【Roundtable】災後の舞台表現をめぐって――フェスティバル/トーキョー12 text 九龍ジョー × 夏目深雪 × 萩野亮

カタストロフに向き合う

萩野 きょうはお集まりいただきありがとうございます。今回は夏目さんよりご提案をいただき、昨年10/27から11/25にわたって開催されたフェスティバル/トーキョー(F/T12をめぐって自由に議論していきたいと思っているのですが、「neoneo」はドキュメンタリーの専門誌として、演劇におけるドキュメンタリー表現にも着目していきたいと僕はずっと考えてきたんですね。F/Tは、まさに「ドキュメンタリー演劇」や「ポストドラマ演劇」と呼ばれる方法論が、いくつもの劇団によって大々的に試される非常に刺激的な演劇祭です。これから自由に議論していくなかで、「演劇におけるドキュメンタリズム」の可能性と限界のようなものが同時に描ければと思っています。

ではまず夏目さんから、今回のフェスティバル全体の印象からお話しいただけますか。

夏目 今回は、昨年F/Tの主催する劇評コンペで優秀賞を取ったこともあり、ご招待いただいたので、主催プログラムも公募プログラムも一本を除いて全て観ることができました。数を観ることで確かに俯瞰して見えてくるものというのはあって、今年は「攻めてきたな」という感じです。戦争、災害、差別など、悲惨な出来事をどのように表象するかという問題意識のもとに作られているものが全体として多かったように思います。

主催プログラムのなかでは『隣人ジミーの不在』(岡崎藝術座)『夢の城Castle of Dreams(ポツドール)DAH-DAH-SKO-DAH-DHA(勅使河原三郎)以外はすべてそうだと思いました。そのなかでいろんな方法を試していて、展示方式のものが目立ちましたね。逆に公募プログラムにはそういう問題意識が前面に出ているものはなかったように思います。

九龍 表象の話については、脚本協力をしたからというわけではないんですが、『隣人ジミーの不在』にも少なからずそういった問題意識はあったと思います。展示方式に関しては、F/Tは以前から「脱=劇場」的な作品を意識的に取り込んでいて、とくに2011年は東京芸術劇場が使えなかったこともあって、それが顕著でした。

萩野 2011年だと、池袋のビルの屋上を使った維新派の『風景画』がありましたね。

夏目 野外は野外でも、展示方式はまたちょっと違いますよね。私は『わたしのすがた』(飴屋法水、F/T10)がすごく好きだったんですけど、今回の展示方式の作品はあれとはちょっと違う気がしましたね。精神的にくるものが多かった。『わたしのすがた』は、音声とかを使っていて、いろんな仕掛けがあったと思うんですよ。自分がそこに参加して入り込むような感じがあって、寄せ書きみたいなものを書かされたりとか。

九龍 告白部屋ですね。たしかに『わたしのすがた』は生理的な部分にまで触れてくるところがありましたね。

夏目 五感に訴えてくるので理解しやすいというのはあると思いますね。今回の展示方式の作品は視覚と言語以外使っていないものが多いと思います。「これが問題です。見てください」と提示され、観客自身が「さぁ、お前はどうなんだ、どう考えるんだ」と問われる感じがしました。展示方式の作品ではありませんが『女司祭-危機三部作・第三部』(クレタクール)などは実際に「今ここで何が起こっていると思いますか?」と問いかけられましたしね。

海外の演目は日本との距離の問題もあると思います。『女司祭』は実際にハンガリーで問題となっている問題やコンテキストが実感できないと、問われても気軽に答えていいのか、それ自体戸惑うところがあります。でも問われるわけです。容赦ない「観客参加型」だな、と思いました。『たった一人の中庭』(ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs)や『ステップ・メモリーズ抑圧されたものの帰還』(グリーンピグ)も、ヨーロッパの移民問題、朝鮮戦争、それぞれ私たちが日常親しんでいる問題ではないだけに、その問題との距離が直接的に観客である私たちに跳ね返ってくるという意味では同じような印象を受けました。

『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(マレビトの会)も日本の作品で福島を直接的にではないにせよテーマにしていると思いますが、問題との距離の取り方が今挙げた海外勢の作品と似ている気がしました。

