【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 「いま東南アジアが熱い!――「アジア千波万波」若井真木子さんインタビュー 聞き手=萩野亮


 1989年、第一回の映画祭ではアジアからドキュメンタリーは一本も上映作がなかった。民主化運動のさなかにあった時代を超えて、やがてアジアン・ドキュメンタリーは千の波、万の波となって世界におとずれた。創設当初からアジアのドキュメンタリー育成をかかげていたヤマガタは、第2回より「アジア百花繚乱」部門を設け、2003年より「アジア千波万波」と改称され、いっそう作品の厚みを増していまにいたる。ヤマガタから中国のワン・ビンや、カンボジアのリティー・パニュらが輩出したことはとくに記しておきたい。

その波はいま、どうやら東南アジアから猛烈なうねりとなっておとずれようとしているようだ。2003年より同部門にたずさわるコーディネイターの若井真木子さんにじっくりお話を伺いました。

(聞き手・構成=萩野亮)

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「アジア千波万波」部門コーディネイター 若井真木子さん

「アジア千波万波」部門コーディネイター 若井真木子さん

|アイルランドから「アジア」へ

――若井さんはヤマガタにどんなふうに関わってこられたのでしょうか。

若井 スタッフとして関わったのは2003年の映画祭が初めてなんですけど、藤岡(朝子)さんがずっと「アジア千波万波」をやっていて、ちょうどアシスタントの方が辞められたときに、わたしが代わりで入りました。映画祭自体には99年に初めて参加して、そのあと字幕やカタログの翻訳を手伝ったりしていて面識はあったんですけれど。

――それまでも映画に関わってこられたんですか。

若井 アイルランドにシネマ・スタティーズの修士で留学していて、映画を作るというよりはドキュメンタリーの理論のようなことを学んでいました。イギリス系なので「カルチュラル・スタティーズ」の流れを汲んでいますね。個人的には、北アイルランドのインディペンデント・ドキュメンタリーの歴史に興味をもっていました。

――2003年から現在までアジア千波万波に携わって来られたわけですが、応募作品にはどんな変化があるでしょうか。

若井 2001年にコンペティション部門でデジタル作品の応募が解禁されたんですが、2003年ごろだとフィルム作品もまだアジアにもあったし、コンペ作品もフィルムが多かった。上映本数も「アジア千波万波」は減ってきているんですね。今年は19本ですが、2003年のころは短篇も合わせると30本をゆうに越えていた。応募数は増えてはいますが、ここ何年かは600本くらいで落ち着くんじゃないでしょうか。ある年からコンペとアジア両方に応募できなくなって、応募者は選択しないといけなくなったということもあります。

『戦争に抱かれて』(アッジャーニ・アルンパック/フィリピン)

『戦争に抱かれて』(アッジャーニ・アルンパック/フィリピン)

|東南アジアが熱い!

――今回とくにコンペ作品に顕著ですが、欧米とアジアの合作が目立ってきているように思います。その一方で、バングラデシュやカンボジアなど、映画産業が成熟していない国からもインディペンデントのドキュメンタリーが現れていますね。

若井 そうですね。合作はおもに大手市場のほうへ行っているかもしれない。バングラデシュ の『みんな聞いてるか!』のカマル・アフマド・サイモンは、長篇は今回が初めてで、広告業界にいた方なんですが、どういうふうに資金を集めてこの映画を作れたのかふしぎです。

ドイツの「ゲーテ・インスティテュート」が主催して、東南アジア各国の大学や映像センターを拠点にしてビデオワークショップをやっています。今年でいえば、ヴェトナムの『ブアさんのござ』(ズーン・モン・トゥー)とか、フィリピンの『愛しきトンド』(ジュエル・マラナン)や『戦争に抱かれて』(アッジャーニ・アルンパック)など、そういう場で初めて映画を作ったような人たちが現れています。ジュエル・マラナンはその先輩格で、各地のワークショップで教えていたりもする。「ゲーテ」を中心に、お互いの行き来があり、緩やかな映像製作や上映のネットワークが作られていて、とても面白そうです。

