【Interview】人はなぜ[自殺する/生きようとする]のかは、わからない〜映画『牧師といのちの崖』加瀬澤充監督

『牧師といのちの崖』より©ドキュメンタリージャパン、加瀬澤充

カメラを回すことで、答えは出せない

−−取材に1年、公開までそれから4年。完成まで大変な時間がかかりましたね。その間、どんな苦労があったのでしょうか。

加瀬澤 もちろんその間、テレビの仕事も続けながら…という事情もありますが、最初「人はなぜ自殺するのか」という問いがあって、その問いを解くような方向でアプローチしていったのですが、現場に行って見えてくるのは「人はなぜ自殺するのか」ではないんですよね。藤藪さんのまわりで生きている人は、死のうと思っているんじゃなくて、あくまで生きたいと思っている。現場の中で、自分が考えていた事が反転していきました。

人がなぜ死ぬか、というのは究極的には描ききれない。やはり、人は生きようとしているし、映画はそれしか描けない、と思うようになりました。それを取材中は漠然と考えていて、むしろ編集で明確になっていくのですが。

——編集については、また後ほどお聞きします。藤藪さんのもとで共同生活を送る彼らにカメラを回せるようになるまで、人間関係を構築するのは大変でしたか。

加瀬澤 カメラを回さない時間の方が多くて、撮影しているよりも、藤藪さんが運営している弁当屋さんにいって、弁当を作るのを手伝ったりする時間のほうが長かったですよ。藤藪さんは子供たちに勉強を教えるような活動もやっているので、それを撮ったりもしましたが、日常生活をずっと共にしていると、だんだん撮るものも無くなってくるんです。

そこで何もせずにずっといるのも方法論としてありかもしれませんが、僕はそうはできなくて。大変そうだなと思ったら手伝ったり、子供たちと遊んだりするなかで、時々、ほんとうに時々、緊急事態的なことが起こる。緩やかにある日常が一転するというか、死にたいという気持ちにとらわれた人がきて、ある種、命がぶつかり合う現場が生まれます。そのほとばしりは、撮れないことも多いのですが。

あそこで共同生活している人々にはいろんな事情があって、コミュニケーションがうまくできなかったり、借金をしていたり、それぞれ抱えていることは大変なのですが、どこか共感できる部分も多くある。藤藪さんも牧師然としておらず、ぼさぼさのアタマになって牧師室で居眠りしながら、彼らと一緒に弁当屋さんとかいろいろなことを企て、その中で疲れたりする。両者が一緒に暮らしている、そのありようが魅力的で、それを映画に捉えられないかな、と思いました。

−−その「ありよう」を捉えるうえで、何か意識したことはありますか。

加瀬澤 当り前ですけど、あまり無理強いをしないというか。冒頭のシーンが象徴していると思いますが、ここまでは行けるけど、これ以上は行けない、という葛藤が僕の中にもあって、自分の中の倫理観を問うているみたいなところが常にありました。その倫理観については、常に意識しながら取材していたと思います。

−−監督自身が揺らいでいる感じは、この映画の魅力のひとつだと思いました。藤藪さんとは、取材をしながらどんな話をされていたのですか。

加瀬澤 そんなに細かい話をした覚えはないのですが、なんとなく一緒に過ごしていく中で、僕も彼らのことを一緒に考えていく感じでした。僕はこうしたらよい、と言える立場ではないからあまり言わないけど、「あの人の場合はこうなんだ」というのを、藤藪さんと一緒にみさせてもらうというか。

−−入所者それぞれの個別具体的な事情も聞くわけですね。

加瀬澤 いろいろ聞きました。僕に話したい人もいるし、話したくない人もいます。僕と話したい人って、基本は皆さん藤藪さんに相談するんだけど、やっぱり言えないこともあって。それを僕のような外から来た人なら喋れる、みたいなこともあるみたいで。僕はそのことを藤藪さんに伝えるわけではないけれど、「なるほど、そういうこともあるんだ」と思いながら聞いていました。気楽な相談相手がひとり増えた感じなのかもしれません。

