【連載★最終回】「ポルトガル、食と映画の旅」 第21回 旅の終わりは、次の旅の始まり text 福間恵子

リスボン・アルファマの風物詩。急な坂道の多い町ならポルトガル中どこでも見かける。

その初めての旅のときのことだ。リスボンの観光案内所に行くとたくさんのスペイン人がいた。並んだ列から聞こえてくるのはスペイン語ばかりで、受けつけているポルトガルの人たちもスペイン語で対応している。そうか、そんなに似ている言葉なのかと、当時スペイン語しか話せなかったわたしは内心ほっとした。ところが彼らのやりとりを見ているうちに、なんとなく違和感がわいてきた。スペイン人の態度が横柄に見えるのだ。いや、スペイン語の音がはっきりくっきり強いからなのかもしれない。だとしても「スペイン人、この国で感じ悪いぞ」と思ってしまった。

この旅はリスボンは素通りして田舎ばかりを訪ねたので、わたしはなんとかスペイン語で通そうとしていた。スペインとの国境の町の食堂で、スペイン語で応えていたら「ここはスペインではないよ。ポルトガル語で話してほしいな」と帰り際にスペイン語で言われた。別な国境近い町でも同じようなことを言われた。とてもショックだった。東洋人のわたしが、ポルトガルでスペイン語が通用すると思っているのが大きなまちがいだったことに、言われるまで気づかなかった。スペイン人はポルトガルでスペイン語を使うが、ポルトガル人はスペインでポルトガル語を使わない。二つの国の歴史的な力関係の上に自分がいるかのような態度を、心から申し訳ないと思った。

この苦い体験はわたしに決意を促した。なんとしてもポルトガル語を習得する。そう決めたとき、この国につよく惹かれている自分がすでにいた。

けれども語学に不器用なわたしは、スペイン語発音のクセがいつまでも抜けず、まともなポルトガル語が話せるまでにずいぶん時間がかかった。スペイン人も言うことだが、ポルトガル語の発音はとても難しい。けれどもその音の響きの美しさは、世界の言語の中でも上位に入ると言われている。

その国の言葉を話せるようになる。それは旅の継続につながる大きな要素だ。生きている言葉は、使ってこそなんぼのものである。次に行くまでに、動詞の過去形をちゃんとマスターしておこうとか、使える慣用句を増やそうとか思うものだ。語学学校に通った5年間は、ポルトガル語の習得はもちろんのことだが、体験した旅の復習と次の旅の予習において先生に問いを投げかける時間だったように思う。ポルトガルの過去も現在も、文化も芸術も食べ物も風土も、その興味の種は授業のなかから拾った。学校を離れてからは、自分で種を拾ってきては育てた。そうして旅を重ねてきた。遅々たる歩みだけれど、未知の種はまだあちこちにある。

思えば、ポルトガル語を母国語とする国は思いのほか多いのだった。まずは大国ブラジルがあり、かつてポルトガルが支配したアフリカの国々、アンゴラ、カーヴォヴェルデ、ギニアビサウ、サントメ・プリンシペ、モサンビーク、赤道ギニアの6か国、アジアでは東ティモールとマカオがある。その人口は、なんと2億5000万人にも及ぶという。年老いてしまわないうちに、ブラジルやアフリカに行けるのだろうか。そこではとても同じ言語とは思えないようなポルトガル語が、きっと話されているにちがいない。

リスボンの霧の朝。黄色い灯がやさしい。

2017年1月、リスボンにあるジョゼ・サラマーゴ記念館を4年ぶりに再訪した。サラマーゴは、日本では有名とはいえないけれど、現代ポルトガルを代表する作家であり、1998年にポルトガル語圏で初のノーベル文学賞を受賞した。2010年に88歳で亡くなったが、その作品は日本も含む多くの国の言語に翻訳され、世界に広く読者を持つ作家である。記念館のショップで、サラマーゴの言葉とサインがプリントしてあるTシャツを買った。

