【鼎談】『わたしたちに許された特別な時間の終わり』傑作トーク選 text 太田信吾×若木康輔×金子遊

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』より

ハッピーエンドについて

若木 ではインタビューの続きとして聞きます。「ハッピーエンド」という言葉について。増田壮太さんは遺書で、映画を完成させて下さい、出来ればハッピーエンドに、とメッセージを残している。それを受けて宣伝でも前に出たキーワードになっていますよね。だから、本当にこの映画はハッピーエンドかどうかについて少々粘りたい。この映画は、僕の友人知人の間でも賛否両論に割れるんです。「若木さん、何でこんな映画を推してるの!」なんて言う人もいる。僕も「うーん、なんかね、なんか推しちゃうんだよ、俺」なんて、上手く説明できないまま答えたりしているんだけど。

実際、「ハッピーエンド」という言葉にこだわると、この映画は果たしてそう終れているのだろうか、と考えてしまうところがあるんですね。蔵人さんの赤ん坊が生まれ、生と死とのひとつの輪廻みたいな物が描かれている。ある美しい形は生まれています。増田さんと蔵人さんの2人の関係も、「僕らはシークレット」という凄く良い曲が流れるなか、海水浴に行った時の姿のリフレインによって美しく締めくくられる。けれども、それが果たして太田さん、ひいては映画の中の太田信吾が映画でケリをつけることになっているのか。僕の中ではやはり、この映画の中では太田信吾の屈託は解決していなくて、映画の公開が始まってみないことにはどんなエンディングも迎えられないんじゃないかなという気持ちはあったんですよ。

太田 そうですね……。まあ、「出し切った」とは言ったものの、まだ咀嚼は全然出来てない状態です。出したものが何なのかっていうのは僕も考えていて。この間、この映画のフィクションパートのカメラマン(岸建太朗氏)がトークゲストに来てくれて。

若木 太田さんを殴る人ですよね、夜のスタッフが揉める場面で。

太田 お客さんの感想で、その人はカメラマンだったんですけど、カメラマンが最後に女の子に「お前撮っとけ」ってカメラを委ねて、自分が殴りに行くシーンについて「カメラマンが人にカメラを渡しちゃいけない。プロだったら絶対ちゃんと撮るべきじゃないか」と言う問い掛けがありました。

それに対して岸氏は、これは僕も同感なんですけど「 撮影を止めていたら確かにカメラマンじゃない。けれど、止めずにちゃんと委ねつつ、目の前の現実の方を選択して何が悪いのか」。映画と現実のどちらを秤にかけるかというと、やっぱり現実で、それが同時に記録もされていることを彼は採ったと。目の前の生きるっていう方を選択したと語ってくれて。逆に、一緒にトークに出てくれていた録音マンは「僕は自分の意思で、こういうものは撮るべきじゃないと思って録音を止めました」と言っていたんですけど。

でもその、映画っていうのはもう置き去りにされてて、現実の方に僕らは突っ走っていっちゃったっていう所で、映画はもう完成して終わってますけれども、映画の終わりは僕らが死ぬときなんじゃないかなと、今は思っています。

金子 なるほど。この『私たちに許された時間の終わり』では、映画を作るほうの側が、映画の登場するほうの側と入れ替わりながら、一つのシネマ・ヴェリテを作り出している作品ですよね。だからスタッフの方も、どこまでが自分たちの現実の生で、どこからが映画における作り事が迷っているようなところがある。作品の賛否両論とは別のレベルで、つまりはこの映画の撮影ではなく上映というときに、僕も違和感をおぼえるというか、僕はどうしてもこの「映画上映」というものに慣れることができないんです。それは亡くなった人(増田荘太さん)が何度も何度もスクリーンに帰ってきて、この現実世界に肉体は無いはずなのに、スクリーンの上ではまた笑って、歌っている。それが1日に2回、ポレポレ東中野のスクリーンの上でくり返されているということに、僕たちはもう一度驚くべきなんじゃないかと思うんですね。

僕はこの映画を冷静には見られないので、細部を覚えていませんが、増田壮太さんがスカイプで蔵人くんと話をするシーンがありますよね。このとき、かなり重たい鬱の症状が見えるんですが。僕の自殺した元彼女も、最初は精神分裂病(統合失調症)で、外側から自分がどのように見られているか、内側では自分はこうありたいという願っている葛藤がまさに分裂し、精神分裂病という病気になっていた。そこで、なんとかそこを拮抗しようとするから被害妄想が起きて、「本当は私はこういう人間なんだけれど、誰かが電波や電磁波を飛ばして私をそうできないようにしている」という、妄想を発症するわけです。けれども、それがだんだん長くなると、人によっては病的な鬱病にいく方がいて、やはり外側から見た自分が自分なんだという事を否定できなくなる段階に入るわけです。そうすると、あのシーンを観るだけで思い出から本当に本当に辛いんですが、蔵人くんが「壮太さん全然笑ってないじゃないですか、さっきから」という、増田壮太さんのあのような表情になってしまう。そして、あのシーンが映画の一部として、スクリーンで毎日繰り返されているという自体が「驚くべき事態」なのではないか。僕は多分、それをなんとかしなきゃいけないと思い、自作の時は毎日劇場へ通ってトークしたと思うんですね。