マレビトの会『アンティゴネーへの旅の追憶とその上演』第二の上演 写真=田村友一郎

萩野 僕は7時間のうちのすべてを見たわけではありませんが、『アンティゴネー~』はとても刺戟を受けた作品でしたね。

九龍 僕は残念ながら観劇できなかったのでお聞きしたいんですが、それは7時間の全部を見れなかったというよりは、初めから「全部は見れない」という側面もあったんですか。観客がすべてを網羅しつくすことを前提とはしていない、というような。

萩野 見れないし、見なくてもいい、ということだと思うんです。ただ7時間のあいだ、登場人物=俳優たちの身体がそこにあるという事実に、何かものすごく想像力を喚起させられた。

夏目 何時間くらいいたんですか?

萩野 あたまの2時間と、おしりの1時間くらいですかね。そのあいだにとくに変化はなくて、代表の松田正隆さんがいうには、人物たちはそこで「想起」をしているんだと。今回にしすがも創造舎で行なわれたのは「第二の上演」で、その事前に4ヶ月にわたって「第一の上演」と呼ばれる、架空の劇団による『アンティゴネー』上演の旅のプロセスがあったわけですが、その経験を彼らはそこで想起している。その想起の営みのなかで、言葉がこぼれたり、手足にあるニュアンスが喚起したりするんです。会場には第一の上演が記録された本も置いてあるのですが、まさに人物=俳優の身体は、そこで本のように存在していて、ひたすら「読まれる」ことを待っている、そんなふうに見ました。

夏目 マレビトの会の作品だと、わたしは2月に見た『マレビト・ライブ東京編』が非常に面白かったんです。街中でいきなり劇が始まるんですね。案内に沿って家屋の一室に行くと、そこで演劇が始まったりとか。登場人物、つまり俳優がA地点からB地点に移動する時に、みんな後ろについていったりしたんですけど、そこだけ異空間になるんですね。私は『アンティゴネ―』の「第一の上演」がきっと同じことをしていて、「第二の上演」はやはりあくまでそれを踏まえて観るべきものだったのではないかと個人的には思います。まぁ、というか「第一の上演」は実際にやり、それがブログやツイッターというネット空間で広がっていくということ、その両方がやりたかったんだろうけど。第一の上演を実際に観ることができず第二の上演を観ることになったのが残念です。

萩野 僕はマレビトの会の作品はずっと見てきたわけではないですけど、これまでの作品で経てきたものが、今回すべて入っているように思いました。

九龍 「ヒロシマ・ナガサキシリーズ」(F/T09春~11)も展示演劇でしたね。

萩野 面白いと思ったのは、あのシリーズを松田さんは広島の平和祈念資料館で着想されたとおっしゃっていることなんですね。なんでもない日用品だったはずのお弁当箱が、黒焦げになってガラスケースに収まることで、避けがたく「被爆」という強烈な意味を帯びてくる。それが一種の集合記憶のようなものをかたちづくっていくわけですが、それを俳優の身体で劇としてやってみたらどうなるのか、と。夏目さんは先ほど「視覚的なものが多かった」とおっしゃいましたが、松田さんが今回の『アンティゴネー~』について、「この上演は読まれる」と簡潔に述べているとおり、ここではむしろ観客は「見ること」より、「読むこと」を試されているんだと思うんです。

夏目 「見ることの不可能性」を突きつけるものが、展示方式には多かったと思うんですね。「見たってわかりきれない」というか。

九龍 演劇というものがそもそも何かの代理表象ですよね。オリジナルは絶対に体験できないということが前提にあり、起きたことを報告者として演じたり、共有したり、記録したりするっていう側面がある。そこには初めから表象不可能性は埋め込まれています。その上で今回は「ことばの彼方へ」というテーマがあり、さらには「3・11」を扱ったイェリネクの戯曲が中心に置かれているっていうことがフェスティバルの基調低音になっていたと思います。

