【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.25 大森康宏(映像人類学者)インタビュー text 金子遊

西アフリカ、バリ島、津軽へ

——1980年代に入るとアフリカでの撮影が増えていきますね。セネガルのフルベ族を撮った『木の器』(83)や『フルベとラオベ』(83)、ニジェールのハウサ族を撮った『製鉄技法』(83)や『アガデス』(83)などです。ニジェールはまさにジャン・ルーシュのフィールドでもあります。

大森 1981年は、西アフリカはセネガルを中心に調査しました。なぜなら、『サヘルに暮らす―西アフリカ・フルベ民族誌』を書いた国立民族学博物館の小川了先生が、どうしてもフルベ族の姿を映像におさめたいといっていたので、一緒に調査に入って撮影・完成しました。ニジェールではジャン・ルーシュの教え子であったニコール・エシャールという女性の作家が、ニジェールの伝統的製鉄技法についての民族誌映画を撮っていました。私はすばらしい映画だと感心して、81年、制作の前年の12月に現地に行ったときに製鉄をしている人を捜しましたが、もういませんでした。20年前に消滅した手法だということでした。そして聞き込みをしたところ、ニジェールの奥地のトゥアレグ族がいる地域に、かつて製鉄を専業としていた人がいるということで砂漠の町、アガデスを訪ねました。そこで会ったハウサ族のタンコ氏という鍛冶職人の方に、昔ながらの製鉄法を再現してもらい、撮影した作品が『製鉄技法』(83)、『タマ』(83)になりました。作品を完成したあとは、ニコールさんの作品と比較してもらうために、一緒に上映するような機会をもちました。

 80年代になって「観光人類学」という観点から考えるようになり、東京大学の山下晋司先生、国立民族学博物館からは石森秀三先生と私の三人が中心になって、1988年の8月にバリ島とミクロネシアのヤップ島で調査をしました。バリ島では、『ジョゲット・ブンブン』(90)や『バリ島の結婚式』(90)といった作品を撮りました。ヤップ島の女性の踊りの映像を撮ったときには、筑波大学の文化人類学者で映像制作もしていた牛島巌先生に手伝ってもらいました。

 私の映像作品には、みずから撮りたいと考えて自分で企画したものと、人から依頼されて企画したものがあります。これらは後者のほうです。

 『土と火と水の葬送 ─ バリ島の葬式 ─』(90)という作品は、もともと企画として予定していなかったものです。現場で私自身が企画を練り上げ、作品制作したものです。観光イベントとしての水牛レースの撮影をしていたときに、煙と油が焼けるような臭いが漂ってきました。何をやっているのか聞くと、インドネシア国家の葬送儀礼に間に合うように急いで死体を焼いていると聞きました。そこで葬儀場のあるプリアタンという村に泊まりこんで撮影しました。本来は墓に土葬し、数年後にその墓から取り出した遺骨を洗骨し、ルンブーと呼ばれる聖なる牛をかたどった棺に入れて焼き、灰を海に流すというプロセスです。ですが数日後にせまった葬式にあわせて、急遽、死体を焼いて埋め、葬送儀礼の時に掘りだすということをしていたおかげで、作品の構成上うまく儀礼の全体を数日間で撮影できました。私たち研究者が現地調査に行くときには、何か予想もつかない現象が起きたら新しい制作企画に即応するということを常に考えていなくてはならない一つの例となりました。

