【TDFF特別Review】“歴史戦”との闘い最前線――『標的』text 松崎まこと

「反日」そして「歴史戦」。こうした言葉が、いつしか頻繁に、耳に入ってくるようになった……。
 そんなご時世に、思い描いていたライフプランが、一瞬にして灰燼に帰した男がいる。本作『標的』の主人公、植村隆だ。
 朝日新聞記者だった彼は、1991年8月、韓国ソウルへと取材に赴いた。“従軍慰安婦”だった過去を自ら語る、韓国人女性のことを記事にするためである。そしてこの女性は、太平洋戦争の戦時下での性被害について、初めて訴え出た当事者だった。
 植村の記事は、韓国の市民団体が提供した証言テープを元に書かれ、女性は匿名だった。その記事の直後、北海道新聞が同じ女性に独占インタビューを敢行。彼女の名が、金学順(キム・ハクスン)であることが明らかにされた。
 それから20年余。2014年の春に、植村は朝日を辞めて、神戸に在る女子大の教授に転職することが決まっていた。
 ところがその直前、1月末に週刊文春に載った記事が、植村の運命を大きく変える。それは23年前の夏に書いた“慰安婦”記事の内容を、「捏造」だと決めつけるもの。またその記事では、植村の再就職先のことまで、詳らかにされていたのだ。
 植村が教壇に立つ筈だった大学に、多数の抗議メールが押し寄せた。このままでは学生募集に影響が出るとの、大学側の主張を呑み、植村は教授就任を諦める。
 しかし攻撃は、これで終わらなかった。植村が以前から非常勤講師をしていた札幌の大学にまで、脅迫が届く。やがて植村の自宅には、不審な電話が掛かってくるように。
 累は、家族にまで及ぶ。植村の高校生の娘の写真がネット上に晒され、「こいつの父親のせいで、どれだけ日本人が苦労したことか」「自殺するまで追い込むしかない」等々の誹謗中傷が相次いだ。
 先に記した通り、91年の夏に“慰安婦”の記事を書いたのは、植村だけではない。更に言えば、ほぼ同じ趣旨の後追い記事が、数多の新聞や雑誌に掲載されている。
 それではなぜ、23年も前の記事に対して、植村ひとりに、批判の矛先が向けられたのか?なぜ彼だけが、“標的”となったのか?
 本作の監督は、福岡に在るRKB毎日放送の記者だった、西嶋真司。植村が問題の記事を書いた頃、ちょうど特派員として、ソウルに駐在していた。そして西嶋も後追いで、植村とほぼ同じ内容の取材を行っている。
 西嶋は、植村だけが酷いバッシングに晒されていることに疑問を感じた。そして、同じジャーナリストとして、その背景を探っていくことを決意し、本作の製作に取り掛かる。
本作で西嶋は、植村を襲った不測の事態を、淡々と積み上げる。それは、逆襲に転じた植村が起こした訴訟に関しても、同様だ。
 「捏造」と決めつけられるのは、ジャーナリスト生命に関わる問題である。自らの名誉を守る意味もあって、植村は、雑誌の記事で、己に襲いかかってきた者たちを訴えた。
 件の「文春」の記事内で、植村批判のコメントを行ったのは、当時は東京基督教大学教授だった、西岡力。そしてそれを追撃するように、「WiLL」「週刊新潮」「週刊ダイヤモンド」といった雑誌で、「植村の慰安婦記事は『捏造』および『意図的な虚偽報道』である」と断じたのは、ジャーナリストの櫻井よしこだった。
 この2人は以前から、戦時中に日本軍が関与した“強制連行”によって、韓国人女性らが無理矢理に“慰安婦”にされたという主張に対し、否定的な立場を取っていた。そして、こうした報道を行う中心的存在であった「朝日新聞」を、批判し続けてきたのである。
 繰り返しになるが、1991年の“慰安婦”報道を行った者の中で、23年後に植村だけが“標的”にされた。それは彼が、「朝日」の記者だったからである!
 本作は、この構図を明らかにすると同時に、西岡、櫻井による植村≒「朝日」攻撃の背景に存在する、いわば黒幕的な存在を、静かに浮かび上がらせる。それは2度に渡って内閣総理大臣に就任し、特に2012年からは、8年近くに渡って最高権力者の座に君臨した、安倍晋三その人である。
 安倍は若手議員の頃から、歴史教科書や慰安婦、南京事件問題などに関して、否定的な立場を取っていた。内閣官房副長官だった2005年には、「NHK」が制作した“慰安婦”を扱った番組に対し、圧力を加えて番組内容を改変させたとの疑惑が浮上している。
 2012年、2度目の総理の座を掌中にした安倍は、マスコミに対する締め付けを、厳しくする。元々融和的なメディア以外に対しては、抗議やクレームを辞さない政治家だったが、そんな中でも、彼が長年目の敵としてきたのが、「朝日新聞」だった。
