プロジェクトとしての映画
先日、バンコクから25キロほどの郊外の町サラヤにある、タイ国立フィルム・アーカイヴを訪問してきた。設立者のドーム・スックウォンさんとディレクターのチャリダ・ウアバムルンジットさんに面会し、アーカイヴ内の施設を見学するためだった。おもしろいことに、50年代から60年代に活躍して海外でも評価の高かったラット・ペスタニー監督と、すでにアピチャッポン・ウィーラセタクン監督のセクションには大きなスペースがさかれていて、現地ではこの2人が歴史的にみてもタイ映画を代表する映画作家となっていることがわかった。ところが、いまの政権下の検閲では、アピチャッポンの『光りの墓』は一般公開がむずかしいというねじれた状態にある。
アーカイヴの博物館に展示された、アピチャッポンが『真昼の不思議な物体』で使用した16フィルムのカメラ、『トロピカル・マラディ』で撮影した虎の絵画の実物を見ると、少しちがった角度からアピチャッポンの映画が見えてくる。特に『ブンミおじさんの森』(10)で使用された猿のような精霊の着ぐるみには感心した。それが精巧にできているからではなく、その反対に、まるでその辺りのコスプレ商品のように安っぽい素材でつくられていたからだ。このことは、2つのヒントを与えてくれる。1つは、彼が妖怪や精霊のような超自然の存在に対して、フィギュアや玩具に対するような即物的で現代アートに近いアプローチでのぞんでいること。もう1つは、アピチャッポンが撮影の対象となるものを映画のなかではっきり見せないことで、いかにその周囲に謎めいた雰囲気をかもしだすことに巧みであるかということである。
※タイ国立フィルムアーカイヴ(撮影筆者)
それで思いだすのは、『ブンミおじさんの森』の後半部分で、この猿の着ぐるみに対して兵士が首をひもで縛ったり、少年たちが石を投げつけたり、着ぐるみのファスナー付きの胸部を見せて兵士たちと記念写真をとっている光景が、スチル写真で挿入されていたことだ。それまで非常に謎めいた撮り方をしていたのに、一方であっけらかんとその手の内を明かしてしまうのは、どういうことなのか。
『ブンミおじさんの森』という長編映画も、短編映画、映像イスタレーション、写真集などの製作を含む『プリミティブ』と呼ばれるプロジェクトのひとつにすぎない。アピチャッポンはかつて共産主義者の虐殺がおこなわれたイサーンのナブア村へ入り、そこで映画を撮影するだけでなく、地元の少年たちとコラボレーションをして、さまざまなフォーマットの作品をつくった。これらの写真もその成果物ということができる。いわば『ブンミおじさんの森』をつくる過程におけるメイキングの部分が、写真という形式ではあるにせよ、本編の内部に入れ子状に組みこまれているのだ。
これはその後の『メコンホテル』(12)という中編映画に使われた手法と似ている。ここには、これまでの映画で考えられたこともなかった先鋭的な手法が使われている。もちろん、この映画はどのように見られることも許容し、観客が想像するための余白がたくさんある映画だ。だが、野暮を承知で説明すると、『メコンホテル』には何の説明もなく、映画内映画としての劇映画とそのメイキング・ドキュメンタリー、そして俳優たちが立ち話をしたり、インタビューをされたりしているシーン、また映画の背景音楽を収録シーンが混在しているのだ。
ラオスと東北タイ(イサーン)の国境を流れる、悠々たる大河メコンが、この作品の背景である。河のかたわらに人気のないホテルがあり、今そこで撮影隊が何か映画のリハーサルのようなことを行なっている。だが、本気になって映画を撮ろうとしているのかはわからない。誰もがひどくのんびりとしていて、河を見下ろす広々としたバルコニーや通路で無駄にお喋りをしたり、ギターの音合わせをしているだけのように見えるからだ。フィルムはこのリハーサル光景と、そこで演じられた物語とを交互に、というより意図的に混ぜ合わせる形で展開してゆく。
