【特別寄稿】心の奥へと続く狭い道 2023年「山形ドキュメンタリー道場」記 text ルオ・イーシャン(羅苡珊)

撮影:羅苡珊

「山形ドキュメンタリー道場」は山形県の温泉地に、新作に取り組むアジアの映像作家たちが長期滞在し、国際交流を通して思考を深める創作滞在プログラムだ。参加者は日常を離れ、集中した時間と場所で製作中の作品を新たな目で見直す。ワークショップで企画を発表し、自由な話し合いから新たな観点を発見する。そして異国の仲間、映画関係者、地元の人たちとの交流で相互理解を深める。
5回目の今回はコロナ禍で途絶えていた海外からの参加が4年ぶりに再開し、対面での国際交流が実現した。豪雪地帯の大蔵村・肘折温泉を拠点に、台湾から2チーム4名が30日滞在。講師や他の日本の制作者たちも加わる4日間の集中的な「乱稽古」を経て、自作とじっくり向き合う日々、旧作の映画上映会、温泉と雪山の自然体験、地域との交流、東京での成果発表会が繰り広げられた。

これは参加者のひとり、羅苡珊(ルオ・イーシャン)が2023年の体験を手記にした文章で、原文は「放映週報」で初出。https://funscreen.tfai.org.tw/article/38418 

(リード:藤岡朝子・日本語訳:中山大樹)


2023年2月、日本と台湾がコロナ対策を緩和した真冬のこと。私とプロデューサーのヨンシュアンは、90分に粗編集した映像と、大量の素材を保存したハードディスクを携え、山形県大蔵村の肘折温泉へと向かった。東京の羽田空港で私たちを待っていたのは、まもなく始まる「山形ドキュメンタリー道場」(以下「道場」)の主宰者で、ベテランキュレーターである藤岡朝子だった。朝子は私たちをハグした。小柄なその体からは、落ち着いた、飾らない穏やかな性格が感じ取れた。彼女が言うには、東京から400キロ離れた山形は現在吹雪で、飛行機が山形に着陸できるか分からず、飛んでも東京に引き返すかもしれないとのことだった。

無事に着陸できるか分からない吹雪の夜――これが私の「道場」の最初の記憶だ。遅延を繰り返すフライトを待っていると、空港の夜はどんどん更けて、搭乗口横の窓は室内外の気温差で少し曇っていた。このとき、「道場」に選ばれた企画『雪解けの後に』は、撮影を終えてからすでに半年が経っていた。この半年間、私と編集のワンユーは、時に大量の素材の海に潜っては映像と音声のもつ血肉について考え、時に水面に浮かんでは作品の骨幹と全貌を鳥瞰しようと試みた。そして今、物語はすでに離陸し、旅は始まったのだが、その方向と着陸の可否は未知のままだった。

アジア初の国際ドキュメンタリー映画祭である山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF、以下「ヤマガタ」)は、創立された1989年に「アジア映画作家は発言する アジア・シンポジウム」を開いている。映画祭にアジアのドキュメンタリーが少ないことを受け、映画祭を創設した中心人物であり日本の伝説的ドキュメンタリー映画監督の小川紳介が、アジア各国の監督やキュレーター、批評家、研究者などをシンポジウムに招き、「なぜアジアにドキュメンタリー映画監督が生まれてこないのか」というテーマで忌憚なく話し合った。シンポジウムの最後に「フィリピンのインディペンデント映画の父」とも呼ばれるキドラット・タヒミックが「アジア映画作家宣言」を起草した。その中で、アジアの独立ドキュメンタリー作家たちの決意を表明した。「最低限度の今ある技術」と「それぞれの文化的視点」から作られた「社会的・個人的な」自主ドキュメンタリーが、「現代と未来の世代において貴重である」と。この精神はアジアのドキュメンタリー映画人のネットワークを作り出し、構造的な資源の不均等と「現実世界の政治的・経済的な思惑」に抗った。(注1)

山形県大蔵村肘折温泉 撮影:羅苡珊

それから三十数年が過ぎた。ヤマガタは依然としてアジアにおいて最も指標とすべき映画祭のひとつだ。宣言で言われていたアジアと第一世界の国々との不均等状態は改善されていないにせよ、「アジアドキュメンタリーの独立精神」の概念と実践はとうに強化、具体化、明晰化されている。1998年には、台湾で隔年開催の「台湾国際ドキュメンタリー映画祭(TIDF)」が設立された。奇数年に開催されるヤマガタと交互に開催される。台湾のドキュメンタリー関係者は必然的に、意識の有無に関わらず、大なり小なりヤマガタから影響を受け、形作られてきたのである。