 ―

Port B『光のないⅡ』 写真:蓮沼昌宏

イェリネクの言葉を「聞く」こと

夏目 「見ることがつらい」という気もちをずっと掻き立てられるものばかりで、逆に聞くほうがぜんぜん心が安らぐというか。イェリネク関連にそれは顕著ですね。「聞く」ことが中心になっているのは、『光のない。』(地点)と、『レヒニッツ(皆殺しの天使)』(ミュンヘン・カンマーシュピーレ)。『レヒニッツ』は翻訳字幕を「読んでいる」わけですけど。それから18日、君はどこにいたのか』(メヘル・シアター・グループ)もずっと台詞を聞いているような。そこで「言葉」という今年のテーマが出てくると思うんですけど、そっちのほうがつらい思いはしなかったというか、いい作品だと素直に思えましたね。PortB『光のないⅡ』も、イェリネクの福島の中高生の朗読と福島や原発事故をモチーフにしたインスタレ―ションとの組み合わせでしたが、今しか作れないという現在性が強く出た、面白い作品でした。あれがインスタレーションだけだったら、やっぱりつらかったと思うんです。

萩野 いま翻訳の話も出ましたけど、『レヒニッツ』はそこの部分でかなり限界があったように思いますね。あれだけの文量の字幕を読まされることは、観劇体験そのものが変容せざるをえない。

夏目 そうそう、字幕上演の問題もありますね。佐々木敦さんなんかは、『レヒニッツ』は日本語でやったほうがよかったと言っていましたね。

九龍 『レヒニッツ』で言うと、たしかに舞台上の彼らが「報告者」としてわれわれに説明するという構造なので、字幕の問題は大きかったですね。それが伝わったときの力強さはすごくあるんだと思うんですけど。

萩野 そう思います。同じイェリネクのテクストでも、地点の日本語上演のほうが、はるかに言葉の物質性が切り立って聞こえてくる。それはもちろん、イェリネクのテクストが本来求めていることであり、三浦基さんの演出の賜物でもあるんですけど。

夏目 何故「聞く」方が良かったかというと、それはつまり戯曲の良さにつきてしまうかもしれません。イェリネクの言葉の単純な二項対立に収まらない言葉と物語を紡ぐ力、多層性、アミール・レザ・コヘスタニの謎を謎のままにして進む会話劇、双方とも寄せ、また打ちかえす波のように音楽的で、かつ複数の声を追う快楽がありました。

 ―

演劇の主体性

九龍 僕は上演作品全体を網羅したわけではないので、点描になってしまうんですが、最初に『たった一人の中庭』と『レヒニッツ』を見て、まず表象不可能なものや歴史を扱うときのパースペクティブの揺るがなさに圧倒されたんです。主体性がはっきりしていて迷いがない。さすが一神教の神のある国というか、個人と全体を関係づける視点が確立されていて、堅牢なんですよね。両作品とも歴史の暗部についてゴシップ的なユーモアさえ巻き込んで作品にしてましたけど、たとえば日本軍の虐殺についてあんな風に描くのはなかなか難しいですよ。責任の所在も含めて、あそこまでの主体性をもっては描けないと思います。

その後、国内のいくつかの作品を見たんですが、全部が全部とは言いませんけど、よい悪いは別としてその対極でした。まずは主体性やパースペクティブを自前でつくらなきゃいけないその手前のところで、グラグラした足場で奮闘しているような作品が多かった。舞台上にレイヤーがいくつか走っていて、それぞれがほとんど交わらないとか、会話もディスコミュニケーションだったり。あ、ここから始めなきゃいけならないんだろうなということは感じました。ただ、そのもう一歩先は見たかった。自前の視点とパースペクティヴというか。僕の観劇できなかった作品にはそれがあったのかもしれません。

萩野 同じ日本語演劇でも、イェリネクの戯曲をもとにした作品とそれ以外では構造自体がぜんぜん違うように感じますね。ごくごく基本的な言語論ですが、イェリネクがものしているドイツ語を始めとした西欧語は、主語を欠くと文が成立しないのに対して、むしろ日本語の場合は主語はしばしば省略される。その基本的な差異が、カタストロフを前にして、演劇にごく素直に現れてきているような気がします。西欧語をもとにした作品は、やっぱり言葉の主体が明確で、劇自体の構造も堅固です。

九龍 それに言葉がすごく強い。なので僕の観れなかったPort Bにせよ地点にせよ、イェリネクの言葉にある「われわれ」という主体性を彼らがどう扱かったのかがすごく気になってるんです。実際のところどうだったんでしょう?

