【連載】ウディ・アレンの逆説 ポスト・トゥルース時代のスキャンダル① text 大内啓輔

ディラン・ファロー

『ウディ・アレン追放』でも端的に整理されるように、現在において、アレンのプライベートなスキャンダルをめぐる言説が現代的な社会問題として拡大し、複雑な様相を呈している第一の要因として、これら一連の出来事がきわめて不明瞭なものであることが挙げられる。もちろん当時も、有名なセレブリティのショッキングなスキャンダルとして扱われることとなったが、その後も衰えることのなかったアレンの映画作家としての人気を鑑みるに、あくまでアレンのプライベートとの出来事として「消費」されたといってよい。だが、現在では状況は大きく変わり、アレンのかつてのスキャンダルは、射程を広げて社会的な問題として扱われるべきものとなっている。ハリウッドでも連日、多くの大物が加害者として名指しされていく状況のなかで、アレンにも「#MeToo」容疑の目が向けられることは避けられない事態であったのだ。それでいて、これほどまでに議論に決着がつかずにいるのは、アレンへの嫌疑が30年前のものであることに加えて、その疑惑を呼んだ行為が家庭内のものであり、かつ、それぞれの主張が一致していないことによって、第三者が客観的に実情を見極めるのはきわめて困難であることが起因している。

アレンの映画人生については、これまでも数多くのバージョンのバイオグラフィーが世に問われ、そのいくつかは日本語でも読むことができる状況にある(たとえばジョン・バクスターによる『ウディ・アレンバイオグラフィー』[作品社]など)。だが、そのなかで新たに刊行された『ウディ・アレン追放』を読んで改めて気がつくのは、アレンの映画的なキャリアとプライベートの生活がいかに密接に関わりあってきたかということである。あるいは、それはアレン作品について考えるときに、上記のように簡潔にまとめたようなスキャンダルや、映画界を巻き込んで起こった周辺の事柄だけでは浮かび上がってこない側面があり、アレンの映画的人生を通してようやく見えてくることがある、ということを示しているのだ。

アレンの映画人生と一連のスキャンダルの関わりを冷静に、かつ客観的な筆致で記述する本書は、単なるアレン作品の批評へと流れることは周到に回避し、あくまで事実にもとづいた状況把握を行おうと努める。それは、もはや現在においては笑い事ではすまされない「ポスト・トゥルース」的な状況──すなわち、真実の様相がいかなるものであるかにかかわらず、人々が信じたいと思うものだけを信じるという状況にあらがうための、貴重な処方箋ともなるはずだ。

一般にも訴求したアレンのスキャンダルをめぐる反応においては、ディランを支持する者の多くがその理由として「ディランを信じる」ことを根拠に挙げている。SNSにおける彼らの「#IBelieveDylan」というハッシュタグも連帯の証としてムーヴメントを形成することとなったわけだが、これは政治的スタンスの表明と同期することとなる。当然のことながら、あらゆる差別やハラスメントを自由に批判できる状況は望ましい。しかし、ここにあるのは事実の批判ではなく、あくまで「信じる」姿勢の表明であることには注意が必要であるだろう。客観的な事実が存在しない「ポスト・トゥルース」とは、各々が主張する複数の事実が濫立する事態のこととしても理解されうるために、アレンのスキャンダルをめぐる何らかの意志の表明は、かなりの慎重さを必要とするはずだからである。すなわち、第三者が真実を把握できない状況において、アレンの罪は存在しないのだというポストモダン的な態度を誇示するべきではなく、この状況をいかに冷静に見つめ続けられるかが肝要である。そうしたことを考えるうえで、これまで公にされたことを収集する本書の姿勢は、公正さを保とうとするきわめて真摯な方法論の一つなのである。

ミア・ファローとディラン・ファロー

先日日本でも配信が始まったHBOドキュメンタリー「ウディ・アレン VS ミア・ファロー」(U-NEXTで配信中)は、以前にラッセル・シモンズのセクシュアルハラスメントを告発する作品を手がけたカービー・ディックとエイミー・ジーリングのコンビが監督したもので、ドキュメンタリーとしては高い水準にあるといえる。しかしながら、これはミア側の主張が前面に押し出されたものとして見るべき準備が求められる。対して、パラマウントプラスで配信された「ウディ・アレン・インタビュー(Woody Allen Interview)」(日本では未配信)にはアレンへのロングインタビューが収められており、こちらはアレン側の主張が作品の軸となっていることを考慮すべきだ。

