九・三〇大衆団交のドキュメント
集会を開いたら、体育会系の学生がやってきて殴られた。喧嘩両成敗ではなく、学校は文系の自分達にだけ無許可の責任を問う。体育会系の学生は黙認されているどころか、学校とつながっているのだった。それはないだろう! 黙って我慢して、空手部や柔道部に見つからないようコソコソしながらキャンパスを歩くのはもうイヤだ!
秋田明大の直截な怒りが、多くの学生の潜在的不満に火をつけたのが始まりだったと分かる。
ひらたく言えば、のび太が、先生と大人と、彼らに可愛がられているジャイアンに、ドラえもんに頼らずに立ち向かったようなものだ。スタートはそういう、まっすぐなものだったのだ。
ここから、学生と学校が直接交渉する場である大衆団交を求める全共闘と、全共闘が学生の代表になることを認めない大学との対峙が始まる。
学校としても泡を食う事態ではあっただろう。伝統的に右寄りの学生のほうを大事にしてきたし、与党政党とのパイプも強かった。それを是としてやってきた。校舎をバリケード封鎖して授業を妨害するような「一部の暴力学生」はすぐに排斥できると踏んだのに、彼らを支持し、参加する学生の数は想像以上に膨らんだ。要求の筋が通っているだけに、手に負えなくなったというのが実情だろう。
9月30日にようやく、一般学生、右翼・体育会系の学生も交えた「全学集会」を開くというかたちで譲歩する。全共闘はそこに参加し、集会が大衆団交の場となることを認めさせると決めた。
学生の直接交渉を大学側が呑むか呑まないかが焦点なので、レコードでも、古田重二良会頭と学生の応答に尺が割かれている。
古田「大衆団交を開くということにつきましては、内外に非常に抵抗がございまして(場内に怒声。しばらく聞き取れず)そのために、そのために問題を起こすようなことがあるとすれば、それは(聞き取れず)態度であると思いますので、学生集会に変えたような次第であります」
(怒声)
学生A「それでは、それでは今古田会頭から大衆団交を蹴った問題については、大衆団交という言葉では内外に非常に問題があるという風な発言があったわけです。まず初めに質問したいのは、内外という非常に中途半端な言葉を使っているけれども、それは一体何かということを明らかに(拍手で聞き取れず)、そして二番目の問題として、大衆団交よりも全体集会のほうが多くの学生に話すことができるから全体集会という名前をつけた、という風に言っているわけです。では多くの学生が来るならば、大衆団交をやる。このような、大衆団交をやるという意思があるのかどうか、ということを二番目に質問したいと考えます」
(拍手)
古田「(咳払い)……大衆団交をやるということに関しましては先ほども申し上げた通りでありますが、学生集会という名において、広く多くの学生を集めたいと(怒声で聞き取れず)開催した次第でありまして、その点は変わりございませんが、ただ、学生諸君がです、この、大衆団交をするんだということであれば、それは一つの旗印として、大学側では学生集会に変わりはないが、諸君の考えが大衆団交であるとするならば、それもやむを得ないと存じます」
(拍手と怒声、両方起きて騒然。マイクの近くで学生達が早口で議論)
学生B「全ての学生諸君。ハッキリと学校側が、アイマイに大衆団交とか言ってることを、我々は学校当局の、あの古田の口から、この集会を大衆団交にするという確約をとらない限り、我々は絶対信用することはできない。全ての学生諸君、再度古田からこの、大衆団交にするというその発言を求めようではないか」
(拍手起きるが、次を待ち構える緊張)
古田「それじゃハッキリ言います! (歓声)学校当局の全学集会の内容をもって、大衆団交にすることを認めます」
(大歓声)
この後は、「5大スローガン」を1つずつ古田会頭や理事会に認めさせる場面が、理事の総退陣を約束させるまで続く。要求が通ったこの時点で、日大闘争は勝利した、と学生達は思った。