わたしは去年一年間フィリピンに住んでいたんですが、フィリピン大学と共同で、マニラの「ゲーテ」が東南アジアを横断してビデオワークショップを企画していました。ヴェトナムではハノイ映像センターで開催されましたね。東南アジアからの応募作品の強さは今年感じます。

――いま東南アジアの映像制作の中心になっているのは、やはりマニラということでしょうか。

若井 「ゲーテ」関連のワークショップでいうと、フィリピンはマニラ、ヴェトナムはハノイ、あといくつか各地にあります。キドラット・タヒミックや、今回インターナショナル・コンペティションの審査員として山形にやってくるラヴ・ディアズさんがいらしたり、フィリピンはインディペンデント映画がさかんな国ですよね。住んでみて思った勝手な感覚ですが、作りやすい環境はあると思います。

――リティー・パニュやダヴィ・チュウの映画に描かれていますが、カンボジアはクメール・ルージュ時代に映画産業そのものが殲滅されて、そこからまた少しずつインディペンデントの映画が出てきた。

若井 リティー・パニュさんもそういったワークショップの軸になっていますし、自身がプロデューサーとして製作したカンボジアの若手作家の作品が、山形にもいくつか応募されていました。今回上映する『何があったのか、知りたい(知ってほしい)』(エラ・プリーセ、ヌ・ヴァ、トゥルノ村の人々)は「ゲーテ」とは違うところから出てきた作品なんですけれど、つながっているはずなので、そこらへんのことを山形で聞いてみたいです。

――この作品は、まさにリティー・パニュが描いてきたポル・ポト時代の歴史と記憶を扱っていますね。

若井 イタリア人の監督なんですが、彼女は映像人類学的な観点で、カンボジアに限らずいろんな場所でワークショップを開催したり学校で教えたり、地元の人たちといっしょに映像を作るということをやってきた人です。カンボジア人の若手との共同監督作品なのですが、村のひとたちも監督として名を連ねています。それがなぜなのかは、映画を見てのお楽しみということで。

――ヴェトナムからも、今年恵比寿映像祭でヴィデオアートが出品されたりしていましたよね。

若井 グェン・チャン・ティさんですね。彼女は前回のヤマガタにいらっしゃった方です。前回まさにワークショップで制作した4本の短篇が合わさった作品『柔らかな河、鉄の橋』を上映したんですが、そのプロデューサーを務めた方です。日本に滞在されていて、日本の財団の助成金を受けて制作していました。彼女は東南アジアの映像制作の中心的な人物のひとりだと思います。

『デノクとガレン』(ドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニ/インドネシア)

『デノクとガレン』(ドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニ/インドネシア)

――そういうキーになる人たちがあちらこちらに点在していて、そこにネットワークが生まれている。そのコミュニティというのは具体的にはどういったものでしょうか。

若井 お互いに作品を作るときに実際に関わりあったりしますね。都市の暮らし方も関係しているのかな。割とみんな集まって住んでいます。グェン・チャン・ティさんや、『デノクとガレン』(インドネシア)のドゥウィ・スジャンティ・ヌグラヘニさんも、自分の作品を作りながら、ジョグジャカルタのドキュメンタリー映画祭のプログラミングをしたり、ワークショップをオーガナイズしたり、監督だけをやるわけじゃない。そういうコミュニティができると、自然にそういう発想が生まれてくるのかもしれない。そのあたりの連帯はこれから力になってくるんじゃないかと思います。

――この『デノクとガレン』はどういう作品でしょうか。

若井 デノクとガレンという夫婦の一家の物語。面白いですよ。ムスリムなんだけど、なぜか養豚ビジネスを始めてしまう(笑)。貧しいんですが、「どうしたらこの借金が返せるか」というようなささやかな日常の話し合いや、それを乗り越えようとするたくましさ。この家族にバッチリ焦点を合わせた映画です。

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