萩野 地点の『光のない。』でいうと、もともとイェリネクの戯曲はふたつのバイオリンのダイアローグとして書かれたもので、地点の作品はそれを複数の人物に割り振っています。そこでまずテクストの「解体」が行なわれていますね。

夏目 『光のない。』は、ひとりひとりのキャラクターが明確に描き分けられていたわけではなくて、『レヒニッツ』は、演出として個々のキャラクターに割り振って、「キャラクターが喋る」というふうになっていた。

九龍 (ドイツ語の戯曲をドイツ語で演じた)『レヒニッツ』の場合は俳優のキャラクターがはっきりしていましたもんね。そこが日本の場合は、どうしても何人かで演じるとか、取り替え可能なかたちでテキストとその主体性が一致するような形式ではなく、用いられている。公募プログラムのいくつかの作品にもそういう印象を受けました。それを僕はけっして悪いことだとは思わないんですけど。

 ―

言葉の氾濫=時代の自画像

九龍 そういうなかで面白かったのはアジアの『小南管』WCdance)と『狂人日記』(新青年芸術劇団)で、両作品とも歴史の縦軸を意識した作品でした。『狂人日記』は一見アナクロなんですが、劇団名にわざわざ「新」と振っていることからもわかるとおり、それはあえて意図している「古さ」で、意図して「古い」魯迅をやっていた。『小南管』も、コンテンポラリーのダンサーがあえて伝統器楽をやってみるという作品でした。

そのなかで、国内の公募プログラムの作品なんかは「現代」に足をとられているというか(笑)、縦のパースペクティブがない。当然、西洋的な演劇やダンステクニックともかけ離れていて、かといって日本のある伝統芸能的な身体とも切断している。そうした現代日本特有のポストモダンな状況は面白くもあるんだけど、その苦しさも感じてしまう。それは我々の自画像でもあるんじゃないかと。

夏目 日本の公募プログラムの若い劇団で顕著なのは、言葉の氾濫。『キメラガール・アンセム/120日間将棋』(ジエン社)も『美しい星』(ピーチャム・カンパニー)も『不変の価値』(集団:歩行訓練)も、とにかく喋りまくってテロップ出しまくって。ポストドラマ演劇としての「過剰性」や「同時性」などと勿論言うこともできるんだけど、それをやらないと間が持たないというのも、意地悪な見方をすると、あるのかも。それを「時代の自画像」だというのは、そうかもしれない。

萩野 それで思い出すのは、ベタな話ですけど、たとえばニコニコ動画の「煙幕」と呼ばれるコメントの洪水で、映像を見るのではなく、あるコミュニケーションとして膨大な言葉を読み、あるいは自分も打ち込む。そういう過剰さともつながっている気がしますね。

九龍 ネット環境が死語ですけど文字通り「常時接続」、あるいはソーシャルなものになったことで現実が拡張されるという状態がここ数年、加速していますよね。でも、その状況を演劇で追認しても仕方がないわけで。いくらニコ動的なアーキテクチャの作品をつくったところで、そんなのニコ動の「生主」の生放送を見たほうが何倍も面白いに決まっている。

夏目 「言葉の氾濫」と言いましたけど、わたし自身がぜんぜんそうなので(笑)。ツイッターのタイムラインを毎日追っているし、そういう時代意識を表しているということではそうですよね。それと闘っていると言えるのかもしれない。

九龍 だから、一番象徴的だと思ったのはポツドールの『夢の城』なんです。言葉のない無言劇。今回は再演ですけど、はっきり言うと僕は初演のほうが圧倒的によかったんですね。今回は完成したエンターテイメントとして、その完成度に圧倒はされましたが、初演のときのように抜き差しならない感じで迫ってくるものはなかった。ま、それは僕個人の感想なので置いておくとして、ポツドールの作品は、三浦大輔自身がよく「盗視症」と言っているように、観客が舞台を覗くという構造ははっきりしていて、揺るがないんですね。そこで主体性がぶれるようなことは絶対ありえないし、演じている人を観客は見る、見ている人が実は見られているみたいな。舞台上も含めて「見る/見られる」という非常に西洋的な視点とパースペクティブが確立している。初演よりもさらにその堅牢さは際だってましたね。ヨーロッパで評価されるのもよくわかる。

