カメラを抱えて単身、震災の被害を受けた三陸・福島へ。2011年から2年にわたって東北へ通いつづけた写真家と人びととの出会いは1200を数え、453点のポートレートとなって写真集に編まれた。そのすべてが人びとの全身を収めた同じ構図で撮影され、数行の覚え書きが添えられている。この488にわたるページの束は、被災地で逡巡しつづけた写真家自身の肖像でもきっとあるに違いない。
年の瀬のせまる冬の日に、写真家・田代一倫さんにお話を伺った。あわせて、本書がはじめての刊行書籍となる里山社を立ち上げたばかりの編集者・清田麻衣子さんにもご同席いただいた。
聞き手・構成=萩野亮(neoneo編集室)、影山虎徹
|いままでもずっと人を撮ってきた
――東北の被災地を記録され始めた経緯からお伺いいたします。
田代 最初はもう「行きたい、見たい」という一言なんです。大島洋さんが田老を撮られていた写真を震災の一週間後に福岡で見たんですよ。それで、写真に写っているこの町が全部なくなったんだよ、という話をしていて。そのとき韓国の南のほうと福岡の写真をずっと撮っていたんですが、すでに撮影の日取りを決めたりしていたので、地震のあとも帰ってつづけることにしました。けれど福岡から報道を見ていて、東北のことはずっと気になっていた。
東京にずっといたら、もしかしたら行かなかったかもしれない。でも、距離が離れていた分、いろんなことが考えられるようになっていたんですね。それで撮りたいと思うようになりました。そのころ「自粛」だとかいろんなことがいわれていたので、それでも迷ってはいたんですけど。
――被災地から離れていることもあって、町の人の関心の向け方も東京とは違ったのではないですか。
田代 九州でもずっと人を撮っていたのですが、高校生が募金を呼び掛けているか、コンビニに募金箱が設置されているか、それくらいしか「震災」を感じることはまずなくて、それ以外はふつうに日常生活がつづいている。飛行機でちょっと移動しただけでこんなにも受け止め方が違うのかと思って、東京の何か過剰な感じもいやだったんですけど、九州人のノーテンキさというのもちょっといやだなと思って。
――被災地へ行くかぎりは、当然カメラを持って行かれたのだと思います。ただ、「行く、見る」から「撮る」へはひとつ大きな段階があったのではないでしょうか。
田代 行くなら撮ろう、と思っていました。それでカメラを持って、最初に山間部の遠野でいったん泊まったんです。そこで沿岸部の被災地へ行くかどうかを迷った。それで、行ったはいいもののあまりにすごい状況なので、撮るか撮らないかはまだ決めあぐねていました。
通って3日目くらいからですね、写真集のなかにもありますが、おばさんたちが楽しそうに井戸端会議をしている、その人たちの話を聞かせてもらって写真を撮ったのが最初でした。目の前に波が来て、家の前で電信柱にぶつかりながら引いて戻って、ということをおばさんたちは笑いながら話していたんですね。それを見て、あっ、撮りたいなと思いました。
――これまでもずっと人を撮られてきたわけですが、被災地のこれだけの風景の変化があるなかで、なお「人」を撮ろうと思いつづけられたのは。
田代 いままでも人を撮ってきたし、震災があって人を撮れないとしたら、これまでの自分の写真を否定することになるんじゃないかと思ったし、そういうことに対応できない写真家なんて、僕はちょっと違うなと思ったんです。
最初におばさんたちを撮らせてもらったときに、やっぱり「人」を撮らないといけないなとあらためて思いました。人を撮っていると、「いやだ」とか「いいよ」とか、直接の反応がある。良いことも悪いことも全部自分にはねかえってくる、そこに想像力はいらない。それが自分の性格に合っていたし、とても写真的なんじゃないかと思った。ただそれは途中から気づいたことで、ひとり撮ったら止まらなくなったというのが本当のところです。
――人びとのさまざまな直接の反応が「写真的」というのは?