——90年代には『津軽のカミサマ』(94)を皮切りに、国内作品として恐山を撮った作品が4本ありますね。これらの企画はどのように始まったのでしょうか。

大森 これは76年にまでさかのぼりますね。私がジャン・ルーシュに弟子入りして、一度日本に帰国したときに、日本映像記録センターで「恐山のイタコ」を撮影した古いフィルムを観ました。それがテレビ東京の「生きている人間旅行」で放映された30分くらいのテレビ番組で、恐山でいわゆる口寄せ(死者の声を降ろす)の現場をモノクロで撮ったものでした。私はこのイタコの人たちの生き様を何とか撮りたいと思っていました。恐山を撮る前に、私は「日本人シリーズ」と呼ぶ三作品『消えた氷屋』『大人の幼稚園』『リンゴとバイオリン』を80年代に制作しています。そのなかでも『消えた氷屋』(84年)は、外国では非常にヒットして多くの人に観られた作品です。『消えた氷屋』は79年に島根県の益田市で撮影したものです。昔は夏の風物詩でもあった氷屋さんという職業も、段々と消えてなくなっていた。その町で最後の氷屋さんの姿を撮った16分の短編です。実際に82年には、この町で氷屋さんの姿は絶えてしまいました。
 そうした国内の日常生活の変化を撮っていった経緯がありました。そして1989年に民族博物館に企画を申請し、ロケハンを青森県で開始して、いろいろなイタコさんに面会して、3、4人の方を長期追跡して撮影しました。91年の春に撮影をはじめて、秋の恐山での大祭、翌年の夏の大祭を中心に撮っていきました。

『津軽のカミサマ』では、工藤タキさんのタクセン(託宣)、人々の病いを癒すところ、そしてオシラサマの儀式から、彼女の日常までを広く撮影することができました。その他イタコさんには、浜道サツさん、川守田トヨさん、日向ケイ子さんらの取材協力を得ました。当時は17、8名のイタコさんが恐山大祭に参加していました。相手の悩みを聞き、心理を読みながら、相手の心を癒していくシャーマン的存在は、どれだけテクノロジーが進化したとしても不必要になることはないと思いました。私の着眼点は、イタコが口寄せや占いをしているのは彼女たちの人生のなかで短い時間にすぎなくて、その背景として家庭や日常のなかでどのような私生活をしているかを映像におさめる、ということでした。そうしたなかで、「先祖供養を完璧なシステムによって楽しめる場所」としての恐山を撮った長編作品『霊場恐山』(94)という作品も生まれてきたわけです。残念ながら現在恐山のイタコは、数名まで減少しました。

——これまで大森さんのお話をうかがってきて、古来からの儀礼を映像に残したり、失われていく習俗を記録したり、という映像人類学という学問的な枠組みからはみ出してしまうような人間の魅力、あるいはその人たちの生活までを撮ろうとする姿勢が一貫しているように思いましたが、それではどうしてなのでしょうか。

大森 私は最初は近代の経済学を勉強し、それから人類学という学問を研究してきたわけです。父親は、若い時から経済学を勉強した典型的なマルキストで、何でも数字に換算できるという、理論に偏った考え方の持ち主でしたから、そういう父親に対する反抗もあったかもしれません。私には、世の中には経済学という理論だけでは説明のつかないものがある、そうした思考方法だけでは広い視野から見た世界観というものは構築できないと思っていました。やはり人間には多様な文化を保持して生きる方法というものがあると思っていしました。集団の中の少数の人々の文化に注目することが民族学の基本とジョルジュ・コンドミナスが言っています。それをカメラのレンズを通して見つめて記録することが映像人類学には可能なのではないかと思ったわけです。祝祭の場やさまざまな職能のなかに、人間の生きざまというものが立ち現れてくる、それを多くの人に見てもらい、討論し、共有したいと思って映像作品をつくってきました。

 映像人類学は、自然科学の思考の実験に似ていて、数えきれないほど人々に映像を再生し、その中から万に一度しか遭遇しない新しい発見と仮説を生み出すことが可能な研究分野だと主張するジャン・ルーシュは、民族学、人類学だけでなく、科学全体を網羅する映像の展開を目指していました。したがって、繰り返し撮ること、観ること、見せることによって人々と映像を共有し、人類学だけでなく新しい研究領域を開発するものとなります。その試みとして、私は高エネルギー研究所、カミオカンデ、ジュネーブのCERN、小林益川理論等の自然科学研究者たちについても映像制作をしてみました。