【連載★最終回】「ポルトガル、食と映画の旅」 第21回 旅の終わりは、次の旅の始まり text 福間恵子


「ポルトガル、食と映画の旅」

第21回(最終回)旅の終わりは、次の旅の始まり

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ポルトガルに通うようになってもう15年がすぎた。その間に13回の旅をして、日数は220日におよぶ。行きはじめて間もないころ、どうしてポルトガルなの? と友人たちによく尋ねられた。そのうち誰も何も尋ねなくなり、わたしのポルトガル行きは定着した。そうしていま、自分に問うてみる。どうしてポルトガルなのか。

30歳ぐらいまで、飛行機のような重い鉄の塊が空を飛ぶことが信じられなくて怖くて、海外旅行にまったく興味がなかった。たまたま面白半分で応募した「カップルで作る」料理コンテストで優勝した。その賞品がパリ・マドリード・ローマをまわるパッケージツアーだった。タダで行けるとなると、恐怖などはどこかに追いやって、覚悟を決めるものである。3日間のマドリードがよかった。乾いた空気と陽射しが身体に合って、とても気に入った。帰国して10日ほど経ったころに、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故が起きた。1985年のことである。

そんな大惨事があったし、わたしの飛行機恐怖が消えたわけでもないのに、翌年からわたしと夫は毎年のようにスペインを訪ねるようになった。当時は首都マドリードでさえも英語が通じなかったから、スペイン語を習いはじめた。リュックを背負い、列車より安いバスで小さな町から町を移動する貧乏旅行をした。スペイン語がだいぶできるようになったので、母を連れて二人でアンダルシア地方を訪ねた。グラナダで、バスク地方から旅行に来ていたバスク人の女性二人と親しくなり、手紙を交わすようになった。そのころ「スペインではないバスク」への関心が強くなっていたので、バスク地方の田舎に住むその友人をたよって2か月間滞在した。1992年、スペインがEUに加盟して6年後、バルセロナでオリンピックが開催された年だった。通貨がペセタからユーロに移行する最後のころだ。オリンピックとユーロを契機に、少しずつ変わっていくスペインが見え隠れしていた。

翌年、スペインで一番貧しいと言われる、ポルトガルと国境を接するエストレマドゥーラ地方からポルトガルへ入る計画の旅をした。かつてガリシア地方から南下してポルトガルに入りマドリードまで戻った記憶をたどろうと思ったのだ。けれども、まだスペインへの思いが断ち切れず、ポルトガル国境を目前にしながら断念した。

その後、家族や自分の状況に余裕がなくなり、スペインに行かなくなった。いまから思えば、急速に変わっていく大都市の様子と物価の上昇に、とまどう気持ちが出てきていたのかもしれない。

それから5年ほどすぎてから、夫の研究留学にお供して、イギリスのウェールズ地方の首都カーディフに一年間暮らした。その間に、久しぶりのスペインに行って、バスクの友人との再会を果たした。サン・セバスティアンもまた近代化していて以前にも増して観光客が多かった。ウェールズでの生活のなかで、ポルトガルがときおり出現することに気がついた。共通するケルト文化もあるが、人々のバカンスの行き先がポルトガルが多いのだ。マデイラ島と南部アルガルヴェ地方とリスボン。まわりの友人たちも含め、近くて物価が安くて美味しいというのが理由だった。加えて、ポルト酒の大会社はイギリス資本が多いので、仕事でポルトガルに住んだことのある人もかなりいた。思いがけないつながりは、二つの国の歴史に詳しくないわたしには意外だったが、では友人たちのようにカーディフからリスボンに行ってみようという気にはまだならなかった。

ウェールズから帰国して4年後のことだった。東南アジアばかりを旅行していた若い友人がポルトガルに行ってきた。彼女の「突然のポルトガル」におどろくと、なんとなく次はポルトガルだと決めていたのだそうだ。彼女の勘は見事にあたって、すっかり惚れこんでいる。今年もまた行くという彼女の熱に、わたしの心にくすぶっていた何かがビビッと反応した。けれども現実はたやすくなかった。前年に亡くなった義父の後始末が山ほどあった。ひとり残された義母のこれからもある。しかしそんな状況は、旅への気持ちをさらにつのらせた。

結果、夫の後押しもあって、わたしは友人のあとを追って、初めてのポルトガルへのひとり旅に出た。2003年2月のことだ。ポルトガルで一番雨の多い季節だった。そのときの日記にはこんな言葉が並んでいる。

雨の季節、想像以上に寒い。毎日毎日バスからバスを乗り継ぐ。ひたすら外の景色を見た。

雨で緑を濃くした牧草地とオリーブ畑。稜線のかすんでいる国境の山々。赤茶けた屋根と朽ちた白壁の家。地平線から二重の虹が立つ。バス停にずらりと陣取ったハンチングのおっさんたち。バスに乗りこんでくる黒ずくめの服の老婆。スペインとよく似ている。でも、何かがちがう。それはなんなのか。

なぜかなつかしく感じる人々の表情とあたたかさ。石畳にひびくポルトガル語の、やわらかで美しい音色。スペイン側と大きくちがうアレンテージョの料理の、素朴だが繊細な味。夜の通りにただよう淡い霧のやさしさ。バスから降りて町と人に包まれる。心地よい場所に入りこんでしまった。

アレンテージョ地方の空に立つ二重の虹

たった12日間でスペインとポルトガルのはざまでゆれながら、国境越えを3回もするという不器用な旅。それでももう思いはふっきれていた。旅から戻ると、ポルトガルで食べた料理を納得いくまで作りつづけ、ポルトガル語の辞書を買い、当時東京に一つしかなかったポルトガルのポルトガル語(ブラジルポルトガル語ではない)の語学学校に通いはじめた。そんなわたしを見ながら、夫はこう言った。

「ヨーロッパの西の果てのポルトガルと出会うのは、きっと時間の問題だったんだよ。中心よりも端が好きなんだから」。

なるほど、そうだったのか。

かすめたり、手の届くところで引っ込めたり、遠くで聞こえていたりしたものの焦点がようやく定まり、目の前に現われた。長い年月を経て、やっと出会えたポルトガル。わたしとこの国はこういう運命だったのだと納得する。これがポルトガルとの長いつきあいの始まりだった。

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