田代 本のなかでも何度も「暴力的」という表現を使っているんですけど、「ひどいことをしているな」と感じることが本当に多くて、とくに写真は一瞬を切り取るものなので、動画で撮るよりもさらにイメージをかんたんに操作・固定しやすい。そういうことを感じるのは、やはり「人」を撮っているときなんです。
|あえて「平凡」に撮る
――2年にわたって通われながら、1000人以上の方を撮影されています。おどろかされるのは、最初からスタイルが一貫しているということです。タテ位置にフルショットで人物が収められている。2年という時間のなかで、人びとへの感じ方も変わっていったと思うのですが、なおこのスタイル=距離を守られたのは。
田代 最初はもう反射的に「こう撮った」としか言いようがないというか。アップでも何度か撮ったんですが、やっぱり何かしっくりこない。九州で撮っていたときから全身を入れることが多かったんです。さっき言った「イメージの操作」ということとも関わりますが、極端なことをいうと、たとえば目のクロースアップのほうが写真から受けるインパクトは強い。でもそれはその人の一部を切り取って、自分が伝えたいことに近づける、利用するという方向へ傾いてゆくことでもある。全身で撮ったってそこまで変わりはないと思うんですけど、なんとなくそういうことから遠ざかりたいということがありました。いちばん平凡に撮って、自分の立ち位置を変えていくほうが、伝わりにくいし難しい。だけどあえてそれをやってみようと思ったんです。
――同じスタイルで人物を撮られているだけに、2年という時間の背景の変化がより際立って感じられます。
田代 構図は平凡ですし、撮る位置も「その人が立っているところ」で撮っています。唯一気にしていたのが背景なんですね。背景をどう写し込むかでだいたいの画角も決まります。でも目の前の人に一生懸命なので、撮りながら背景の移り変わりというのはそこまで感じていなかった。人の表情の筋肉の動きや声の出し方、立ち居振る舞いのほうが僕は気になっていたので、背景と人とがいちばんよく写るように、と気をつけていただけですね。
――おひとりの方にどれくらい時間をかけられているのですか。
田代 それもまちまちで、急いでいる人は数カットで終わります。とくに積極的に話しかけたりはしないんですけど、話したい人もいらっしゃって、そういうときはじっくり長く聞くようにしますね。流れにまかせて、立ち話を2時間することもあれば、撮って会釈だけで通り過ぎることもあります。
――そこがとても面白いところだと思うんですね。ほとんどの方が何か「動作の途中」で、そこに人間のとても具体的な暮らしぶり、具体的な時間の積み重なりがあると感じます。
田代 僕もそれはぜんぜん意識をしていなくて、一年くらい撮影したときに「作業している途中の人」が写っているな、ということにあらためて気づいた。なるべくじゃまにならないように、できるだけそのまんまの人を撮りたいと思ってやっていたことで。
――このシリーズは、「作品」というよりはやはり「作品群」だと思うのですね。これだけの量としてまとめられたのは。
田代 もともとは発表することすら考えていませんでしたし、ひとり撮ると、ふたり、三人となって、もっと撮らないといけないような気もちになってくる。自分の責任とかいろいろ考えるようになると、東京での生活が「生活」なのではなくて、東北で撮っていることが「生活」のような考えになってきて、時間ができたら行くという一種の脅迫観念のような、「行きたい」と「行かなきゃいけない」の両方の気もちが出てきて、気がついたらけっこうな量になっていました。発表するという段になったときに、あらためて「作品」として考えると量を意識するようになりましたね。
|暮らしの一部に「被災」がある
――これは決して場違いでも不謹慎でもないと思って言うのですが、今回の写真集はすごく「楽しい本」だと思うんですね。もちろんこの数百の写真の内にも外にもはかりしれない悲しみや苦しみがある、けれどもこの本がそれでも楽しいのは、人の暮らしはどんなときでも決して笑いや可笑しみを失ってはこなかったということを、はっきりとつかまえているからだと感じます。
田代 震災、震災、と言われているなか、「いわゆる被災者」として撮りたくないなと思っていたんですね。それはことばにすると「ヒューマニズム」だったりする。「生活の一部に被災という現実がある」というほうが、僕にとってはよりリアリティがあった。途中から、直接には関係のない話のほうが、人生において被災を引き受けている、ということが見えてくるんじゃないかと思い始めたんです。暮らしのなかの一部に「被災」がある、それを撮ることが自分のやりたいことなんだと気づいたんです。
――その暮らしのなかにある可笑しみは、絶妙なキャプションに込められてもいますね。これは最後にまとめてつけられたのですか。
田代 そうです。撮っていて、発表することさえも決めていなくて、2012年3月11日をまたいで銀座ニコンサロンで「リメンブランス(remembrance)3.11」という企画展があって、そのときに初めてキャプションを思い出しながらつけたんです。その後は季節ごとに発表する機会があったので、そのたびに。撮影中はメモも取りません。その都度書こうとして、文字にすると何か違う感じになっちゃうんですよね。だからそのときの天気や空気なんかを思い出しながら書くほうがしっくり来て。
――ギャラリーで大きな写真を見ていて感じたことがあります。いままでわたしは、カメラというものは、目の前にいる人や風景を記録し肯定するものだと思ってきたんですね。ところが田代さんの写真を見ていると、むしろ対象となる人びとが写真家を肯定しているんだ、そのように強く感じました。倉石信乃さんが「黙契」と評された、その実質はそういうことなのではないかと。
田代 大島洋さんもそういうことをおっしゃってくださって、それで初めて意識したくらいで、撮っているときはそういうことはまったく考えていなかったですね。ただ、写真集にするときに、清田さんから「(出版の)許可を取ったほうがいい人もいるんじゃないか」という話が出て、僕としては信頼関係があるからそれは必要ないと言ったんですね。けっきょく取りに行ったんですけど(笑)、みなさん「いいよ」と言ってくれた。再び会いに行ったときに、自分が感じていた信頼関係を少しは感じてくれていたんだなと思いましたね。「近所の兄ちゃんと再会する」くらいの感じでみなさん接してくださいました(笑)。
被災地のなかでも都市部と田舎では違いますね。田舎では「取材されるだけの被災をした」ということを認識されていて、だからすんなり写真も撮らせてくれる。ところが都市部では「写真を撮って何に使うんですか?」と聞かれます。田舎ではそういうことを引き受けていらっしゃるということもあると思いますし、「こいつにだったら一枚ぐらい撮らせてやってもいいかな」という感じもあるんじゃないかなと(笑)。
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