【特別寄稿】心の奥へと続く狭い道 2023年「山形ドキュメンタリー道場」記 text ルオ・イーシャン(羅苡珊)

二:深い雪

バスが村と外界をつなぐ「希望大橋」を過ぎると、肘折温泉の全景が目に入ってきた。大森山、赤砂山、高倉山の雪に覆われた稜線が、肩を寄せるように肘折を囲む。1200年前の開湯以来、ここは有名な湯治場であり、火山が作り出した炭酸の温泉が地元の農家や鉱夫、旅人の心身を癒やしてきた。バスが大橋を渡って村に入ると、窓の景色は、それまでの斜面に植えられた杉林から谷川の欅の原生林へと変わり、最後には車1台しか通れないほどの、古い旅館が両側に立ち並ぶ温泉街になった。この細い街道は、銅山川という名の渓流に沿っている。川は村を貫いて北へと流れ、最後には最上川と合流して日本海に注ぐ。

毎年冬になると、日本海から来る湿った空気が奥羽山脈に雪を降らせ、日本最大の降雪量となる豪雪地帯を作り出す。奥羽山脈の西側にあるのが出羽山地で、肘折は海抜わずか300mに過ぎないが、1年のうち半年は積雪と共存しなければならない。私たちは積雪量が最も多い2月に村に着いたので、眼下にはそれまでの蓄積を感じさせる風景が広がっていた。12月1日に初雪が降ると、白い雪はあっという間にもとの地形を飲み込んでしまう。村人は毎日道路の雪かきをするが、雪かきをしていない道路の両側には3メートル近い雪の壁ができている。

時間の風景というは垂直な風景であり、深さの風景、内心の風景である。人の背丈より高い垂直の雪の壁に沿って歩いていると、村に向かって流れる水の音は新雪に吸い込まれ、静寂の世界には雪の落ちる僅かな音だけが残る。ずっと聞いていると、そのまま深みに入ってしまいそうだ。

肘折に着いた日、私たちは今後1ヶ月の仕事場兼生活の場となる編集室をこしらえ、4日間のワークショップに備えた。ワークショップの冒頭、朝子は参加者全員に丁寧な言葉で語った。自分の考えを相手に伝えるとき、どうするべきだと意見を押し付けるような、直接的「指導」をしないでほしいと。すべての映画制作者は(いかなる経歴や性別であっても)みな平等だし、交流の目的は他者の創作の良し悪しや正しいかどうかを評することではなく、自身で創作に足りないものや問題点を見つけることにあるのだからと。

ワークショップは、そんな空気の中で始まった。時間配分のメインは各チームの発表と討論で、講師の「マスタークラス」と講師と深く討論する「個別面談」が、それを補う。村での滞在に選ばれていた企画は、『雪解けの後に』の他にも、タイヤル族の監督サーユン・シモンによる『SPI:焚き火小屋の夢(ロスト・イン・ザ・ドリーム)』があった。編集のリン・イーチュと、プロデューサーのホアン・フイチェンも一緒だ。また、道場に応募した3人の日本のドキュメンタリー監督(大場丈夫、工藤雅、竹藤佳世)もワークショップに参加した。

今年の4人の講師は、かつてエリック・ロメールの編集をし、編集経験が豊富な香港系フランス人メアリー・スティーブン(Mary Stephen)、佐藤真や小林茂、原一男などの監督と仕事をしたドキュメンタリー映画編集の秦岳志、「農村女性成長三部作」『卵と石』(2012)『フーリッシュ・バード』(2017)『石門』(2022)を共同制作した日中インディペンデント映画監督夫婦のホアン・ジーと大塚竜治である。ドキュメンタリーの編集という同じテーマを語るにしても、それぞれの講師が持っているアプローチの核心と方向性は違う。それでも監督の考えを重視しながら編集するという姿勢は共通している。メアリーは編集指導という立場から、映画全体の感情的な中心と構造の全体をしっかり見る。秦は「倫理関係」と「映画の自律性」に極めて重きをおいている。そして心理カウンセラーのようなホアン・ジーと大塚は、個人の痛みをテーマとして創作することへの想いや、どうやって「情感態度、温度と距離」を描くかについて深く語った。

2023年の「道場」参加者 (羅苡珊提供)

(一)メアリー・スティーブン:複雑な語り口を使って本心の感情から逃げるな

『雪解けの後に』は青年の成長を枠とした物語である。共に育った3人の仲間が成人を迎えるころ、仲間の1人が死んでしまう。死亡事故の後、生きている2人は寄り添い、傷に向き合う術を探すが、徐々に違う道を歩んでいく。

ワークショップが始まる前、私たちは自分で編集した作品の冒頭から中盤に当たる1時間のラフカットを見てもらっていた。そして発表の場で、編集のワンユーが作った30分の後半部分を流した。この合計90分の粗編集版では、前半の1時間に、迂回する方法で傷の存在を暗示させ、最後のほうになってようやく傷の原因となる死亡事故を明らかにした。

「会場で上映された後半が胸がつぶれるほど強烈だったので、(前半部分の)1時間を見て感じたことに確信をもった」。私たちの発表後、メアリーはこのように反応してくれた。「あなたは、身を切るようにデリケートで切迫した映画作りの過程から距離をとろう、隠れようとして、身を露わにしないで済むカモフラージュの方法に、あの複雑な語りの構造を選んだのではないですか」と。

