【Interview】世界を新たな目で見るために――『リヴァイアサン』ルーシァン・キャステーヌ=テイラー & ヴェレナ・パラヴェル監督に聞く text 萩野亮

(c)Arrete Ton Cinema 2012

|To see the world anew――世界を新たな目で見ること

――『リヴァイアサン』は、当初高精細なカメラで「きれい」に撮られていた(結果的にそのカメラは海に呑まれてしまう)、その当初の映像は気に入っていなかったと聞きました。「きれいに撮られた映像は、観客に権力を与えてしまう」と。それは観客が人間としての安定的な視点を得てしまうという意味でしょうか。

LCT 当初のカメラで撮っていたのは、「超ハイディフィニション」というような映像ですね。きちんとした構図で、多くの場合三脚に乗せて、「シネマヴェリテ」のような距離感がきちんととられているような映像だったと思うんですね。その既存の美学に基づいた陳腐ともいえる映像は、醜いものだとわたしは思ったんです。それでは海について何も語っていない。なぜかというと、あまりにも多くのディティールを持ちすぎていて、誰もが予想できるような映像だったからです。安定した構図が、見るものと世界との距離をつくりだします。観客は世界をフレームのなかで見ているような安心感をもつでしょう。それはまるで、ハイデガーが近代について語っていたように、絵を遠くに置いておくことで自分の身体を守るというようなことです。わたしたちはそうではなくて、身体を絵にぶつけていきたかった。そして、絵が壊されていくような、そういう体験をつくりたかったんです。

――いまのお話は、『リヴァイアサン』の中枢をなす美学=感性についてのものだと受け取りました。おふたりの所属する「感覚民族誌学研究所」というラボが興味深いのは、人類学とメディアに加え、美学がそこに加わっているということです。おふたりがめざす美学=感性についてお聞かせください。

VP (ルーシァンと顔を見合わせて)あなたが言おうとしていることは間違いなく100%わかるわ。でもわたしは英語ではうまく言えないからここに書いておくわね。あなたが話したあとに見せるから。

LCT (しぶしぶ話し始める)……「美学 esthetics」ということばは、日本語ではわからないけれども、英語では「感覚的な体験」という意味合いがあるんですね。それはほんらいどの人間ももっている世俗的なものであるはずなんですが、ひとは「美学」ということばから、美術館に展示されている美術品など、日常から切り離されたものを思いうかべてしまう。わたしたちはそうではなく、芸術にこそ「経験の美学」を注入したいと思っているんです。

既存のフィールドワークや、ドキュメンタリー、映像人類学のような分野において、「これはこういうものである」という考えかたは、半分は無意識的なものです。わたしたちはそこに刃向うことはなかなかできないし、無意識の領域には半歩くらいしか入り込めない。けれどもひとついえるのは、そうした既存のものに頼ってゆくことをくり返していると、石のように凝り固まって、ヴィジョンの新鮮さを失ってしまうということです。ですから、わたしたちは「こういう美学をめざしている」というよりは、「こうでないものをめざしている」としかいえないところがあります。目隠しされた馬のような、視界の鮮やかさを損ねるもの――ある種の形式性やドグマの強制――を避けたいのです。

たとえば、わたしたちはふたりとも「シネフィル」ではないわけです。むしろわたしは「シネフォビック」(映画嫌い)といえるほどかもしれません。「映画とはこうあるべきだ」ということではなく、むしろ新しい世界を見せたいと思っています。観客が「見たことのないものを見た」、「あることは知っていたけれど、感じたことがなかった」という感覚をもつこと、そうしたことをわたしたちはめざしています。

VP (ひるがえした紙に「To see the world anew. 世界を新たな目で見ること」とある)

LCT ……(頭を手でおおう)。

――『リヴァイアサン』では10台あまりのGoProを使用し、無作為ではなく、あくまで任意の場所にそれらを設置したと聞きました。その作為と無作為、コントロールすることとしないことのバランスはどのように考えられたのでしょうか。

VP 「任意」というのは必ずしもそうではないかもしれません。ひとつ明確に意識していたのは、映画の終盤で船長が居眠りしてしまうシーンがありますね。あの場面はシステマティックな考えにもとづいて、カメラを固定しています。あの空間は共同スペースで、船員たちが休憩所で、自分たちの緊張感を解きほぐす場所です。そこで彼らに変化が見られると思ったんです。人間が動物的な側面を見せてゆく、ある種の境界線が見えるのではないかと。眠りに落ちる瞬間、ひとは動物になってゆく。あるいは、人が集う場所であるので、彼らの共同性のようなものが写るのではないか、という意図がありました。

ただいっぽうで、意図的にコントロールを失う、あるいはコントロールを託す、というような考えかたがわたしたちにはありました。他の身体に自分をゆだねるということです。その身体とは、自然環境のなかで闘い、自分を守ることに必死になっているような身体です。そのなかで何らかのフレームを作るのか、コントロールをどうするのか、そのバランスはたしかに考えていたかもしれません。

LCT たしかに「コントロールしないこと」についての意識はわたしたちにありました。ドキュメンタリーがもっとも力強いのは、偶然性において、または運命的なものとの出会いにおいてであると思うのですね。わたしたちは自分たちを「監督」とは呼びません。演出をしているわけではありませんから。ただそれでもフィルムメーカーとしてつねに考えていることはたしかです。編集を頭のなかでしながら撮影をしていたり、撮影されていく素材がどういうものになるかわからないままに頭のなかで編集作業をして、イメージをかたちづくってゆくということはあると思います。目の前の現実を「編集すること」と「編集しないこと」の対話的な関係性は、あらゆる映画づくりのなかに潜んでいるのではないでしょうか。

