いよいよ10/10(木)より開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭2013。1989年に山形市制100周年を記念して誕生した映画祭は、世界中から最先端のドキュメンタリー映画を集めるコンペティション部門と「アジア千波万波」部門、趣向を凝らした特集企画で毎回200本近くの作品を上映し、「ヤマガタ」の愛称でドキュメンタリーファンのみならず、たくさんの人たちに親しまれてきました。
neoneo web では、きょうから開幕まで連日にわたってヤマガタを大特集。その尽きせぬ魅力に迫ります。第一夜となる今回は、ディレクターの藤岡朝子さんにじっくりお話を伺いました。
(聞き手・構成=萩野亮/neoneo編集室)
―
|関連記事
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 「開かれた“場”の可能性—ヤマガタ・ラフカットの狙い」 橋浦太一さんインタビュー
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 「いま東南アジアが熱い!――アジア千波万波」若井真木子さんインタビュー
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 「分かりやすいシステム=ストーリーに寄りかからないために――それぞれの『アラブの春』」加藤初代さんインタビュー
―
|生きる意欲をくれた映画祭
――藤岡さんがヤマガタに関わられるようになった経緯はどういったものだったのでしょうか。
藤岡 わたしが初めてヤマガタへ行ったのは1993年です。面白い映画祭があると聞いて、「行けばきっと元気が出るだろう」といわれたんですね。当時わたしは、ある写真家のアシスタントをしていたんですが、クビになったばかりで、けっこうドン底で(笑)。預金通帳もゼロみたいな感じで「あーもう暮らせない家賃も払えない!」というころだったんです。行けば何か仕事があるといわれて紹介してもらったら、英語ができたので「ミューズ」といういまはない映画館で、会場の案内係をアルバイトで始めました。行きの新幹線ではお弁当を配ったりとか、そういう助監督的な仕事が最初だったんです。
そのときにすごく生き返るような思いをしたんですね。楽しかった。いまから振り返ってみると、ヤマガタには何かポジティブなエネルギーがあって、以前経験した映画配給の仕事と比べて、監督たちと観客とわたしたちとが、すごくフラットな関係でつながれる場所だということに感激しました。そしてそのなかでわたしが役に立てたということ。ここは未来に向かってゆける力のある場所なんだなということを思って、惚れ込んだし、生きる意欲をもらった。映画祭が終わって、感謝したい気持ちでいっぱいになったんです。
それから2年後の1995年の映画祭でアジア部門のコーディネーターをやってみませんか、という話があって、アーロン・ジェローさんといっしょに「アジア百花繚乱」(のち「アジア千波万波」に改称)を担当して、97年からはひとりでやるようになったんです。
――それまでアジアのドキュメンタリーをご覧になられてはいたのですか。
藤岡 ほとんどないですね。ただ個人的にはアジアがとても好きだった。ヨーロッパとアメリカで育ったこともあって、アジアに対するあこがれがとても強くて、東南アジアを旅したりして、アジアの国々の魅力にふれたんです。94年に映画作家のキドラット・タヒミックがフィリピンから来日したときに、通訳としていっしょに旅をしながら周るということをしたりもして、彼にもアジアのドキュメンタリーの魅力を教えられましたね。
――1993年に初めてヤマガタへ行かれたときに、すでにいまあるような非常にフラットな良い関係性があったということなんですが、それは1989年に小川紳介監督が第一回の映画祭に尽力された、そのころからつづいてきたものなのでしょうか。
藤岡 詳しくは当時ディレクターだった矢野(和之)さんに聞いてみてもらった方がいいのですけど、わたしの印象としては、むしろ小川さんが92年に亡くなってしまったからこそできたものなんじゃないかと思ったりします。小川さんという非常に牽引力のある人がいたら、映画祭はまた違ったかたちになっていたかもしれない。カリスマ的なリーダーシップをもった中心的な人がいないということが山形映画祭の特徴かもしれません。コーディネイター同士の関係もフラットだし、わたし自身「ディレクター」という立場だけど、東京国際映画祭やカンヌ国際映画祭の責任者のようなものとはまったく違う。わたしは自分の役割を調整役と考えています。
こういう映画祭のありかたになったのは、ドキュメンタリーというジャンルにも関係してる思います。監督をスター化しない、スタッフや対象者の方たちと対等につき合っていかないと良い映画ができないということが、ドキュメンタリーという方法論のなかにあると思うんです。
――ヤマガタはドキュメンタリーの映画作りをそのまま反映した映画祭であると。
藤岡 そうです。まさにそういうことですね。
―
|アジアのドキュメンタリーを育てる
――映画祭第一回に小川監督が掲げていたことでもありますが、ヤマガタは「アジアのドキュメンタリーを育てる」ということをやって来られたと思います。この20年間のアジア作品の変遷を映画祭の立場からどんなふうにご覧になっていますか。
藤岡 明らかに成熟していますよね。たとえば20年前の当時、わたしは映画を見る素人であったにもかかわらず、作品を選ぶ立場に関われました。「これは傑作だ」というものを探す映画評論家のような人ではなく、映画を学んだことのないわたしが作り手と伴走できました。完成されていないけれど、作らずにいられない衝動のようなものが映っている作品を上映しました。
