくなりますよね? 『あまねき旋律』を見た後で似た感情を持ってくれるのなら、とても嬉しいことですよ。

アヌシュカ 私達二人は2011年に〈U-ra-mi-li(我が民族の歌)プロジェクト〉を始めて以来、インド各地の歌と労働の関係について調査・研究と撮影を続けています。そのうちのひとつであるナガランド州ペグ村に焦点を当てて長編映画にしたのが、『あまねき旋律』です。
労働歌をめぐるこのプロジェクトに取り掛かってすぐに立ちはだかったのは、「大きく変わってしまったのは、私達の音楽との関わり方のほうではないか?」という命題でした。
今や多くの現代人は、単なる音楽の消費者です。音楽を聴く時間は一日の一部分であり、日常と音楽が切り離されている。ペク村の人達のように自然と歌う自由を、自分の手で失くしています。
なぜそうなってしまったのだろう。取り戻せる可能性はあるのかと、答えを探すようにして映画を作りました。何度も考える時間は、ナガランド州の情報を集めるのと同じか、それ以上に大事な時間だった気がします。

イーシュワル この自問は、おっしゃられたように自分のコミュニティを考えることに通じます。『あまねき旋律』のメインテーマは労働と歌の関係ですが、作りたかったのは、コミュニティについての映画だったのかもしれません。

『あまねき旋律(しらべ)』

−−お二人はこれまで、どんな音楽を聴いてこられましたか?

アヌシュカ いろいろ聴いてきましたよ。カルナータカと呼ばれるインド南部の伝統音楽を祖父母が演奏していたので、幼い頃から親しんできました。学生の時は、世界中の若者と同様にロックやポップス。大人になってからはジャズやワールドミュージック。ワールドミュージックといっても、スタジオの技術で綺麗に作り込まれたものではなく、もっとアマチュア的というか、完成度を目的にしていない音楽が好みです。

イーシュワル 僕はヒンディー語映画音楽の大ファンなんです。特に古い、1940~60年代の(笑)。それを聴かない時は、ラジオを付けっぱなしにしています。家にテレビを置いていないので、社会の話題や情報と隔絶されているかも……と感じる時があるのですが、ラジオは世の中で何が起きているのかを音楽と一緒に伝えてくれる。そこが気に入ってます。

−−では二人とも、ペク村の人達の珍しい歌に初めて触れた時、すぐ心が動くだけの素養はあった。

アヌシュカ どうでしょうか。初めて聴いた時、すぐエキゾティックで魅力的だと感じましたが、そこまでは誰でも同じなのでは。音楽として聴き込むようになるには時間が必要でしたし、時間をかけないと理解できない点は沢山ありました。
彼らの歌を旋律のみ切り取るように聴いた場合、一瞬で惹きつけられるタイプの音楽とは少し違います。ところが、彼らが重い稲の袋を担ぎながら歌うのを現地で聞くと、一緒に働きながら歌いたくなるんです。

イーシュワル 僕達は音楽を専門的には学んでいません。映画の中に歌を取り入れる時の判断基準は、その歌がどれだけ彼らにとって正直なものか、でした。
例えば、最高のミュージシャンが集まってレベルの高い演奏をしているのになぜか心に響かない、という場合があるでしょう? 『あまねき旋律』に登場しているグループよりもっと上手く、美しく歌えるグループもいたのですが、その場、その瞬間に最も素直で飾り気のなかった歌を優先したんです。

村の人達を撮ると、クローズアップはかえって不自然になる

−−日本にもかつては農村などで働く歌があり、「歌は仕事の手を早める」という言葉が残っています。歌だけではなく、歌いながら働く姿に魅せられたのですね?

アヌシュカ その通りです。私達は、あの地域の人々にとっての歌は労働と等価だと考えています。実際に労働する姿を見ることで、より深く理解できるようになりました。それに、働いている時の体の動きや呼吸のリズムから生まれてきた歌ですから、構造的な意味においても分けて考えにくいんです。

イーシュワル 僕達は演劇出身なので、舞台の上で表現する自分達との共通項も感じていました。映画の中の彼らは、田んぼの中での動きが呼応し合っていますよね。働きながら自然に共通のリズムが生まれていく、あの感じです。演劇そのものに、労働をルーツにしている面が大きいのだと気付かされました。

−−『あまねき旋律』は歌だけでなく、現場音も魅力的です。草を刈る音、水がはねる音、虫の鳴き声……そうした音がとても効果的に整理されていて、幻想的でさえあります。歌が生まれてきた風土までサウンドで表現する意図は、撮影中からあったのですか。それともポストプロダクションの段階で?

アヌシュカ 村の自然音によって立体的なランドスケープを表現するイメージは、もともとありました。でも、具体的にどう表現すればいいかはなかなか分かりませんでした。撮影当初は録音の技術も持ち合わせていないから、ラフな音源しか録れなくて。6年間の撮影期間の中でだんだんと学び、腕を上げました。
幸運だったのは撮影後、ふだんは商業作品を手掛けている優秀なサウンド・デザイナーと出会えたことですね。彼らも演劇出身だったのでスムーズに理解を深め合えましたし、この映画のためにずいぶん時間を費やしてくれました。充実した音響効果の作品になったのは彼らのおかげです。「絵をこう組み合わせてくれたら、こんな音を組み込めるよ」と、編集にも貴重なアドバイスをくれて。

−−高地の棚田を中心に、風景も見事に撮影されているから可能なことですね。

イーシュワル 随所にインサートされている風景は、偶発的な産物でもあるんです。

撮影許可を待って、村で撮影が数日間ストップすることが時々ありました。ところが、あのみんながよく働く村でブラブラしていると、怠けているようでだんだん罪悪感が生まれてくる(笑)。落ち着かないので、空を流れる雲、虫の鳴く草むらなどを撮っては時間を潰したんです。それが編集の段階で大いに役に立ったわけです。

−−撮影で印象的なのは、禁欲的なほど人物のクローズアップが少ないことです。老若男女に話を聞きつつ特定の中心人物を作らない構成とも、緊密につながっている。

アヌシュカ それも、実は偶然に近くて。私達はとにかく、働いている人達の邪魔をしたくありませんでした。といって、ズームレンズを付けた大きなカメラではどんどん作業を進める人達を的確に追いにくい。様々な条件の結果として、あのカメラ位置になりました。
一時は労働中のアップが必要だろうと考えてカメラマンを頼み、寄りのみを撮ってもらいました。映画に登場する村人のほとんどはクローズアップの素材があります。でも編集の段階で不要だと判断して、ほとんどオミットさせてもらいました。

イーシュワル 現実的な理由として、村人が労働歌を歌っている時は、働いている最中ですから顔を下に向けていることが多いんです。歌う場面を顔のクローズアップでつなげて構成しようとするとかえって不自然になるのに気づき、やめました。それに合わせてインタビューも引きの画面にしたんです。
重要なのは、相手とカメラのあいだの距離だと思います。肉体労働をしている人は話しながらの身振り手振りが大きくなるところがありますが、ペク村の場合も村人同士のジェスチャーは大きい。通常のバストショットにして肉体的な動きをこぼすと、会話を撮ったとは言えなくなるんですよ。
若者同士が恋について語り合う場面では、一人が足をしきりにモゾモゾさせています。ああいうところ、いいでしょう(笑)。
▼page2  歌は、言葉にしきれない感情を伝えられる手段 に続く