【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[初日:10/10 THU]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[2日目:10/11 FRI]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[3日目:10/12 SAT]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[4日目:10/13 SUN]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[5日目:10/14 Mon.]
映像を見る機会に立ち会う 岩崎孝正
いよいよ山形国際ドキュメンタリー映画祭もいよいよ大詰めをむかえる。残すのはあと二日である。私も毎回レポートをあげているが、どうやら完走するのは無理そうな気がしてきた。力が欲しい。ゲストリストに知った名のある関係者とも、一度もすれ違わない場合もある。とくに若木さんなど会わずに久しい。
15日は、「フォントンジュ」の後、「ヤマガタ・ラフカット」の高橋亮介監督、池田将監督、田中圭監督、阿部正子監督、プログラムコーディネーターである大木裕之監督と痛飲した。ゲストや関係者と同じ目線で交流が出来る場は香味庵以外にもあった。招いてくれて本当にうれしい。力をもらった(ちなみに二次会は香味庵)。
実は、『選ばれた物語』とともに上映された大木監督『SSS―YAMAGATAMIX』を私は見ていた。
大木裕之監督
大木監督はエジプトのピラミッド、街並みを振りきれるほどのパンと、さまようようなカメラで撮影する。オーバーラップの手法をとりいれた映像は、私たちのイメージにしか映らない「アラブの春」をかく乱する。私は大木監督の作品をこれまで一度しか見ていない。それもオムニバス映画「BETWEEN YESTERDAY&TOMORROW」の短編集のなかの一つだ。作品をもっと見る機会があればうれしい。
『やまがた/映像の民俗史』の「黒川能」「王祇祭」「おがれおがれ」「オナカマ」は、清滝章さんの撮影した貴重なフィルムだ。私たちは見る機会が少ない。「黒川能」「王祇祭」は、1954年という、まだフィルムがシンクロ(同時録音)出来なかった時代の映像である。私はその上映の場に立ち会うことにより、不思議な臨場感を感じた。それは、祭りの臨場感に似ている。「黒川能」は鶴岡市黒川地区の伝統的な能の祭。「王祇祭」は夜通し行われる伝統行事だ。
「おがれおがれ」「オナカマ」は8ミリフィルムをビデオにおこした映像であった。尾花沢市銀山温泉の「おがれ講」、中山町岩谷地区でおこなわれていた「オナカマ」の例大祭行事を記録した。
観る者と観られる者の織り成す不思議な緊張感は、いくら演目が変わっても、今後とも変わることはないのではないか。だが、存続が危ぶまれている伝統行事、祭りがいかに多いのか。私は(伝統)芸能を伝えていく難しさもともに感じたのだ。
モスバーガー・パン・いも煮 萩野亮
朝8時、メキシコの映画祭ディレクターのエドゥアルド・トマスさんとモスバーガーで朝食。トマスさんとは昨年、山形映画祭の藤岡朝子さんと濱治佳さんの紹介で、東京でお目にかかっていた。トマスさんは日本のドキュメンタリーに関心をもたれていて、とりわけアニメーションとの交渉についてと、弁士以来の日本映画のナレーションについて興味があるとおっしゃっていた。その彼が、ヤマガタに行くからぜひ会いたい、と云ってくれたのだ。
メールのやりとりがうまくいかず、彼が東京に出立する直前の朝食時間しかとれなかったことがほんとうに惜しいけれども、片言の英語で、いろいろと話ができてとても有意義な時間だった。
チェックアウトして、そのまま午前のスクリーニングへ向かう。「6つの眼差しと倫理マシーン」のプログラムより、『被写体』model。スペインのある町の底辺で暮らす物乞いの男を撮りつづけた作品だが、このフィルムが問題的なのは、その「被写体」と徹底して金銭のみを介した関係性で紡がれているからだ。被写体は1ユーロ、2ユーロの小銭を乞い、作者はそれをときに拒否しつつ、インタビューの折などにはすべて金銭を介していたという。この「倫理マシーン」プログラムでは、ドキュメンタリーがひとつの中心的な命題とする作者と対象との関係性=倫理を再考するものだが、『被写体』はまさにそれをミニマルで挑発的な思考実験として作品化している。
上映後には、ブエノスアイレスのヘルマーン・シェールソ監督がスカイプでティーチイン。このフィルムを「被写体」の男性は見たのか、という会場からの質問に対し、「いっさい見せていない」と回答。「彼とわたしはまったく別の世界に生きており、彼がこの映画を理解できるとは思わない。ドキュメンタリー制作者は、ときに被写体に素材を見せることでカメラを向けることの罪悪感を軽減しようとする。そうしたことには注意しなければならない」。
映画は結末、1ユーロ硬貨に描かれたダ・ヴィンチによる理想的な人体モデルと、それとはあまりに隔てられた全裸の「被写体」modelを重ね合わせる。ダ・ヴィンチの時代には、映画の原型としてのカメラ・オブスクラとその人体モデルとは、まさに理想的なカップルをなしていた。しかしドキュメンタリーの現場は、たえずそうした「理想」を、作者と対象者とが相互に裏切ってゆくものにほかならない。このプログラム、もっと見ておけばよかった。
–
午後はクリス・マルケルを三本見て、「ヤマガタ・ラフカット!」へ。第5夜は、阿部正子監督がフランスの美しい過疎の村を記録した『フォントンジュ』。かつてパン屋だったおばあさんが、うれしそうに焼き窯を案内するところから始まるこのラフカットは、異国情緒とうしなれてゆくものへの哀惜につつまれている。けれども、作者の立ち位置が明瞭でなく、せっかくの素材が生きてこないもどかしさもあった。
上映後のディスカッションでは、パンとワインがふるまわれながら、まさにその点にきびしい意見が飛び交う。パン好きのわたしは、「パン」という対象の魅力について意見し、映像と音声(語り)とがふいにシンクロがはずれるかのようなカメラワークにおもしろさを見て、それについてもつけくわえた。ラフカットには、完成された映像からはときにこぼれおちてしまう偶然が発見されることがある。映像と音声とが異なる時間と空間をもっていることを、その短い映像から感じ取れたことはとても面白かった。
この後、会場からも数かずのパン好きが発言。おばあさんがもう一度パンを焼くすがたが見たいとわたしは思った。ぜひ素敵な作品に完成してほしい。
人もまばらになった香味庵で今年はじめて名物の「いも煮」にあずかり、なごり惜しくもひと足先に山形を出立。東京には台風がせまっていた。
映画を観れず 佐藤寛朗
この日は「neoneoメールニュース」の更新があったので、映画が観られたのは午前中の1本。しかも、萩野さんと同じ『被写体』だった。同じ時間帯の『略称・連続射殺魔』(監督:足立正生)なども気になったが、目下私の関心は<倫理マシーン>のプログラムに向いていた。
スカイプによる質疑応答の最後で、わたしもヘルマン・シェールソ監督に質問をぶつけてみた。結局、彼には何ユーロ支払ったのか。聞くと、100ユーロぐらいだと言う。
なるほど、その程度であれば制作費としてはさほど高くないかもしれないが、インタビューにおいては下世話な内容の会話を彼と繰り広げていたので、結局、監督は作品をみせたという彼女を失い、映画の舞台になっているインターネット・カフェも首になったそうだ。作品作りの代償は、金銭以上に高くついたのかもしれない。
3連休が終わり、人も減ったかと思いきや、この日も各会場は意外に賑わっている。
香味庵に行くと「今日から来た」という人に結構会った。最終日には受賞作品が一挙に上映されるので、それを目あてに山形入りするひともいる。近年できた、新しい流れである。