【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.25 大森康宏(映像人類学者)インタビュー text 金子遊

『私の人生 ジプシー・マヌーシュ

——いよいよ、自作を撮る準備ができたきたわけですね。

大森 そうです。1973年くらいから断続的にマヌーシュの撮影をはじめました。フランスには10万人ほどのマヌーシュやロムやシンティなど、いわゆるジプシーと呼ばれるグループがいて、私はそのなかで2万人ほどの移動するマヌーシュのグループを撮影対象にしました。彼らは、さまざまな境界にとらわれることなく、地方都市周辺の田舎を馬車でゆっくりと移動しながら生活していました。籠作りや季節労働などで生計を立てて暮らし、移動生活を営むフランス社会にあってはマージナルな存在であっても自由な移動生活を続けるマヌーシュたちの日常生活と宗教観をとらえようとした作品です。

 彼らの多くはフランス語を話せますが読み書きはほとんどできません。昔ながらの馬車で移動している三組のマヌーシュのグループに接触し、そのなかでも一大家族を構成するエミール・デュビル(通称ディディ)という絵になる人柄の長老とその家族を撮影対象に選びました。実は『私の人生 ジプシー・マヌーシュ』の冒頭のシーンでは、ディディの娘がマヌーシュの言葉で「写真を撮らせているんだから、この男からお金を取りなさいよ」と話しているシーンを編集の時に作品の冒頭に組み込んだら、ディディはにやりと笑って「お前けっこうやるな」と言いました。そうやって仲良くなっていき、1974年の夏に重たい16ミリの映画カメラを借りて、撮影用のフィルムを集めて、レンタカーで寝泊まりしながらマヌーシュと一緒に移動し、1か月間の本格的な映画撮影にとりかかったのです。

 お金がなかったので、友人たちから使用期限が近づいた残ったフィルムを集め、新しいフィルムを追加して、全部で180分くらいのフィルムを回しました。それをいったん編集して、マヌーシュの人たちにトゥール近郊の村のカフェに集まってもらい、上映会をやりました。そこで彼らの意見をきいて、もう一度編集をやり直すという方法でした。ちゃんとジャン・ルーシュの共有人類学の方法でやったんです。そうしたらルーシュが、私が撮った10分くらいのフィルムをCNRS(フランス国立科学研究センター)で上映してくれて、学生に援助する映像制作プログラムに申請して制作費をとってくれました。その結果、編集室、編集者、完成した作品のプリント仕上げ等の費用の目処がつきました。それを元手にして1976年に再度、マヌーシュの人たちの撮影をしました。

 1974年に社会学と民族学の両方の修士号を修了して、その年の秋からはルーシュが博士課程を指導しているナンテールにあるパリ第10大学の民族学博士課程に入り、本格的にルーシュから学ぶことになりました。博士論文を書きつつも、76年から77年にかけて映画の編集作業を進めていき、ようやく完成に至りました。ちなみに論文のテーマは「ジプシー・マヌーシュの空間利用について」でした。

 『私の人生 ジプシー・マヌーシュ』が完成したのは、1977年の7月でした。当時のシネマテーク・フランセーズには、映画を初めて撮った人のための上映会が組織されていました。そこでプロの映画作家から批評家や研究者まで、フランスの錚々たるメンバーが集まって、私の作品を視聴してからカメラの技術がなっていないとか、編集がまずいだのケチョンケチョンにいわれました。ですが、ひとりジャン・ルーシュだけは擁護してくれて「そうはいうけれども、君たちだって最初の作品は大森と同じようだったじゃないか。ゴダールだって最初の作品はそうだった。そのような時代があって、成長していくのだと考えれば、技術的なことは大した問題ではない。とにかく、まず撮ることが大事なんだ」といってくれました。
 1960年代に実はジャン・ルーシュは、リュック・ドゥ・ウッシュというベルギーの民族学者と一緒に、モノクロでヨーロッパのジプシーの映画の撮影をしていました。ところが、マヌーシュの人たちの一部が白人に自分たちの文化を見せることに抵抗感を示し、結局は撮影を拒否された経験があったのでした。かなり短い作品としての残っているはずです。ところが日本からやってきた非白人の東洋人である私は、反感もなくマヌーシュたちの日常生活というものをじっくり撮ることができ、ジプシーに関する人類学的な記録映像作品として初めてカラー撮影で完成したわけです。そういう点で評価を得ることができました。それから博士論文を書き、77年8月にその論文と一緒に映像作品を提出しました。

 国立民族学博物館の助手になったのは、1976年10月からでしたが、実際は民博で働くようになったのは、77年9月からでした。『私の人生 ジプシー・マヌーシュ』はいろいろなところで上映された作品ですが、ひとつ覚えているのは、日本に帰国してから当時お茶の水にあった日仏会館で岡本太郎さんの講演付きで上映されました。なぜなら、彼はかつてパリで人類学を勉強していたし、日本では山の仕事で生きてきた人々(サンカ)などに特別に関心を寄せていたからです。