1時間のラフカットでは、親友が亡くなった後に撮影した素材を、撮影の時間軸から切り離し、亡くなる前のシーンとして使っていた。ドキュメンタリーの記録性から離れ、虚構を以て真実に近づけることを狙ったのだ。しかしメアリーにとって、こうした「時制の操作」や「芸術を使った偽装」という手法は「余計な装飾」であった。「これは劇映画ではない。素材本来の時間軸を変えては成立しない」。彼女は、こうした余計な装飾と煩雑な語りは、語り手が無意識に自らをトラウマ的な感情から引き離し、感情を疎外しようとしている方法だと指摘した。「事件とそこから生じたあなたの感情は、すでにこれほど強烈なのだから、その語りにわざわざ複雑な方法を使う必要はない」。

個別面談の時、メアリーと私たちは編集室でラフカットを観なおして、ストーリーを最も単純に、感情の流れにしたがって整理してみた。その中で、導入部についての議論はとても重要なものとなった。導入部は映画の鍵となるもので、つまり映像と音声の細かい蓄積によって、映画全体の感情や雰囲気を正しく調整することができる。そこから映画のタイムフレーム(映画の中の「現在」がどの時間なのか、どういう時間があるのか)、語り手の存在とその位置(監督の一人称である「私」とは誰か、どれくらい情感と距離をもって物語を語っているのか)、並びに撮影者と被写体との関係などを伺い知ることができるのだ。

「最も重要なのは、あなたが『映画を撮っている』ことにとらわれないこと。最もシンプルでピュアで、誠実で直接的な方法で物語を語れたら、この映画はきっと驚くべきものになる」とメアリーは言う。感情に根差した、ストレートな導入部ができれば、メアリーのこの言葉の通りになるだろう。

(二) ホアン・ジー、大塚竜治:物語る野心を捨て、感情への感度を取り戻せ

ドキュメンタリー的な手法で劇映画を撮っているホアン・ジーと大塚は、「道場」のようなドキュメンタリー・ワークショップに不釣り合いどころか、むしろ「フィクションである劇映画/非フィクションであるドキュメンタリー」という二元分野を飛び越え、「映画」の核心へと導いてくれる。

「もし一言で表すなら、あなたはこれをどんな映画にしたいの?」個別面談で、大塚はいきなり私にこんな質問をした。ホアン・ジーと大塚にとって、作品を表すこの言葉は「情感態度」、つまり監督が被写体の感情に対してどういう態度を取るか、である。「情感態度は、すべてのカットの撮影と編集に映る」とホアン・ジーは言う。「観客は、それが監督の態度なのだと感じ、信じる」。

情感態度は、映画の中の「視点と視線」で表される。もし映画がただ一つのショットからできているとすれば、それは「撮影者(物語の語り手)の視点/観点」である。カメラマンであり、監督も編集もする大塚は、「視点と視線」を鋭く観察する。「編集にあたっては、充分な感度が必要だ。すべてのカットで『視点』が誰の視点なのかを考えないといけない。複数の視点があれば統一し、編集を通して自然なロジックに調整する必要がある」。

視点は、語り手と物語、観客と物語の間の「距離」と「温度(親密度)」に直接影響する。客観的なカットは冷たい感じで人に疎外感を及ぼし、アップの主観カットは撮影者の感情を直接的に感じさせる。「ロジック無しに異質な視点を挿入すると、観客に不安定な距離感を与える」。視点とは、視覚的な画面のことだけでなく、音声も指す。映画の視点は「ボイスオーバーからも画面からも合理的な距離になくてはならない」。画面とボイスオーバーの距離が一致したときのみ、視点が一貫し、視線と情感態度が定まる。

こうした見解を経て、ホアン・ジーと大塚は私たちが粗く編集したラフカットの中から細かい雑多なものを取り除くことをアドバイスした。感情を駆動力にし、どのシーンにも「コアとなるカット」をひとつ立てる。その核心画面の元の素材に立ち返り、全体を観て、撮影したときの実際の時間の長さやカットの視点と性質を感じとる。その後、4コマ漫画のようにそれらのカットを並べ、各カット同士の反応、繋がり、流れといった関係性を作り出すのだ。

これは面白くも「シンプルさへの回帰」を促すメアリーのアドバイスと繋がってくる。大塚とホアン・ジーのコメントで、私たちは「感度を保つこと」の重要性に気づいた。「監督は、編集者のように客観的であってはいけない。編集を急ぐあまり、自分を鈍感にしてはいけない」。例えば大塚と共同制作をするとき、監督であるホアン・ジーは編集にまったくタッチしない。大塚がまずすべてを編集し終えて初めて観る。しかも観るのは一度だけだ。「もし何度も観たら、理性的に分析してしまう。それでは編集の思考になってしまう」。監督は新鮮な目と感度をずっと保たなければいけない。

自分の感性に敏感になる、ということは「ロジック先行」で物語る野心を捨てろということだ。本来の素材にしっかり戻れということだ。「ドキュメンタリーは、情感を物語の道具にしてはならない」。ホアン・ジーと大塚は、面談の最後に私たちにこう告げた。複雑に語ろうとする監督の意図に従わせて素材を操作するのではなく、素材の中の情感をあるがままに示すことが出来れば、完成した映画は観客に素顔を見せられる。ホアン・ジーは言う。「恋人でもないのにこれほどまで誠実に向き合える、それが映画と観客の最も幸福な関係だ」。

「希望大橋」の上から肘折温泉の全景を眺める 撮影:羅苡珊