−−映画に出てくる入所者は、30代、40代の、僕や加瀬澤監督と同年代が多かったように思います。そこは何か取捨選択があったのですか。

加瀬澤 現実にそういう人が多かったので、必然的にそうなった部分もありますが、カメラを受け入れてくれる存在が、同年代だったんですよね。結果的にいま思うと、彼らが持っている人間関係の悩みに近い思いを、僕も抱いていたからかもしれません。

−−映画の中で、人間関係の手順を踏むべきところを、手順を飛ばしてしまうことで、気まずくってしまう。そういう人間関係を持つことの難しさを感じている登場人物が描かれています。生きていればよくある事だとは思うのですが、その不器用さに対する共感なのでしょうか。

加瀬澤 人間関係に悩む、彼のような存在に不思議とひかれていました。まじめだし、一生懸命だし、そういう人こそ今の社会では生きづらい感じがしています。言葉を変えれば、彼はものすごく誠実に生きていますよね。それを現代社会を生きていく上では“弱さ”ではないか、と指摘する人もいると思うけれど、社会の中で“弱さ”として語られる部分を自分の中で問い直してみると、うまくいかない、となってしまうある種の弱さや繊細さを、僕は肯定したいと思いました。藤藪さんの中にも、その“弱さ”を感じるところがありました。

『牧師といのちの崖』より©ドキュメンタリージャパン、加瀬澤充

−−藤藪さんというのは、加瀬澤さんからみて、どういう人ですか?

加瀬澤 自殺問題の水際に立って、あそこまでいろいろと受け止める人はまずいないし、すごいことをしている人だと思います。同時に、スーパーマンではない部分、自分の情けなさや弱さを隠したりせずに、その姿を躊躇なくみせてくれるありようが魅力的だなと。

——ただ彼は牧師だから、「信仰」と捉えれば、彼の熱心さの源泉が理解できてしまう側面がありますが、映画は決してそういう感じには作られてはいませんね。加瀬澤監督は、彼の「信仰」をどう考えていましたか。

加瀬澤 藤藪さんの「信仰」については、それがこの活動の支えになっていることは間違いないし、そこにどう踏み込んで描くかは、ずっと考えていたポイントではあったとは思います。例えばインタビューで「信仰」について聞くこともできたかもしれない。でも彼を描く、というのはそういうことではないと思いました。藤藪さんと、共同生活の人たちとの具体的な関係性の中から、「信仰」のことも含め、じっと凝視して行くなかで考えていきたいって。

取材しながら思ったのは、「信仰」がある、なしに関わらず、神様と対話するような行為を人はしているんじゃないかなと思いました。例えば、誰かに助けてほしいと言われた時に、どう答えられるか。聖書があって神様がいて、神様だったらこう言うだろうとか、聖書を引きながら言葉を探し、神様と対話していくのが「信仰」だとすれば、自分にも、どうやって人を助けられるのかを考えるとき、ある言葉を探している感じがあって、自分自身の心の中でも、どうしたら良いかを対話している。

そういう意味では、僕に「信仰」はないかもしれないけど、藤藪さんが信仰によって神様と対話しているのと同じようなことをしているのかもしれない、と思ったりもします。「助けてほしい」と言われた言葉にどう答えられるかとか、どう手を差し伸べられるかは、僕もその答えを一緒に探していて、そのプロセスがずっと映画になっている感じなんです。

もしそこに「助けてほしい」と伸びて来た手があったら、出そうよって、出して手を掴みたいって思います。出せるか出せないかというのは、それぞれにいろんな状況があるから何とも言えませんが、取材して、やはり掴みたいよねって、あらためて強く思います。

『牧師といのちの崖』より©ドキュメンタリージャパン、加瀬澤充

<page3>編集という“対話”で見えてきたもの につづく