伝統的追走狩猟

 中世の時代からヨーロッパ人にとって狩猟というのは長い間、貴族や兵士の階級にとって重要なものでした。イギリスの狩猟には余興やゲーム的な感覚がありますが、フランスの狩猟では本当に生身の動物とむきあい、それを人間が動物を用いて間接的に殺生するという特徴があります。特に「追走狩猟」と呼ばれる、騎馬の狩人と訓練した犬による狩猟は、かって食糧獲得のための手段であったものが、のちには軍事教練的な性格をもつものとなった歴史があります。そこには、いかに狩猟犬を訓練し、機械的な猟銃を使わずに野生の動物を捕らえ、その獲物をどのように人々に分配するかという狩猟の本質が存在するからです。それは現代でも続いています。ミッテラン大統領の時代に、この追走狩猟が残酷だと非難を浴び、一時期は中止になったのですが、鹿、イノシシ、野うさぎといった動物が増加して畑を荒らすようになったので、その後また復活しました。イノシシ猟は非常に危険で、狩人が怪我をする可能性の高い動物です。そのような中世からの伝統的な追走狩猟の方法を、フランス中部ブルボネ地方にあるトロンセの森という、フランス全土でも有数の美しい森といわれるところで撮影しました。これが16ミリフィルムで撮った1時間の『伝統的追走狩猟』(80)という作品です。

 現代では一般の人も狩猟に参加することはできますが、服装を揃えたり、自分の馬を持ってきたり、犬を調教したりするのには、それなりの費用が必要です。私が撮影した狩猟のときは、領主である隊長さんがイギリスやオーストリアから客を招待し、彼らと一緒に狩猟をするというものでした。捕獲する動物の頭数は決められていて、トロンセの森では鹿は一年間に25~30頭でした。セールという大角が生えた鹿がいるんですが、それは一年間で15頭くらい捕っていました。逆にイノシシは有害な動物に入るため当数制限はありませんでした。昔ながらの優雅な狩猟の様子を撮ると同時に、人間と狩猟犬、そして鹿をめぐる生態系の問題が浮かび上がるように構成・編集をしました。

 『伝統的追走狩猟』という作品を撮るなかで、ひとつの疑問が頭によぎりました。フランスでは狩猟人口が多く、いったい動物や鳥は獲り尽くされてしまうことはないのだろうか、と。その疑問をオルレアンの南の大地主であるギー・ルヴレ氏にぶつけてみたら、「実は鳥類は家禽として繁殖させているところがあるんだ」と教えてくれました。オルレアンの南にあるソローニュ地方の通称「フランスのシベリア」と呼ばれている地域があります。そこに広大な養殖場があり、フランス以外でなら上映してもいいという条件付きで、同じ年、79年に『放鳥と狩猟』(80)という作品を撮りました。雉、ホロホロ鳥、ミソサザイといった鳥を何万羽と飼っていて、それをフランス各地の森へもっていき放鳥する。そのなかで3分の1程度しか、自然のなかで生き残ることはできない。それを天然のものであるかのように、狩猟しているわけです。そこまでしないと、多くのフランスの狩猟人口を満足させることはできないそうです。

——この頃から、作品の企画や製作のクレジットに「国立民族学博物館」の名が入るようになっていますが、国立の博物館のなかで映画をつくるというのは、どのようなプロセスを踏むのでしょうか。

大森 それは良い質問ですね。というのは、実はこれが大変だったんです。まず国側である文部省は、多大なコストをかけて映像人類学の映像作品をつくることは本当に必要なのか、税金を使ってまでして映画製作する価値があるのか、大変な反対を受けました。当時の民博の中心的な梅棹忠夫館長は、国側から税金泥棒のように攻めたてられるなかで、「いや、他の国の人類学博物館はきちんと映像資料を製作し収集もやっている。それはこれからの情報社会に適応した博物館を設立するには重要なことだ」と反論してくれました。それで私は自分の好きな映画制作を、民博のなかで実行できることになったのです。フランスでは博物館などの研究者が映画作品を制作すると、それが販売されれば、企画・制作者に15パーセント程度の収入が入ってくるものですが、日本では完全に経済的権利は博物館側つまり国家に属するというものでした。私はかなり頑張って改革しようといたのですが、最終的にはそこは国側に妥協せざるを得ませんでした。民博で制作した映画の著作権はすべて放棄し、わずかに氏名表示の権利と、作品の内容を勝手に変更しないという条件を維持する、というとことで妥結しました。それで文部省側も民博以後の博物館における映像製作の対応を学んだのでしょうね。その後にできた千葉県佐倉市の歴史民俗博物館では、現在も作品製作はすべて外注方式で実施しています。