一:北へ

小型旅客機は、揺れながらもようやく暗闇の中を北へ飛びたった。飛行機が山形空港の上空を下降し始めると、外の雪が窓を叩いた。滑走路が次第に大きくなり、滑走路両側の積雪が光を反射してはっきり見えた。その夜、(空港のある)東根市は雪が降ったり止んだりしていた。暖房のついた小さなレストランで、私たちは夕食を食べながら朝子にヤマガタへの熱い想いを伝えた。30年間アジアドキュメンタリーの発展を見てきた彼女は、極めて謙虚に笑って言った。「ヤマガタはもう古い映画祭で、今はTIDFのほうが活気がある」と。

1993年にヤマガタに加わり、「アジア千波万波」部門の担当を引き継ぎ、東京事務局長を務め、現在は映画祭の理事をしている朝子は、ドキュメンタリー制作者に優しさと尊敬の念を持ち続けている。「あなたたちがいなかったら映画祭は無いし、私が今やっているような仕事も無い」。彼女の言う「仕事」とは、ドキュメンタリー制作の「出口」に位置する映画祭の仕事だけではなく、作品がまだ完成前の段階にあるドキュメンタリー作家の育成も指している。「映画祭を長くやって、競争の空気にとても疲れてしまったから」と彼女は言う。

2018年、朝子は自分が組織するドキュメンタリー・ドリームセンターで「山形ドキュメンタリー道場」を作り、制作中のアジアのドキュメンタリー企画を募集した。「道場」のルーツは、彼女の国際ドキュメンタリー産業の観察にある。彼女はこう感じていた。映画制作者を育てるためのピッチ(企画提案のイベント)でさえ、競争の場になりがちで、創作について英語で表現する能力がその優劣を決めてしまう。(注2)また、こうしたピッチへの参加が作品に対する作り手の態度に影響を与えてしまう。「今の映画制作者は忙しすぎる。いろんなピッチに参加することに忙しいし、映画祭の締め切りまでに作品を完成させようと急ぐ」「でも私は、じっくり静かに創作に取り組むことが非常に大切だと思う」と彼女は言う。

だから「道場」では、平等な交流と自由な対話だけでなく、映画制作者に独りの時間と空間をじっくり与える。この「独り」とは、外の世界との関係を絶って閉鎖された場所におくという意味ではなく、互いを開放し、互いを支えつつ自立を保つ仲間がいるという意味だ。選ばれたチーム(通常は監督と編集、または監督とプロデューサーが参加する)は、日常から離れ、編集中またはポスプロ段階の企画を持ってきて、知らない異国の環境に身を置く。そして4日間のワークショップに参加し、そこで新たな見方を発見し、その後3週間のアーティスト・イン・レジデンスに入っていく。

言葉がわからないという環境は、私たちに言語を越える(beyond language)映像と音声による表現方法を考えさせる。異なる文化は、慣れが招く盲点や誤りから私たちを脱却させ、作品の別の観点を見出させる。村で経験した全プロセスが、私たちに多くの雑念を振り払わせ、「物語を語りたい」という原点に立ち戻らせる(reset process)。この「物語を語りたい」思いは、往々にして最もシンプルで、最も深いもの(あるフレーズ、コアになるあるカット、頭から離れないある音)にこもっていたりするが、それが「なぜこの映画を完成させるのか」という問いを支え続ける。

「道場」は「道(the way)」と「場(the place)」の二文字で構成されている。ひとつは動で、ひとつは静であり、ひとつは外で、ひとつは内である。これもまた、私たちがその後の1ヶ月で経験することに繋がる。すなわち、多くの対立する物や感覚の間から、共存とバランスを探すということだ。緊張とリラックスの間、有音と無音の間、見えるものと見えないものの間、集団交流と個人の間、旅行の目新しさと慣れた日常との間、温泉の熱さと雪の冷たさの間……ドキュメンタリーは、肘折に積もる雪にも似て、少しずつ積もり、凍っては溶け、時間の景色を形成する。