【Interview】自然の中で暮らす一家の「丸ごとの成長」を追い続けて 〜『山懐に抱かれて』遠藤隆監督インタビュー

「取材の流儀」は1泊2日 すると、夜に何かが起こる

——映画を見ていると、遠藤さんたちスタッフの、吉塚さんに対するある種のシンパシーを感じます。どういう関係性だったのですか。

遠藤 1994年にはじめて出会ったわけですけど、その時吉塚さん一家は、本当に崖っぷちでした。借金が2000万円あるのに収入が100万円しかなくて、借金が毎年100万円づつ増えていく。お金を借りていた農協からもいい加減返してよ、みたいな話になって、いよいよ山を降りなければならない、ギリギリのところまで追い込まれていたんです。
その時に僕が言い出したか、吉塚さんが言い出したか定かではありませんが、ブランド牛乳をやらないとダメだと。やったから生き残れる保証は無いけれど、これを売ってダメだったら山を下りよう、というところで一致したんですね。彼は一生懸命牛乳を作るし、自分でも売って歩くし、売るのは慣れない仕事だけど努力する。僕は番組とニュースで紹介する。そこでひとつの同志になった、というのはあると思います。

売るというのは、テレビ局でいえば視聴率を取ったりとか、農家でいえば収入を増やすことですが、ともかくも吉塚さん一家が山を下りなくてすむためにはどうしたらいいかを考えて、やれることをやろうという、非常に原始的な思いでした。会社にも吉塚さんを応援する空気があったし、牛乳を取ってくれた社員が何人もいました。そういうパッションがあればあるほど、取材の仕方や表現でつまらないことをやると、足元を見透かされる感覚がありましたね。礼儀や流儀を守らないと、逆に変なことになってくるんです。
©テレビ岩手

——いま「取材の流儀」と言いましたが、遠藤さんは後年報道部長も勤められて、要職にあられると長い密着はできませんよね。取材の仕方はどんな感じでしたか。

遠藤
 基本的には月に1回、1泊2日と決めていました。この1泊2日というのがミソで、はじめのうちはホテルや民宿を取ったりしていたんですけれども、あそこの家は宿から遠いから、面倒臭くなるんですよ。そうすると吉塚さんも「うちに泊まってくださいよ」となるんです。お酒や肉を持っていったりすると、向こうも喜んでくれたりね。
そうすると、夜に何かが起こるわけですよ。 公太郎くんとお父さんのケンカが始まったり、純平くんの反省文事件が起きたり、いろんなことが起こるんです。密着してすごいね、とよく言われますが、1週間いたことは1回もなくて、1泊2日をずっと続けてきたんです。

——それは取材を始めてから、徐々に確立されたスタイルですか。

遠藤 はじめからわりとそうですね、96年までは上屋敷くんというカメラマンがいて、音声さんもついていたんですけど、その後、田中くんというカメラマンに変わってから、2人で行くようになりました。田中くんは優秀なカメラマンで、牛が滑って転ぶシーンを撮った時に、ビュッとカメラを振って、画角のなかに滑って転んだ牛がワンカットで全部入っている。「このカメラマンは後ろに目がついているんじゃないか」と日本テレビの編集室で話題になるぐらい、激しい撮り方をします。いずれにしても最小人数で、東日本大震災の時は僕は報道部長だったので、全然現場に行けなかったんですよ。その時は田中くんが1人で撮りにいっています。
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——吉塚さん一家とはいろいろな話をしたと思いますが、今振り返って印象に残っているお話はありますか。

遠藤 一番は子供の自立の問題ですよね。お父さんは、自分の息子は全部山地酪農家にする、と思っているわけですよ。子供たちからはそれに対する不満が出ているんだけれども、なかなかオヤジに切り出せない。そこでお父さんと僕がかなり言い争いましたよね。僕は「子供の自立を認めるべきだ」って。お父さんは「冗談じゃない。こいつらが辞めちゃうなんてあり得ない。日本の山地酪農家は数えるぐらいしかいないのだから、自分の息子を山地酪農家にして増やしていかないと続かない」と、その一心なわけですよ。

——それでも息子さんたちは結果、酪農関係をやる方向に進む。自然と継いでいく感じがあって、あの精神は不思議な感じがしました。

遠藤 あそこのうちの子供たちは、ホモサピエンスとして原始的に育っているんですよ。どういうことかというと、お父さんお母さんは貧乏だし、牛の餌を毎日やらないといけないから、普通の親子のようにあやしたりする暇はないわけですよ。一緒に牧場に連れていって、ハイハイしたらうんちまみれになるような環境で育っていくわけですね。そうすると子供たちは、親に何かを言われてやるんじゃなくて、親がやっていることの中で、自分にできることを探すようになるんですね。