そこにはこう書いてある。

 旅の終わりは、次の旅の始まりである。

 さらに旅に出る必要がある。

 どんなときでも。

サラマーゴは、1979年から1980年にかけて、ポルトガル国内をくまなく旅してまわった。代表作『修道院回想録』や『リカルド・レイスの死の年』を発表する前、サラマーゴ58歳のときのことである。この旅のことを書いたものが、『Viagem a Portugal』(「ポルトガルへの旅」)として翌1981年に出版された。Tシャツにある言葉は、その本の最終章の抜粋だった。

「ポルトガルへの旅」最終章の後半はこういうものだ。

 《旅の終わりは、次の旅の始まりである。前に見逃したものを見る、

    すでに見たものをもう一度見る、夏に見たものを春に見る、

    夜に見たものを昼に見る、雨が降ったあとの太陽、緑の麦畑、

    熟したくだもの、ちがう場所に移動した石、以前はそこになかった影、

   それらを見なければならない。かつて歩いたところに戻り、それを繰り返し、

   その隣に新しい道を描かなければならない。

   さらに旅に出る必要がある。どんなときでも。旅人はすぐにまた旅に戻る。》

サラマーゴの旅の言葉をなぞるようにポルトガルを見つめることは、とてもかなわない。この文章は、旅を人生にたとえている。サラマーゴ自身がこれから作家として生きていくために、自分の国を見直すことが大事なことなのだと宣言しているのかもしれない。実際の旅を通して、サラマーゴの表現の世界の軸となるものを探していたのかもしれない。

たぶんわたしは、こんなふうにポルトガルを見つめたい、この土地で自分と向き合いたい、そう思いながら旅を続けてきた気がする。バスを待ち、雨に降られ、温かいスープになごみ、土地の人々の笑顔を見た。おいしい食べ物を探し、ごつごつした石畳に慣れ、町をすみずみまで歩き、やわらかい言葉の響きを耳に刻みながら、そこに横たわる風土と文化に想いを寄せた。そして映画や文学や絵画と出会った。ヨーロッパの「辺境の地」ポルトガルが、どんな顔と声を世界に向けているのかを知ろうとした。

マヌエルの住むアレンテージョ地方ヴィディゲイラの、合唱隊の男たち。ただいま休憩中。

わたしは山間部にある小さな町で生まれ育ったが、自分に原風景というものがあるとしたら、ポルトガルの田舎にそれを見ている気がする。低い山と川に囲まれた土地には、霧が立ち、虹が生まれ、樹々と草花があたりまえのように育つ。人々は遠い世界のことよりも狭い社会で生きることに懸命で、日々の糧のために働くことを喜びとしている。そこにある息苦しさから逃れて都会に生きることを選んだ自分が、ポルトガルに今なおあるこの風景のなかで心を開いている。そこから生まれる食べものや映画や文学、そして人間に、どうしようもないほどの愛着を感じている。

二年間、21回にわたって書いてきたこの連載は、今回で終わる。けれどもわたしのポルトガルは、またあらたな始まりへ向かう。

堰を切ったように生まれている新しい映画にも、サラマーゴに続く若い作家たちの作品にも出会いたい。もちろんリスボンでは、ニコの食堂に毎日通う。トラス・オス・モンテス地方を三たび訪ねる日も、サラマーゴの生まれた小さな町アジニャーガをめざす日も、きっと近いことだろう。

旅の終わりは、次の旅の始まりである。どんなときでも。

(完)

福間恵子 近況

「ポルトガル、食と映画の旅」は、今回で終了します。ここまで読んでくださったみなさんと、この連載の機会をつくってくださった金子遊さん、そしていつも励まし続けて編集してくださった佐藤寛朗さんに感謝をおくります。さて、8月に撮影した福間健二監督第6作「パラダイス・ロスト」はいよいよ編集に入ります。来年2月完成、夏の公開をめざします!