【特別寄稿】心の奥へと続く狭い道 2023年「山形ドキュメンタリー道場」記 text ルオ・イーシャン(羅苡珊)

(三)秦岳志:映画とは自律した総体であり、その姿は自ずから浮かび上がる

今回の「道場」で、メアリーと導入部の編集テクニックを共有し、ホアン・ジーと大塚とは創作に対する監督の気持ちを話し合った。最後に秦とは、関係性と倫理という別の角度から話し合った。個別面談でラフカットの問題点を話し合う中で、はっきりとは言わなかったが、彼の考えが倫理の観点から出発していると感じた。彼にとって、どのようにストーリーを語るかという監督の決定には、倫理への態度がそのまま反映される。そのため、倫理上の判断が明確になれば、映画全体をどう語るかが自ずから決まってくるのだ。

秦は言う。「倫理」とは「自己と他者の関係」だけではなく、「関係性の中の自律」にも関わる。その「関係性」には、映画における撮影者と被写体の関係だけでなく、制作過程における制作者と作品の関係も含まれる。「映画は自律した主体でなければならず、何者からもコントロールされてはいけない」。彼はマスタークラスの講義でそのように話した。

「インディペンデント映画とはなにか」という長い思考を経て、秦は独自の「映画作り=子育て論(Filmmaking = Child Raising Theory)」を発展させた。これは映画制作を家族関係のモデルに置き換えたものだ。作品が家族における子供だとすると、共同で育児をする両親は、映画制作者と被写体である。そして編集者は、子供の適性を保ったまま育てようとし、両親に専有させないようにする家庭教師に例えられる。ただし、秦の言う映画家族モデルは、昨今増えているパーソナルドキュメンタリーにはそのままでは当てはまらない。パーソナルドキュメンタリーにおいて、撮影者と被写体の関係はことさらに複雑で、監督ひとりで「両親」の役割を担っていたりする。つまり、映画制作者が被写体であったりする。こうした繊細で微妙なところが、パーソナルドキュメンタリーの独創性の源泉でもあるのだろう。

いずれにせよ、映画における「倫理的な関係性」と「映画の自律性」が望まれる。秦の話で私たちが気付かされたのは、映画とは社会のあるひとつの視点の自己表現である限り「芸術作品」にはなり得ず、社会の様々な関係性の中で「他者」と交わることで産み出される社会的な産物なのだということだった。「ドキュメンタリー映画の最も理想的な状態は、映画家族の誰もが傷つかず、同時に、その映画が誰にも所有されないことだ」。彼の言葉は聞き手の私たちに向けられていたが、同時に、彼自身にも向けられる信念であった。「難しいことだが、撮影者はこれを自分に言いきかせ続ける責任がある。この理想が達成できた映画はすでに奇跡だ」

(四)河瀨直美:その時々のあなたは、過去に取り囲まれている

これまでの山形ドキュメンタリー道場では、ワークショップの2週間後に、映画祭等のキュレーターが村に滞在しているチームとミーティングする習わしだったが、今回は違った。今年は朝子の発案で、あの有名な河瀨直美監督が招かれて私たちと交流を行なった。私は「道場」の応募段階でオンライン面接を受けたとき、自分が河瀨の初期作品から啓発を受けていることを朝子に伝えていた。河瀬のドキュメンタリーには、被写体との「距離を消滅」させたいという願望(『につつまれて』[1992]『かたつもり』[1994])が溢れていて、生者の些細な日常の中に死者の不在が見て取れ、死者が生者の中に生きていて、平淡だが悲しみに満ちている(『沙羅双樹』[2003])。一方、東京大学の新入生に向けた彼女の反戦スピーチに対する論議や、スタッフに対する暴行スキャンダルで、彼女の作品を彼女と切り離して観ることはできなくなった。

朝子は私たちと河瀨について議論することを厭わず、河瀨を招いた理由を冗談めかして言った。「ワークショップの講師が優しかったから、厳しい意見も必要かと思って」。ヤマガタは90年代に河瀨直美の短編ドキュメンタリーを紹介した。当時映画祭で働いていた朝子は、その後長期に渡り河瀨の通訳を担った。朝子の口ぶりからは、彼女と河瀨が親しいことが伺えた。「私は映画に対する河瀨の態度を尊敬している。彼女の映像を見る目はとても鋭い」と朝子は率直に言った。