このように、双方から発信される言葉が今なお繰り返され、さらなる勢いを伴って論争が衰える気配はない。その意味で、『ウディ・アレン追放』のスタンスはきわめて誠実であり、私たちがアレンのスキャンダルについて知りうる事柄を客観的にまとめた最良のルポルタージュであるということができる。同時に『ウディ・アレン追放』には英語タイトルとしてあてられた「Canceling Woody Allen」からもうかがえるように、いわゆるキャンセルカルチャー──著名人をはじめとする特定の対象の言動を糾弾し、表舞台から対象を「追放」しようとする動き──に対する目配せも必要になってくるだろう。

それでは次に私たちが掲げるべき問いとは何か。それは日本でも芸能人やタレントなどの不祥事が発覚した際に決まって発せられる、「作品に罪はあるのか」という凡庸なものではありえないはずだ。そもそも、この問いには保身に由来する反語的なニュアンスが内包されていることは明らかであり、この問いを発すること自体、あくまでも作品を受容する(してきた)側の者たちが作り手の「罪」から逃れて、自らの免責を確認するための卑小な行為としてしかありえない。私たちが合言葉のように「作品の罪」を問うとき、その問いと正面から向き合うことを巧妙に避けつつ、それでいて、自身は作品への愛を保持したまま真摯な問いかけを行っているのだと、いともたやすく錯覚できてしまう。

それと同時に、果たしてアレン本人について、そしてゴシップのごとく流布してきたスキャンダルの「真実」について、私たちはいかほどまでに知りえているといえるのだろうか。そうした疑問を前にして、私たちに残されている方法論が作品について語ることしかないことも事実である。本連載がアレンのスキャンダルから出発しながら、それでもなお作品の注視を目指すことになるのは、そのためだ。本連載の目的は、作品に見出される罪状なりを──アレンの場合であればペドフィリア(小児性愛)の痕跡ないし傾向を指摘し、作品における「症例」を分析することではない。アレン作品に内在する、語ることの難しさと直面すること、アレン作品の複雑さを複雑さそのものとして見つめていくことにこそある。

そのためにはまず、いかにしてアレンが真の意味で「ウディ・アレン」となったのかを改めて確認する必要がある。それは1935年にニューヨークに生まれ、「アラン・スチュアート・コニグズバーグ」を本名に持つユダヤ系青年がいつウディ・アレンを名乗るようになったのか、という単なる史実の確認にとどまることではない。いかに映画作家が作中で虚実ないまぜとなった「ウディ・アレン」を創造したのかを、改めて検証するということである。ここでいう「ウディ・アレン」とは現実のアレンでもなく、同時に私たちが映画に見るキャラクターでもない。その両者への目配せを存分に含みながら、アレン作品のなかを「生きる」存在であるのだ。そうした存在を創造するにあたってアレンには、いかなる「語りの戦略」があったのか? まずはアレンの映画作家としてのキャリアにおいて、最初の分水嶺となった『アニー・ホール』を取り上げなくてはならない。

一般的にはアレン自身の自意識などをユーモラスに盛り込んで描かれる自伝的コメディとされる『アニー・ホール』だが、それ以上に、この作品にはその後のアレンのフィルモグラフィを予告するさまざまな様相を含んでいる。『アニー・ホール』のあらたな分析においては、客観的な実在の存在を否定し、真実は相対的なものでしかないとする「ポストモダニスト」としてのアレンの態度が逆照射されることになってくるはずだ。

【書誌情報】

『ウディ・アレン追放』

猿渡由紀著
定価:1600円+税
刊行:2021年6月10日
ページ数:232ページ
判型:四六判
発行元:文藝春秋

ISBN 978-4-16-391386-5

【作品情報】

『ウディ・アレン VS ミア・ファロー』<全4話>

監督:カービー・ディック、エイミー・ジーリング
出演:ミア・ファロー、ディラン・ファロー、ローナン・ファロー、カーリー・サイモン、フランク・マコほか

5/26(水)よりU-NEXTにて見放題で独占配信

視聴サイト:https://video.unext.jp/title/SID0057815

ミア・ファロー、およびディラン・ファローの画像は© 2021 Home Box Office, Inc. All rights reserved. HBO® and all related programs are the property of Home Box Office, Inc.

【執筆者プロフィール】

大内 啓輔(おおうち けいすけ)
1990年生まれ。早稲田大学大学院演劇映像学コース修士課程修了。