(c)Arrete Ton Cinema 2012

|世界をゆたかさのままに記録する

――ドキュメンタリーと文化人類学はともに20世紀初頭に発祥し、たがいに影響や霊感をあたえあってきた歴史があると思います。ロバート・フラハティの『極北のナヌーク』(1922)がすでにそのゆたかな交渉を実現していたと思うのです。そうした歴史に、おふたりはご自身の活動をどのように位置づけられていますか。

LCT お答えするのがむずかしいのは、わたしたちは「映像作家」や「人類学者」と自称することさえためらわれるような立場にいるゆえに、「歴史的な自分の位置」というようなことは、おこがましいことのように思えるからです。わたしたちは、いま自分がやっていることさえよくわかっていません。

『極北のナヌーク』についていえば、あらゆる表現者が先人からどういう影響を受けるかということに対する過剰な不信感、心配があると思います。「影響を受ける」ということは真似をしたに過ぎないのであって、気づかないうちに影響を受けていることのほうがむしろ重要です。わたしたちは映画史に詳しいわけでも何でもありませんが、フラハティが面白いのは、彼は自分を「人類学者」だとは一言もいったことがないし、作品を「民族誌映画」だと称したこともない。いっぽうでは現実を再現してゆくようにドラマを作りこんだり、パフォーマンス性を重視したりもしている。またイヌイットたちの暮らしの「近代化」ということをあえて省いて映画を作っている。にもかかわらず、彼が本心で表象したかったのは、ある種の第四世界の先住民たちの真実的なすがただった。その思いは強かったと思うし、再現はあってもその思いの強さ、真実性は変わりません。

VP 映像人類学に対して、あるいは民族誌映画に対して、わたしたちは非常に多くの批判をもっています。たとえば、あまりに還元主義的ではないか、美学的に貧しすぎるのではないか、人類学に頼りすぎていて映画的な部分が足りないのではないか、美学的な可能性を十分に追求できていないのではないか――。とくに還元主義です。「意味」に還元してゆくことは恥ずかしい行為であると考えます。わたしたちはこうした既存のものをひっくりかえしてその先に行きたいといっているわけなのですが、にもかかわらず、既存の人類学にもいろんな側面で魅力的な部分はあると思っています。世界中のあらゆる人間性、生き方の多様性を写し取っていこうという意志は共有できるものです。

LCT 還元主義的な民族誌映画を見れば見るほど、よりおおらかなもの、世界の生き方の無限性を描いたものを作れるんじゃないかと逆に触発されることがありますね。還元主義はまるで世界のゆたかさを家畜化しようとしている。西欧の色めがねを通してしか還元できないそういう方法は間違っているんじゃないかと思います。(了)

「To see the world anew.」

 

★あわせて読みたい
【News】7/22(火)開催★『リヴァイアサン』の監督を迎えて革新的なラボの活動を聞く創造的かつ危険な夕べ 「映画とハーバード大学感覚民族誌学研究所」 
【Interview】第27回イメージフォーラムフェスティバル 山下宏洋さんインタビュー

|公開情報

リヴァイアサン Leviathan

監督・撮影・編集・製作:ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル
2012年|米・英・仏|87分|配給:東風
公式サイト http://www.leviathan-movie.com/
★シアターイメージフォーラムにて公開中(他全国順次)

|プロフィール

ルーシァン・キャステーヌ=テイラー Lucien Castaing-Taylor
ハーバード大学感覚民族誌学研究所のディレクターであり映像作家。後期旧石器時代以降の人間と動物たちとが1万年ものあいだ育んできた不安定な関係、同時にアメリカ西部開拓時代についての非感傷的なエレジーである『Sweetgrass』(共同監督Ilisa Barbash 、2009)、西部劇が喚起する田舎の魅惑やその両義性についてのヴィデオ・インスタレーションと写真のシリーズ『Hell Roaring Creek』(2010)、『The High Trail』(2010)などを発表。他にトランスナショナルなアフリカ美術市場における正統性や鑑識眼、人種間の政治学を問う民俗誌のヴィデオ作品『In and Out of Africa』(共同監督Ilisa Barbash、1992)や、ロサンゼルスの衣料品製造業における児童労働と搾取工場を映した『Made in USA』(共同監督Ilisa Barbash、1990)などがある。

ヴェレナ・パラヴェル Véréna Paravel
ハーバード大学感覚民族誌学研究所に所属するフランス人映画作家、人類学者。彼女の作品は、ボストン、パリ、ニューヨークのギャラリーで上映され、ニューヨーク近代美術館の常設コレクションに収蔵されている。これまで『Foreign Parts』(J. P. Sniadeckiと共同監督、2010)、『Interface Series』(2009-10)、『7 Queens』(2008)などを発表。『Foreign Parts』は2010年ロカルノ国際映画祭で最優秀初長編・審査員特別賞、2011年プントデヴィスタでグランプリを受賞。ニューヨーク・タイムズ批評欄の推薦リストに選ばれ、2010年ニューヨーク映画祭と2010年ウィーン国際映画祭に正式招待された。現在パリのSPEAP (School of Political Arts)マスタークラスの教員であり、ハーバード大学でも人類学を教えている。

萩野亮 Ryo Hagino(取材・文)
1982年生れ。本誌編集委員。映画批評。編著に『ソーシャル・ドキュメンタリー』(フィルムアート社)。「キネマ旬報」誌にて星とり欄連載中。『リヴァイアサン』劇場公開用パンフレットに「いまひとたびの19世紀へ――転形期の神話」と題した批評を寄せています。