ところが今、「アジア千波万波」でデビューした監督が、その後もヤマガタに限らずいろんなところで応援されながら作りつづけている。以前までは「いま撮らないとなくなってしまう」「後世のために残さなければならない」というように、現場を伝えるためのメディアとしてドキュメンタリーを作っている人が多かったのが、彼らが「映画的なもの」を発見して成熟していっている。今年も「アジア千波万波」が輩出したソーラヴ・サーランギやキム・ドンリョンといった作家たちがコンペティション部門にノミネートされていますが、彼らの成長の背景にヤマガタもあるかと考えると嬉しいです。「アジア千波万波」のほうは、今年は新人監督ばかりですから、アジア・ドキュメンタリーが世代を重ねて変遷してきている、のはたしかですね。
――「アジア千波万波」のコーディネイターの若井真木子さんにも伺ったのですけれど、いま東南アジアがものすごく面白いと。新しい映画のコミュニティが各地にできていると聞きました。
藤岡 95年くらいのころは、みんなそれぞれの国でぽつぽつと孤独に闘っていたのが、いろんなワークショップや、とくに映画祭ですね、そういう場でお互いにいろんな作品を見たりする場ができてきたことは大きいですね。東南アジアでは、個々の作家のやる気にプラスして、たとえばEUが資金を出して東南アジアの映画をネットワーキングさせたり。ASEAN共同体が実現する2015に向けてヨーロッパの公的資金が降ってきていたり。そうした流れと作家たちや上映者たちの動きが連動して、いま大きなうねりになっているのかなと思います。
――EUから資金が降りているという話がありましたが、今年のコンペティション部門のラインナップを見ていても、欧米とアジアの合作というのが非常に目立ってきているように思います。
藤岡 その背景にはふたつあると思います。作り手自身がヨーロッパに資金を求めてゆく、たとえばソーラヴ・サーランギの『チョール 国境の沈む島』もこれだけの国名がならぶわけです。こうした国際共同製作がどうして可能かというと、いろいろな資金に応募して現地でピッチ(投資家へのアピール)をして各国の公共資金が得てゆくような、国際的プロデューサーがいるからです。
――昨年来日されたフィンランド公共放送YLEのイーッカ・ヴェヘカラハティさんのような方ですね。
藤岡 そうです。それと欧米のほうからも、たとえばインドなんかに出かけてさかんにピッチング・ワークショップをやり始めている。欧米のドキュメンタリーを支えてきた知識人たちが、アジアの作家を育成しようという思いになってきているんだと思います。なかなか日本までは来ないんですけれど(笑)。コラボするには語学の問題も大きいかな。それと日本の作り手たちは、ほかのアジア各国と比べると、すでに日本国内で劇場公開ができる道筋が立っていて、発表できる場がふんだんにある。海外との共同作業を求めていく必要性をほとんど感じていないんだと思います。だから今回の「ヤマガタ・ラフカット!」プログラムが何かの始まりの場になるといいなと思っています。
――山形映画祭が歩んできた20数年というのは、アジアのドキュメンタリーが成熟してゆく過程とぴったり重なると思うんですね。デジタル化を得て技術的に可能になった部分と、民主化運動が映画に「声」をあたえていった部分がものすごくある。そうして成熟したアジアのドキュメンタリーに欧米が投資するようになったと。
藤岡 その通りだと思います。カンボジア出身のリティー・パニュも「ボパナ・センター」という場所をプノンペンに作っています。カンボジア文化庁の建物のなかにあるんですが、彼がフランス政府の資金をもってきたりしている。カンボジアの映像保存と若手育成に関して、彼の力は大きいですね。
台湾では戒厳令が解除された直後に野心的な作家と作品が出てきました。台南の芸術学院にドキュメンタリー専門の大学院ができたころにひとつのドキュメンタリー運動が巻き起こって、前回の映画祭でも特集した99年ころの台湾のドキュメンタリーというのはとても面白かったんです。それがいまは円熟してしまって、ある種の商業主義も含め、政治状況の安定が「撮ることの必然性」を作り手から奪ってしまっている、あるいは彼らが受け入れてしまっている状況がある。
ドキュメンタリーというのは、「作りたい」という作者の思いが作らせる領域でもあると思うんですよね。ある社会の動乱期があって、それを乗り越えて未来に向けて何かしてゆこうという思いで作る人たちの映画というのはとても魅力的なものをもっている。それを常時つづけてゆくことの困難を、とくに近年の台湾の映画状況からは感じますね。
一方では欧米との良いつながりの面もさっきお話しましたが、逆にいうとヨーロッパのプロデューサーが作家たちの個性を失わせている危険な面もある。今回「6つの眼差しと倫理マシーン」のプログラムで『北京陳情村の人々』の全長版を上映する中国のチャオ・リャンは、フランスのプロデューサーを得て、カンヌや東京フィルメックスで上映された2時間版を作ったんだけれど、そうではないほんとうに自分の作りたいものを5時間のディレクターズカットとして作らざるをえなかった、そのプロセスには象徴的なものがあると思います。
――チャオ・リャンはフランスでDVD-BOXも出ていますね。わたしも持っています(笑)。
藤岡 えー、すごい!(笑)アニメーションを使ったり、短篇が奇妙で面白いよね。監督も来るからぜひインタビューしてあげてください。
――「DVD-BOXを買った」と伝えたいと思います(笑)。話を少し戻しますが、これまでとくに中国の作品に3時間を越えるような大作化傾向があったのが、近年はどんどん小ぶりになっている印象をもつのですが、これはいまおっしゃった欧米の資本が入ってきたことと関係しているのでしょうか。
藤岡 そうですね。一般的には誉められる傾向なんでしょうね。どこの映画祭に行ったって、「観客が見やすいほうがいい」という。ヤマガタではそういう商業的な配慮には「どうなの?」と多少世間一般とはズレた懸念をもつんだけど(笑)。
(Page2へ)