萩野 ヨーロッパでは、日本の若者の風俗を自然主義的に「記録」した、一種の「ドキュメンタリー演劇」として受け入れられているようですね。

九龍 まさしく。精巧なフィクションとしての「リアル」を追求するというのは、キリスト教に学んだこの国の自然主義的な伝統ですからね。

 ―

村川拓也『言葉』 写真=青木司

演劇内映像と神的なるもの

夏目 わたしはポツドールの揺るぎなさというのも感じましたけど、もうひとつ村川拓也『言葉』の揺るぎなさというのもあって、あの作品も言葉があふれるんですよ。ただ、それを手話に換算する。テロップなんかより、やはり相当いいです。映像も入っているんですけど、わたしは映画をよく観るというのもあるのか、演劇のなかの映像には違和感を持つことが多いんです。でも村川拓也の映像はなんかいいんですね。被災地の旅行写真がダサい音楽といっしょに流れるという(笑)。あれはよかったなあ。

萩野 僕はぎゃくにあの映像は要らないと思いました。被災地を実際に旅するなかでふたりの俳優がさまざまな「言葉」を採集した、その事実性=信憑性をいわば担保するためにあの写真はあったと思うのですが、たとえば見られることさえ要求していない、つまり俳優が旅をしたことの事実性=信憑性をもはや問題としていないマレビトの会の「第一の上演」のほうが、はるかにラディカルで、逆説的な真実味があったと思うんです。

村川さんは僕もとても注目している作家ですが、クレバーな作品作りに唸らされると同時に、みずから作品を狭くしている印象ももちます。今回の作品では、観客席にマイクを向けて、観客からの「言葉」を任意に得ようとするあたりもすごく面白いんですけど、客席からリアクションがほぼないだろうことは彼自身も織り込み済みで、そのうえであの演出を二度、三度と繰り返す。始めはマイクの暴力性に客席が緊張に包まれるんですが、繰り返されることで単純に観客も慣らされていく。それはいわゆる演劇的な演劇以上に、よくない意味で予定調和に陥っているように思えました。結末近くで流されるあの映像も、その予定調和を決して乱すことなく、おだやかに位置づいてしまっていたように思うんです。

夏目 私も村川さんの作品の中では『言葉』より前作の『ツァイトゲーバー』の方が傑作だとは思います。ただ、『アンティゴネ―~』と『言葉』は方法論が違う軸にあり、同列で比較できないのではないかと思います。萩野さんも今言ったとおり、村川さんは「俳優がいて、観客がいること」、その場が演劇だということを、常に意識し、また観客にも意識させる作品を作っていると思います。実際、トークで聞きましたが、『言葉』では初日は二人の俳優を向い合せて喋らせていたそうですが、そこで出来てしまう関係性が嫌で、二日目以降は二人とも客席を向くように変更したそうです。被災地の映像がラディカルではない、というのはその通りだと思いますが、あれは「ずらし」や「照れ」のようなものではないでしょうか。被災地の経験を喋り、それを手話に変換する、それを観聞きしている観客にとって、村川さんが必要だと感じた。

私が最初に提示した、展示方式の作品の問題点は、その「俳優観客」の、本来であれば二方向間に影響し合うはずの関係性が、ややもすると一方的、強い言葉を使うと暴力的なものになってしまうのではないかという懸念からです。そこに相互行き来する有機的な「場」が作られるのか。『アンティゴネ―~ 』が第一の上演を観てから第二の上演を観るべきではないかと言ったのはそういった意味でです。『マレビト・ライブ東京編』は少なくともその「場」はあった。多分、「第一の上演」もあったと思う。でも「第二の上演」のみで、果たしてそういった「場」が本当にあったんだろうか。「フクシマ」に向き合う時に、どちらがあるべき態度なのかというのは、考えるに値する問題だと思います。

九龍 話を戻すと、舞台上の映像で面白いのは、今回の岡崎藝術座が休憩時間に流したオムレツをつくる映像もそうですけど、ホントに意味のない映像を「意味ないですよ」って上映できることなんですよ。映画でそんなこと許されないじゃないですか。演劇の、映像に対するありがたみのなさというか(笑)、それが面白いところですね。岡崎のあの映像は、読もうと思えばいくらでも意味を読めるんだけど、くだらないといえばただくだらないという(笑)。でも一部と二部の休憩時間に舞台上で何かが起きると。そこに何か重要な映像を入れるんではなくて、ホントにありふれた映像を入れたのが面白い試みだったなと。