河瀨直美は確かに朝子の言う通り、とても鋭い目で、この作品の最も基本的で、最も深層となる感情の核を掴んでいた。彼女にとって創作することとは、果てしなく無限の選択肢が広がる平地から、ただひとつの小さな点を選択して、その点から深く掘っていくことだった。「深く掘れば、最後には大地の奥底に探していた『核心』が見つかる。その核心は、目に見えないすべてのものと繋がっている」と河瀨は言う。

2時間の面談の中で、河瀨は粗編集における大きな問題(人物関係と時間の枠組みが複雑で理解しにくいために、結末で望むような感情に観客が達することができない)を指摘した。またそれ以外に、繰り返し私に質問をし、その答えの中から映画について極めて重要なことを導き出した。それは、今のラフカットの中で足りていないのは「監督の存在」だということだ。

「ラフカットでは、あなたの友人に何が起こったかは描かれている。でもあなた自身は出てこない」河瀨はそう言った。彼女が指摘しているのは、私の言葉や映り込みが足りないということではなく、私が傷に向き合う態度が映画から見えてこないということだった。「観客が本当に知りたいのは、当時事故で何があったかではなく、『あなた』だ。あなたがこの件全体をどう感じたのか、傷に向き合う気持ちはどう変化したのか。映画で大事なのは、監督の存在と観点をはっきりと描き出せているかだ」。

「監督の存在」は、すなわち「なぜその話を映画にするのか」という理由を表している。「映画の中では、あなたは現実の中で生きるだけでなく、あなたが失った、重要な人や物事と共に生きることが出来る。あなたは撮影を通しても、その気持ちを発掘している」。

河瀨が言うには、これは「現在と過去を同時に生きている」状態で、ドキュメンタリーとフィクションの関係でもある。「ドキュメンタリーが人の心を打つのは、それが現実だから。フィクションはその補助に過ぎない」。私たちはラフカットの中でフィクションを使って過去に失われたものを表現したのだが、彼女はそれについて「もし本当にドキュメンタリーにフィクションの要素を使うなら、フィクションを『演じられたドラマ』だと思ってはいけない。あなたの映画の中で、フィクションはあなたの想像が生んだものであって、それは『現在のあなたもまだそこに生きている』過去の世界なのだから」。

河瀨の考えでは、現在と過去の関係は、時間軸のロジックの中で単に「フラッシュバック」という編集手段によって表現されるものではない。「その時々を生きているあなたは、同時に過去に取り囲まれている」のであり、「過去のあなたは、現在のあなたの体内に共存している」。

面談の最後に、彼女は私たちの映画を一言でまとめた。「当時傷を受けた事故は過去に存在し、あなたは現在に存在している。この映画で最も重要なのは、『その時々のあなた』を視覚的に表現することで、あなたをとりまく過去をどう捉えるかだ」。この簡潔なまとめは、この映画の個別的な脈絡を超えた、「映画」の最も基本的で、最も深い意義を指している。「監督として、あなただけが『映画式現実(cinematic reality)』を創造できる。見ることのできない物も、映画を通せば、観客の目の前に存在させられるのだ」。

三:初春

肘折を離れる日は、それまで降り続いていた雪が止んだ晴天の日だった。空気は溶けた雪に冷やされていた。私たちは重い荷物をバスに積むと、温泉街を離れ、再び希望大橋を渡った。バスは私たちにもう一度村の全景を見せようと、橋の上で少し止まった。晴れた空の下、肘折に来たときには雲に隠れていた月山が、大森山と赤砂山の間から姿を見せていた。月山と湯殿山と羽黒山を「出羽三山」という。修験道における山岳信仰の中心地なので、毎年雪が溶けて開山の季節になると、修験道の行者「山伏」が出羽三山山頂の神社まで山間の道を歩く。

月山の登山口のひとつとして、肘折には出羽三山の写真や標識がたくさんある。橋の上から月山を見ながら、ワークショップの終わりに朝子が私たちに俳句を書かせたことを思い出していた。彼女は、この土地で感じたことを書くよう指示し、例として「俳聖」松尾芭蕉の作品をあげた。17世紀に江戸を出て、一路奥州(今の宮城、岩手、山形一帯)を北上し、日本海に沿って南下した松尾芭蕉は、5ヶ月間の旅を『奥の細道』に書いていて、そこに記されたルートには出羽三山も含まれている。