 折も折、植村バッシングが起こった2014年、「朝日」に関して、大きな問題が次々と発覚した。詳細は省くが、この年の8月、「朝日」は過去の“慰安婦”報道に関して、吉田清治という故人による、偽証を元に書かれた記事を取り消した。これは「吉田証言」問題と言われ、「朝日」の報道に対する信頼を、大きく揺るがすことになった。
 これに加えて、東日本大震災で事故を起こした、東京電力福島第一原発の吉田所長への聞き取り調書を巡る、「吉田調書」誤報問題。更には慰安婦記事でおわびがないことを指摘した、ジャーナリストの池上彰のコラムを、掲載拒否した事実などが露見する。
 「吉田証言」「吉田調書」「池上コラム」は、不祥事の“3点セット”と呼ばれた。そして当時の「朝日新聞」社長は、辞任に追い込まれたのである。
 それにしても、安倍の2度目の総理在任期間に、主に自失とはいえ、次々と大問題が発生。「朝日」が大ピンチに陥るとは、あまりにもタイミングが良すぎる。
 本作に於いて詳しく描かれていることではないが、2014年はまた、「歴史戦」という言葉が生まれた年でもある。これは、学術用語などではない。産経新聞が、キャンペーン記事のために捻り出した造語だ。
 この“歴史戦”が主なターゲットとしたのも、ズバリ“慰安婦”だった。「産経」サイドは、長年「朝日」が中心となって報じてきた“慰安婦問題”は、そもそも「捏造」であり、国際社会に於ける日本の地位を貶める役割を果してきたと、指摘。
 「産経」は「朝日」を、「反日」の首魁と見なし、敢然と“戦い”を挑むという構図を打ち出したわけである。「産経」と親和性が高いとされる、安倍政権の姿勢に、まるで呼応したかのように。
 そうしたわけで2014年は、植村隆の人生が、大きく暗転するのと同時に、彼が記者生活を送ってきた「朝日新聞」に対して、安倍政権が決定的な勝利を収めた年と言えた。
2017年11月、アメリカ大統領に当選を決めたトランプを訪ねた安倍は、初会談でこう切り出したという。
 「あなたはニューヨーク・タイムズ(NYT)に徹底的にたたかれた。私もNYTと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った……」
 安倍にとって、「反日」勢力を象徴する「朝日」をねじ伏せたことが、よほど自慢だったのか?
 そんな安倍が、韓国出自の「反日」カルト教団「統一教会」との癒着が引き金となって、まさか斃れることとなるとは…。
 一方、安倍の尖兵のような働きを見せた、櫻井と西岡に関しては、昨夏に韓国発で、衝撃的なニュースが流れた。MBCテレビの看板報道番組「PD手帳」が、2人が韓国の公安組織である「国家情報院」と連携し、スパイ的な役割を果していると、報じたのである。
 こちらは日本国内ではほとんど取り上げられなかった上、続報がないので、真偽ははっきりしない。しかしこうなると、彼らが猛攻撃を仕掛けた「反日」とは、一体何のことだったのか?首を傾げざるを得ない。
 本作で描かれるように、植村の裁判闘争は、彼にとって不本意な結末を迎える。まるで司法の場まで、政権の毒が回っているかのように。
 しかし現在、反権力を標榜する、今や数少ないメディアになってしまった、雑誌「週刊金曜日」発行元の代表取締役となった植村の戦いは終わっていない。本作『標的』で描かれた戦いは、時々刻々とアップデートされていく……。

【映画情報】

『標的』
(2021年/日本/ドキュメンタリー/90分)

監督:西嶋真司
内容紹介:朝日新聞記者・植村隆は1991年8月、元慰安婦だった女性の証言をスクープ。それから23年後、記事は植村の捏造だとするバッシングが右派の論客から始まる。その背景には慰安婦問題を歴史から消し去ろうとする国家の思惑があった。圧力をかけられながらも、立ち上げる植村と市民たちの姿を通し、日本の「負の歴史」の深淵に迫る力作。

12月10日(土)12:20~、12月19日(月)12:30~、東京ドキュメンタリー映画祭にて上映!

【執筆者プロフィール】

松崎 まこと(まつざき まこと)
1964年生まれ。映画活動家・放送作家。早大一文卒。「田辺・弁慶映画祭」MCの他に「日本国際観光映像祭」審査員、Loft9 Shibuyaブッカーなど。オンラインマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」、洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」HP、スカパー!「映画の空」HPにコラムや対談を連載。インディーズ映画ネット配信番組「あしたのSHOW」では構成&作品集め。城西国際大メディア学部講師。
Twitter:@nenbutsunomatsu