【連載】ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー 第32回 『実音 日大闘争の記録』

社会の歯車予備軍の叛乱だった

参考図書として、2冊の近刊本を読んだ。
『日大闘争と全共闘運動』三橋俊明編著(2018 彩流社)と、『日大全共闘1968 叛乱のクロニクル』眞武善行(2018 白順社)。
おかげで、秋田演説の「あの春」から九・三〇までに何があったのか、あらましをやっと知ることができた。

細かく検討する前に、大きな、一番の前提ポイントを書いておく。日大闘争は、新左翼の運動とは質が違うということだ。

大学の中で巨額の使途不明金があり、それを不問にする動きに多くの学生が異議を申し立てるため集まった。少数の先鋭化・前衛化されたエリート主義者の策動や学生自治体などの動員ではなく、自主参加、自己決定で。
筋を通してくれ、と求めるシンプルさが、前代未聞の大規模な学生の結集を可能にした。そしてこれが全て、日本大学の中で起きたことに社会的意味とインパクトがあった。

卒業生に〈ポン大〉と自虐気味に語るところがあるように、日本大学は全学部を合わせたら日本で一番学生数の多い超マンモス私立だ。卒業生の公務員就職数は全大学の中で常にトップだという。でもって、明治時代に神道機関を母体に創立されているから、もともと右寄り・保守寄りのDNAを持つ。
つまり——気を悪くするOB・OGがいたら申し訳ないんだけど——、日本社会の主軸となるミドルクラス、優秀だけれどお上のやることに特に文句は言わない安全なホワイトカラーの供出機関という性質が、伝統的にある。

そんな大学の学生がデモをし、校舎にバリケードを築いたのだ。いわゆるノンポリ学生が大学経営の透明化に対しては声をあげ、行動した。この事実に日大闘争を知る価値がある。
学生運動は思想的に極度に偏った一部の学生が狂騒的にやったこと、と断言する論調には、注意しなければいけない、と改めて僕は思った。ヘタしたら今、日大全共闘も後々の連合赤軍もゴッチャの認識の人が多くなっているからね。(といって100%正しかった、と言い切りにくいところは後で書きます)


だから、ビクターのようなメジャーからこんなレコードが緊急的に発売されたのだな、ということも分かってくる。まず、一学部が単体の大学と同等の規模を持つマンモス校だから、要は確実にセールスが見込める。
しかもマンモス校での同時多発的運動だったゆえ、全体を見て把握できていた学生は、実はほとんどいない。

元闘士の継続的な座談会やインタビューをまとめた『日大闘争と全共闘運動』は、当時は法学部に在籍していた編者・三橋俊明の、みんなの記憶を知り、擦り合わせたい情熱(俺が神田で戦っていた時、君はどこにいたのか?)で成り立っている。
眞武善行の『日大全共闘1968 叛乱のクロニクル』は江古田の芸術学部での自身の闘争を微細に、そして瑞々しく書いてくれているが、九・三〇大衆団交当日の詳述がない。その時ちょうど、全共闘と揉める体育会系の学生に仲間を拉致され、柔道部の合宿所に談判に行っていた。
このように闘争に参加した学生でも、運動がいったん勝利した大衆団交のようすを知る者は限られているのだ。それはもう、出すべきレコードだったんだな、と納得する。


5月21日に20人から始めた集会が、9月30日は3万人に

では、前述の2冊を踏まえて9月30日までの主な動きを整理してみる。

1968年4月15日
 東京国税局、日本大学に使途不明金20億円があると公表。(6月に使途不明金は34億円の脱税と断定)
5月21日
 経済学部・短期大学部学生会(委員長は秋田明大)の約20人、神田三崎町の経済学部1号館地下ホールで討論集会。使途不明金問題についての学生委員会開催を学部が拒否したことへの抗議がテーマ。
無届け集会なのを理由に、体育会学生約50人が集会を妨害し暴行を加える。
5月23日
 経済学部地下ホールの集会に法学部、文理学部の学生も合流。白山通りで200mの街頭デモ。日大生のデモは数年振り。これが初めて新聞記事となり、11学部13校舎に分かれていた(使途不明金問題への不満がマンモス大学ゆえに分散されていた)日大生全体に波及する。
5月25日
 神田の法学部、高井戸の文理学部でも抗議集会。経済学部1号館の前で、初の全学抗議集会。
5月27日
 白山通り路上で秋田明大が「日本大学全学共闘会議」(日大全共闘)の結成を宣言。秋田が議長になる。
5月31日
 文理学部構内で全学総決起集会、大学当局に大衆団交を要求。大学は拒否。この後、各学部で決起集会が開かれる。
6月11日
 経済学部1号館前での全学総決起集会に、上階から教職員、右翼・体育会学生らが机、椅子、鉄球などを投げ落とす。全共闘は行動隊を編成して経済学部の構内に突入。大学当局は機動隊の出動を要請し、右翼・体育会学生ではなく行動隊の学生を検挙。
全共闘はストライキ突入を宣言、法学部3号館を占拠してバリケードを構築。
以降、江古田の芸術学部など各学部のバリケード構築が続き、右翼・体育会学生との争いが続く。
7月20日
 古田重二良会頭および全理事と全共闘の予備折衝。古田会頭はいったんは大衆団交を確約するが、数日後に無期延期を通告。


9月3日
 大学当局、9月11日からの全学部一斉の授業再開を新聞各紙を通じて通告。
9月4日
 東京地裁の仮処分決定に基づき強制代執行。大学本部、法学部、経済学部のバリケードが機動隊に破壊され、132名の学生が逮捕される。この日より法学部・経済学部奪還闘争が連日続く。それまでは右翼・体育会学生から身を守るためだった角材や投石などの武装が、機動隊と闘うためのものになる。
この時に機動隊巡査部長が、大ケガをして入院。
9月12日
 靖国通りで機動隊と衝突。学園闘争で初めて催涙ガス弾が使われるが、法学部・経済学部にバリケードを再構築。
9月19日
 全学総決起集会、「5大スローガン」などの学園民主化要求を大学理事会に送り、同時に大衆団交を要求。
 「5大スローガン」
  1・経理の全面公開
  2・全理事の総退陣
  3・検閲制度の撤廃
  4・集会の自由を認めろ
  5・不当処分の撤回
数日後、大学当局は9月30日に大学主催の「全学集会」を開催して事態収拾をはかると回答。
9月29日
 9月4日の強制代執行の際、コンクリートの塊を頭に受け、頭がい骨骨折で入院していた機動隊巡査部長が死亡。大学紛争による初の警察官殉職者。これを機に警察の姿勢は強硬になる。
9月30日
 両国の日本大学講堂(旧・国技館)で「全学集会」開催。その前に同会場で日大内の右翼学生団体の集会が開かれる威圧があったが、全共闘は「全学集会ではなく大学理事会と日大全共闘との大衆団交である」点を主張、認めさせる。参加した学生は3万以上。
大衆団交はそこから12時間にわたって続き、古田会頭と理事、学部長は「5大スローガン」などの要求を全面的に認める。

▼Page3 九・三〇大衆団交のドキュメント に続く