退潮のなかでの自問自答
翌日には状況は一変する。これまでは学内での解決を優先的に求めていた政府が、本格的に介入を始めたのだ。古田会頭と当時の首相・佐藤栄作が懇意の仲だったことの影響は、よく指摘されている。
10月1日
佐藤栄作首相、「大衆団交による解決は認められない」と発言、大学紛争を政治問題として取り上げることを決める。
10月4日
秋田明大ら8名に、公務執行妨害などの容疑で逮捕状。
11月8日
体育会系学生、右翼などで構成された「関東軍」、芸術学部のバリケードを襲撃。この現場検証を口実に芸術学部に機動隊が入る。
11月22日
日大全共闘、東京大学安田講堂前での「日大・東大闘争勝利全国学生総決起大会」に参加。
1969年1月18日
東大安田講堂の抗戦を明治大学、中央大学などの学生とともに支援するが、東大本郷校舎への合流を機動隊に阻止される。翌19日、安田講堂陥落。
2月2日
法学部・経済学部に機動隊が導入され、バリケードが撤去。大学校舎がロックアウトされる。
本盤の発売は、1969年。1968年の勝利が過ぎ、運動が徐々に退潮していくなかでリリースされている。
自主参加だった全共闘が各派に分かれてセクト化するようになり、一般学生と活動家の学生の意気が合わなくなっていく。政府と警察が治安の問題と位置付けたために、世間の理解が離れていく。3月には潜伏していた秋田明大が逮捕された。
苦しい時期であることを、制作者はよく汲み取っている。レコードの構成をシュプレヒコールなどの高揚から始めていない。かなり意図的に、K・Tという中国文学科の学生の、とても内省的な手記の朗読から始めている。
K・Tは、帝国軍人だった祖父に武士道を厳しく教えられて育った自分は、右寄りの価値観がしっくりくる人間だと率直に綴り、それでも納得ずくで全共闘に参加した、運動を「単純な正義感だけでやってきた」と明かす。
「私がこの闘争の中で見出した一つの事実は、私が内部的に非常に弱い人間だということだった。そしてこの弱さを鍛えるものは、厳しい試練の中にしかないと確信する。このようなことは今まで人から何度も言われたことだが、この闘争の中で初めて身をもって感じ、自分自身で合点した」
「私が属している全共闘と文理学部闘争委員会の中に、今の私には内部矛盾としか受け取れないことも時々出てくる。そして私が最も恐れていた、この闘争が学園闘争から政治闘争に変化しつつある現在においても、私は自己を強化し、自己を確立するために、そして古田体制打倒のために闘っていかなければならないと思う」
ナレーターをつとめているのは、小山田宗徳。ヘンリー・フォンダの吹替などでおなじみだった声優・俳優だ。落ち着いた、知性的な声といえばこの人だった。
そう、この、学生らしい知的なナイーブさ、純粋さこそが日大闘争の本質だった。一番大きなテーマは、マンモス大学で順応さを強いられてきたふつうの学生それぞれの自主性の獲得だったと思い出してほしい、知ってほしいと制作者はメッセージを込めている。
プロデューサーとしてクレジットされているのは、ビクターの鳥尾敬孝。
子爵・鳥尾家の長男で、上皇明仁(平成天皇)のご学友で、戦後の洋楽バンドの草分け、ワゴン・マスターズの結成メンバーで……と、華麗すぎるプロフィールの持ち主。
ディレクターは、市川捷護。聴くメンタリーの最高峰である(僕はまだ手が出せないでいる)、小沢昭一の『日本の放浪芸』シリーズをプロデュースし、その後は世界の民族音楽のフィールド・レコーディングで知られる人。
凄いコンビだ。2人合わせれば上下左右に死角なし、どこからでもかかってきなさい的な懐の広さで、変革の時代の青春を記録している。シンパ向けのメモリアル・レコード以上の内実を持つ盤なのは、察してもらえるだろう。
▼Page4 長いおまけ―頑固者だけが悲しい思いをする に続く