杉の葉に積もる雪 撮影:羅苡珊

『奥の細道』の「奥」は、芭蕉が旅した奥州を指す以外に、「奥深く」「深い所」という意味があり、「細」には細く小さな、狭い、僅かなという意味がある。英訳本の翻訳としてはThe Narrow Road to the Deep North または The Narrow Road to the Interiorである。つまり「北の奥深くに続く狭い道」であり、「心の奥へ続く狭い道」である。(注4)私は、河瀨直美の創作についての例えを思い出した。一本の細い小さな道を地底深くまで掘ると、見えない地底はすべての物に繋がっている。

私たちが肘折を離れる直前、村ではコロナ禍のせいで3年間行われていなかった「地面だし競争」が開催された。雪に深く閉ざされた地面を掘り出すのだ。地面を掘ることは、春の到来も意味している。遠目には軽く、清潔で、なめらかな雪の上で、各地から来た参加者たちが、重い雪を掘ろうと奮闘する。体を以て積雪の深さを感じる。私たちがやっと地面を掘り当てたとき、私は土の色、感触、匂いを感じた。それは春の色、感触、匂いであるだけでなく、故郷の色、感触、匂いでもあった。

初春の時、それは私たちが南の故郷に帰る時だ。山形を離れるルートは、来たときと違って新幹線で東京へと南下した。窓の外の景色は、緯度が下がるに従って変わっていき、積雪は消え、葉がなかった木々には、赤や緑の葉が付いていった。肘折では、毎年11、12月に積もりだした雪が翌年の5月にようやく溶ける。3メートル積もった雪の下の土の匂いを嗅いだとはいえ、私がこの目で雪解け後の肘折を見ることは叶わなかった。でも私の手足は、極度の寒さで刺すようだった痛みを忘れない。肘折の湿った雪は、私の火照った肌の上に漂い落ちて、溶けて水になった。

肘折の、垂直で、深い、内心の世界。「道場」は私たちの「奥の細道」だ。北へと向かい、深く掘る。


(注1)山形国際ドキュメンタリー映画祭は2007年に同名の刊行物を発行していて、その時のシンポジウムと宣言の過程や内容を記載している。https://yidff.theshop.jp/items/35447896

(注2)出典『ゲームチェンジング・ドキュメンタリズム: 世界を変えるドキュメンタリー作家たち』(編著:サムワンズガーデン、発行:ビー・エヌ・エヌ新社)p 238-247、藤岡朝子のインタビューより「他のピッチングフォーラムを見ていて思うんですが、人前に立って話すのが上手い人や、力強いアピールができる人が必ずしも優れた映画作家というわけではないんです。欧米だと特にそういう面が求められるのかもしれませんが、人によっては考えをまとめるのに時間がかかることもあります。アジアの人が一生懸命英語を使って下手なジョークを言ったりしている姿を見て心が痛くなることもありますし、逆にうまくピッチできている人たちの完成した作品を観てがっかりすることもあります。そういった‟競争”をさせるショーではなく、作品を‟育む”場所があった方がいいんじゃないかと思って、ドキュメンタリー道場を始めたんです。」

(注3)ドキュメンタリー・ドリームセンターの資料より:“A dojo is originally a hall or space for immersive learning in the martial arts or meditation. The term consists of two characters which mean ‘the Place’ and ‘the Way’ in Japanese.” 参照: https://ddcenter.org/dojo/dojo5e/

(注4)参考『奥の細道:芭蕉之奧羽北路行腳』訳注・鄭清茂


【監督紹介】
羅苡珊(ルオ・イーシャン)
台湾生まれ。国立台湾大学に歴史学の学士号を取得。現代文学、文化人類学、社会科学に影響を受け、大学時代からフリーランスのライター、映画評論家として活動している。
10代の頃から、台湾の亜熱帯の山森にみられる人間と人間でないものが絡み合いながら共存するあり様に魅了されてきた。大自然の美しさ、残酷さ、複雑さを、女性の視点から伝えることが映画制作の動機となっている。人間と自然の関係に加え、グローバリゼーション、ポストコロニアリズム、ディアスポラの問題にも関心が深い。『雪解けの後に』は初の長編ドキュメンタリー作品となる。

山形ドキュメンタリー道場

主催: ドキュメンタリー・ドリームセンター
助成: 笹川日仏財団 ほか
協賛: Tokyo Docs
協力: 山形国際ドキュメンタリー映画祭、山形県大蔵村肘折地区、大蔵村観光協会、肘折温泉旅館組合、Anchorstar、KICKSTARTER

事業パートナー: 台湾映画・メディア文化センター(TFAI)
https://ddcenter.org/dojo/