(「アジア映画に接近する、いろいろな方法」四方田犬彦著『アジア映画で<世界>を見る』所収)
この映画の撮影地は、タイ東北部のノーンカイである。ラオスでは1975年にいたるまで、王家を中心とした中立派、軍事クーデターをおこした右派、そして左派の三派によって内戦がつづいた。ノーンカイからメコン川の国境をはさんで、ラオス側のヴィエンチャンから多くの難民が押し寄せてきた歴史が、この映画の俳優であるジェンジラー・ポンパットの語りで開示される。
ホテルのバルコニーに少年がいて、このあいだ飼い犬をピーバップに食い殺されたと語っている。ピーバップは人間の生肝を貪り食う妖怪で、見つけ次第、土壺に入れて封印しなくちゃいけない。少年はこの話を、どこかからやってきた、まだよく知らない少女にむかって話している。(…)
少女は母親といっしょにホテルに滞在している。ラオス生まれの母親は、子供のころから銃をもたされ、国家の裏切り者を処刑する手伝いをさせられてきた。ライフル銃は撃ったときの反動がすごくてねと、彼女は娘に笑いながら思い出を語る。ラオスからタイへ難民として渡り、バンコクに流れた。知り合いには、ラオスでとてもひどい目にあった人もいた。
あるときホテルの一室で、母親は少女にむかって涙ながらに語る。自分はピーバップとして蛮行を続けてきたと告白する。こんな人生を歩んでしまったことは、憎んでも憎み足りない。「ママ、土壺に戻ってなくちゃ、だめじゃないの」と娘がいうと、母親は「壺は割れちゃったのさ」と答える。別の場面では、母親は口の周囲を血だらけにし、死んだように寝台に横たわる娘の内臓を貪り食っている。(「アジア映画に接近する、いろいろな方法」)
上記は『メコンホテル』という取りつくしまのない映画を、見事に言語化している文章なので、興味のある人は原典にあたってほしい。四方田犬彦がここで指摘しているのは、イサーンの伝説とタイの大衆的な怪奇映画をベースにしている『メコンホテル』を、日本の観客が見るには、それなりに現地のローカル映画に知悉している必要があるということだ。つまり、この映画は見る者の教養を試してくるところがあり、タイ国外の多くの観客が「わからない」とさじを投げる一方で、「わからないからこそ、わかりたい」とイサーンにおける民間信仰や伝承にふかく分け入りたいと思わせ、タイの怪奇映画を見て勉強したいと駆り立てさせるところがある。
そこにもう1つ、つけ加えたいことがある。『ブンミおじさんの森』という長編映画を内に含みながら、そのメイキングや派生した短編作品などが、全体として「プリミティブ」というプロジェクトを形成していた。それに対して『メコンホテル』では、シングルスクリーンのたった1本の映画のなかに、そのようなプロジェクト全体を包含しているのだ。そこではピーバップをめぐる少年、少女、母によるフィクション映画が進行する一方で、映画の撮影隊、素顔の俳優たち、監督の姿、背景音楽の収録のシーンなどが示される。それは映画内映画があるというだけではない。プロジェクト全体が1本の映画のなかで示されており、その1部分として劇映画パートもあるということだ。
かつてアピチャッポンは『ブリスフリー・ユアーズ』『トロピカル・マラディ』『世紀の光』のことを、観客が映画を想像のなかで完成させるために、自分は土台の部分だけを映画のなかで提示する「プラットフォームとしての映画」だと解説した。しかし、『ブンミおじさんの森』から『メコンホテル』にかけては、作家がロケ地へ入ってさまざまに撮影する行為自体を包含した「プロジェクトとしての映画」へと移行していったといえる。これは、いうまでもなく、映画の制度を揺さぶるラディカルな創造である。その根本的なところには、映像言語を個人映画やアートの視点から刷新していくアピチャッポンならでは視点があるのだろう。