萩野 何でもない映像だからこそ、深読みさせますよね。あの映像の卵の球形は、モニターの逆サイドに釣られていた地球のようなオブジェと、僕は明らかに対応していると思ったんです。三つの別の卵が混ぜられて焼かれて、ひとつの球形になって何者かに食べられてしまう。あのケチャップは血じゃないかなと思っています(笑)。でもそう見えてくるのは、作品全体のあの不穏さがあるからですよね。

九龍 そういうふうにとらえてもいいし、一方で文字通り「何でもない」映像としてとらえてもいいんですよ。もちろん表象不可能なぐらい決定的なことが起きたと捉えてもいい。

夏目 『ステップ・メモリーズ』では、朝鮮戦争のメタフォリカルな象徴としてロシアンルーレットをやるんですよ。そのあとに、そのなかのひとりを中庭に連れて行って生き埋めにするんですね。それをカメラはずっと追っていって、その中継映像がライブで流れるんです。あれは映画の「リヴェット=ダネー問題」なんかからするとどうなのかなと。

(※)フランスの映画批評家のセルジュ・ダネーが「カポのトラヴェリング」という論文でふれた、カメラの倫理をめぐる問題。その文章でダネーは、強制収容所を描いた『カポ』(ジッロ・ポンテコルヴォ監督、邦題『ゼロ地帯』)のラストシーンで、被収容者が金網に身体をぶつけて絶命するシーンを移動撮影で切り取ったことを「卑劣」だと断じたジャック・リヴェットの「卑劣さについて」という文章に限りない共感を示した。

グリーン・ピグ『ステップ・メモリーズ 抑圧されたものの帰還』 写真=片岡陽太

九龍 演劇内のライブ映像ということでは、ヒッピー部(『あたまのうしろ』)も、観客にどこまで伝わっていたかわからないところもあるんですけど、技術的にかなり高度なことをやっていたんです。僕もうまく理解できたか微妙なんですけど(笑)、なんでも撮影者がシャッターを押した瞬間に、その撮影者の像を演算で引き算をして、撮影者によって隠されていた風景の部分だけ別にプロジェクションするみたいなことをリアルタイムでやっていたと。これでうまく説明できているのか心許ないんですが、つまり撮った人のところだけは風景が撮れないという問題が常にあるわけじゃないですか。その部分を切り出してみたらどうなるかってことなんですけど、そのぽっかり空いた穴にやっぱり主体性というか、その不在を見て、面白いなと思ったんです。ロラン・バルトの『明るい部屋』の写真論が引用されていたんですけど、むしろバルトの日本論にあった「中心の空虚」ということを想起させられもしました。

萩野 九龍さんの言葉でいうと、今回の公募作品に見られるようないまの日本の演劇は、まさにパースペクティブが揺らいでいて、そこで言葉を撒き散らしながらもがいているような印象を受けますね。それをヒッピー部は「カメラ」という構造を使いながら、まさに必死で「パースを合わせようとしている」。それはどこかオカルティックなことにも近づいていく。神なき現代日本で、神的なもの、宗教的なものを、むしろ科学的・光学的な装置によってアクロバティックに獲得しようとしているんじゃないかと感じます。

九龍 つまりは「霊性」ですよね。僕は「霊性」となると、飴屋さんが独走状態だと思っているんです。その一方で、現実的に何かストラグルみたいなことを権力や政治に対して重ねていくと、「霊性」とはまた別のかたちの、それが「ゲーム」というものなのかもしれないんですけど、そういうものが見えてくる。今の日本にそこまで強固なゲーム的状況ってないですよね。だからAKBみたいな強固なルールを持ったシステムが来ると、日本人は弱いんですよ(笑)。

夏目 ジエン社も、その世界をどうして上から俯瞰して見ないのかなと思いましたね。

九龍 だからまだいまは「時代の自画像」に近い状況なんですよね。やっぱり僕らはこの状況のなかで揺らいでいるというか、言葉は氾濫しているし。ただこれは僕の偏った演目を見たなかの偏った意見でしかないんですけど。アジアの話に少し戻すと、『バラバラな生体のバイオナレーション』(シアタースタジオ・インドネシア)もそうだったし、『小南管』も『狂人日記』も、何か歴史だったり伝統だったり宗教だったりに、それを直接見せないにしてもどこかでそれを通過している。しかも『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(与那覇潤著、文藝春秋)なんかを読むと、中国社会の作られ方からして、完全にキリスト教国家を先取りしたある種のユニバーサルな世界観だという話もある。その中で、日本的な「寄り合いで全会一致」じゃないですけど、そういう社会から生まれてくる演劇は現代でどのようにしてありえるんだろうかってことは考えたりしました。