三男の純平くんが、お兄ちゃんたちと一緒に薪取りにいっているシーンに片鱗がありますね。あれが三歳。それよりもっと小さい頃から、親のまねをして木の枝を投げたりしている。原始人もそうだったと思うんです。ふと振り返ると子供は枝を投げていて、両親は「よくやった」とほめるわけです。それで子供は、次に何をやれるかを探していく。長女、長男、次男がしっかり固まったら、三男以下は今度はお兄ちゃんたちの後を追って、お兄ちゃんのまねをするようになるんです。

縄のない方とか牛の扱い方とか、酪農家の作業の基本は、お父さんの方が理論家ですけれども、そういう原始的な作業は、子供たちのほうが明らかに器用です。彼らは物心ついた時から牛と触れ合っているから、刷り込まれているというか、身についている。お父さんは東京のサラリーマン家庭の生まれで、牛を飼い出したのは大学生になってからですから、このギャップは大きいですよね。映画には「365日休みのない酪農の暮らし」って字幕を入れていますけど、子供たちにとっては、それが当り前なのね。

 ——自然と自分で興味を持って、育っていくんですね。でも長男の公太郎くんが「カメラマンになりたい」と言った時に、スタッフの立ち位置が見えた気がしました。

遠藤 カメラマンの上屋敷くんが泣いていましたね。「俺のことこんなふうに思ってくれていたんだ」ってね。公太郎くんは上屋敷くんが好きでしたよね。

——子供に相談される側でもあり、取材する側でもあり、お父さんにもカメラを向ける立場でもある。どういう心境で相談相手になるんですか?

遠藤 約束を守ることですよね。黙っていてほしい、と言われればこちらも黙っているし、インタビューをしても放送しないこともありますよ。人間と人間として約束を守る。これは子供たち、たとえば純平くんが3歳の時に「おじちゃんね・・・」って言ってきたことでも守ります。自分の娘に対しても同じだけど、やっぱり人間としての約束は大切ですね。

映画の最後の方で、次男の恭次くんが自分流の酪農をやりたいと話をしますが、あれ、実は3年ぐらい前から、僕とカメラマンにだけしゃべっていた話なんです。「親父には言えないけど、自分はこう思っているんだ」と相談されて「大事なことだから、いつか言える時に言ったほうがいいんじゃない?」って。お父さんやお母さんには言えないことを、僕らに相談しながら自分の中で整理して、組み立てていたと思うんですね。

——これ以上は撮り続けられないかもしれない、という危機はありましたか。

遠藤 一番はっきりしているのは、2011年3月11日の東日本大震災の時ですね。あの時、僕は報道部長で、テレビ岩手の社員80人に加え、全国から180人応援に来てくれたNNNの取材団を束ねて指揮していたんですが、12日に福島第一原発が爆発した。その時、どこに放射能が降ったか分からなくて、営業の人もみんなで手分けして、180人を避難させなくちゃいけない、となって、全員に連絡をとったんです。苦労したんですが、なんとか確認を終えた時に、吉塚さんのことがハッと頭に思い浮かびました。「放射能が山地の草に降ったら終わりだ」と聞いた時は、本当にぞっとしました。山地酪農の生命線は「安全・安心」なんですけど、放射能を浴びたら、それが命とりになるわけです。放射能が降ったらそこの草が食べられないわけだから、山地酪農が成立しなくなる。それは生活が追い込まれていた94年当時よりはるかに深刻で、あの時は取材ができなくなるというよりは、山地酪農自体が終わるかもしれないという不安がありました。

僕は動けないから、カメラマンの田中くんに月一回、泊まりがけで行ってもらって、未検出で生産が再開する秋までの半年間は、本当に怖かったですね。いつ放射能が降ってきてもおかしくないし、実際、田野畑に降ったこともありましたから。結果オーライになって、あのシークエンスはゆるくまとまっていますけど、もしそこで「山懐に抱かれて」が終わっていたら、本当につらいドキュメンタリーになってしまいますよね。

ドキュメンタリーの一番の怖さと面白さは、先が読めないことです。長男の公太郎くんが蜂に刺されるシーンが映画にありますが、撮る前は、ああいうことが起きるとは夢にも思わないわけですよ。全てがそう。人生そのものだと思いますね。
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▼Page3 編集で「家族丸ごとの成長」が見えた につづく