イリュージョンをふたたび舞台に呼び戻すために

夏目 主催プログラムはいろんな問題提起があって、議論が巻き起こった。でもその議論もなかなかちゃんとしたものにはなっていかないということもあって。だからこの座談会も提案したんですけど。

九龍 シンポジウムも今回はどちらかというとエデュケーショナルな内容のものが多かったですよね。つまりそれはそれだけの教養が要求される作品が多かったということでもあるんですけど、本来はその教養の先にある議論が重要なのであって。今後はそういう場ができるといいですよね。そもそも劇場というのはそういう議論をするための場所だと思うんで。ただ、毎年F/Tを見てきて、今回はTwitterがより普及したこともあるんでしょうけど、少なくとも僕のタイムラインでは公演の賛否や感想が一番よく聞こえてきたのも事実です。いままではごく一部の人がぽつぽつと感想を言っているくらいだったんですけど、今回はF/Tでいろんな議論が喚起されている感じはしました。

夏目 シンポジウムでゲストの畠山直哉さんが突然ポストドラマ演劇の批判を始めて。ああいうことを認める懐の深さはいいなあと思いましたね。

萩野 あの批判は僕もとても重要だと思いました。「なぜそこまでしてイリュージョンを否定するのか」と、演出家の方々に面と向かってきわめて根本的な問いを投げかけられた。

九龍 現代演劇がポストドラマというかドキュメンタリー性に偏りすぎてたことに対する、逆のリアクションですよね。演劇が本来持っているイリュージョンの力をなぜ使わないのかという。

夏目 誰もまともに答えてなかった(笑)。あそこからまた反論があり、議論になっていくと面白いと思うんだけど。

九龍 F/Tは演劇の芸術性や社会性を重視するフェスであることは重々承知の上で、公募枠でもひとつくらいはオーセンティックな演劇で社会と対峙している劇団が選ばれてもいいんじゃないかなって思ったりはしました。いま現に社会で起きてることを演劇で扱おうとするときに、ドキュメンタリー的にならざるを得ないということはある。でもそれを踏まえた上で、もう一度イリュージョンを召還するにはどうすればいいのか。僕は先ほど言ったとおり、飴屋さんの「霊性」というのと「ゲーム性」という方向性を二つ見ていて。ある意味、Port Bは演劇の持っている遊戯性を「社会を考えるためのゲーム」に変換してきた。実際に社会について考えたり、変えるためにはどうすればいいのかということに演劇が関わっていくとすれば、そこは重要だと思います。いやー、Port Bもマレビトの会もなんで見逃したんだろう……。いまからでも時間を巻き戻して見たいぐらいです。

萩野 演劇は見逃すと、映画みたいに二番館でかかってくれたりしないですからね。

九龍 それが一番の演劇のドキュメンタリー性ですよ(笑)。

フェスティバル/トーキョー12

会期|2012年10月27日-11月25日
公式サイト| http://festival-tokyo.jp/

プロフィール

九龍ジョー くーろん・じょー
ライター/編集者。『KAMINOGE』『Quick Japan』『CDジャーナル』『音楽と人』『シアターガイド』『宝島』の各誌にて連載中。編集近刊は、岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』、吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』、坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』。

夏目深雪 なつめ・みゆき
批評家、編集者。対象はおもに映画と演劇だが興味はダンス、思想、文学と幅広く、「批評」と「編集」によって世界を切り取ろうと奮闘中。共編書『アジア映画の森―新世紀の映画地図』(作品社)。またもやアジア映画本鋭意編集中。

萩野亮 はぎの・りょう
本誌編集主幹。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー 現代日本を記録する映像たち』(フィルムアート社)。演劇関係の文章に、「人は本のように存在している―マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』」http://studiovoice.jp/?p=33058 がある。