若木 うん……。ああ、ごめんなさい、隣で聞いてて考え込んじゃった。そう、自殺についての意味合いがとても強い映画ですけど、あらかじめ故人の映画を作っている訳ではありませんからね。作っている間に壮太さんがいなくなっちゃった。だけど、それを頑張ってまとめた、別物を作った感じもしない。

よく考えてみると太田さんは、青春時代の、何か夢を持ってあがいている人間を、自分たちの同世代の鏡として描こうとした点ではブレなかったんだろうな、と。現実的には壮太さんは退場してしまったけれども、「役者になりたい」「ミュージシャンになりたい」、そんな夢を持っちゃう人間は皆、似た思いは味わうんですよね。お客さんの中にも、覚えのある人は少なからずいると思います。つまり、壮太さんがいなくなったから、どう作っていいか分からなくなった、では、どんな人の支えがあろうと完成させられなかった気がするんです。テーマは一貫していたんじゃないかなっていうのは、インタビューの時も聞きましたけれどね。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』より

太田 立ち止まっていたのはやっぱり倫理の問題というか。彼は遺書には書いてはいるけれど、亡くなった人は口をきけないのに、それをオープンにしていいのかというのは、自分としてはそれをすべきだと思ってはいるものの、どこかブレーキをかけていた部分があったんです。でも、あのう、毎日のようにこう……。すれ違う人の中にも、今死にに行く人も居るのかもしれないと、皆が自殺する現場に向かうように見えてきた時があって。

これはもう、吐き出さないと、彼になりきれるかどうかは分からないけれど、自分が彼の代弁を少しでもしなくちゃいけないんじゃないかと思い、ちょっとでこぼこな印象を与えてしまっているとは思うのですが、普通ならドキュメンタリーの映像だけで作るところを、仮面の男が出てくるフィクションパートを追加しました。言葉で言うしか他に手段はないかなと思って。自殺という行為の中にも色んなレイヤーがあって、突発的に死んじゃう人も、酷い労働条件で、など色んな条件が絡んでくると思うので。

金子 ただ僕ね、この映画を3回見て、増田さんに対してちょっと違う見方ができるようになってきたんです。それは若木さんのインタビューを読んだことがあり、それからパンフレットで蔵人さんが書いていた日記が印象的だったこともあります。増田さんと蔵人さんが太田さんの家へ行って、包丁を出して、映画を撮れよと迫るというシーンのアイデアが、勿論あれはフィクションで仕込んだものですが、あれを考えたのは増田さんだったという話に感心しました。

それから、増田さんが裸になって自分で胸やお腹を叩くシーンの後に、実は増田さんが号泣なさったんだけど、太田は家へ帰ってしまい「なんで太田はちゃんと撮らなかったんだよ」と怒ったというエピソード。いろいろな局面において、増田壮太が自分自身で物語を描いていることがわかったんです。彼は二人目の監督であり、シナリオライターであったのかもしれない。彼がミュージシャンで自己神話を作ろうとした特別な人だからそうなのかというと、そうとも限らないところがある。「誰もが自分の人生のシナリオライターである」という言葉があるくらいですから。

僕たちは、3億くらいの精子とひとつの卵子が受精できたものから生まれてきますよね。だから、生まれてくる事の意味に必然性ははないわけです。人間が亡くなるときも様々な原因があるけれど、病気や事故によって、ある日、生がぷつっと断たれてしまう。その死にも明確な意味というものはありません。基本的にはカオスである宇宙の中で、僕たちは偶然に左右されながら混沌と生きているというのが、実際の僕たちの人生なのですが、人間というのはそのような認識に耐えられないですよね。ですから、自分で自身の生に意味があるように物語を捏造するしかない。

例えば就職やバイトの面接に行っても、あるいは居酒屋で知らない人にあったときでも、自分にはこのような履歴があって、このように生きてきた、こういう人間です、ということを喋れるようにしている。自分のライフヒストリーをいつでも話せるように、無意識のところでシナリオライターをしている面があって、たぶん増田壮太さんはあれだけの才能のあるアーティストだったわけだから、自分で意識してそのようなことをやっていた面もあるし、同時に、太田君と映画を撮っているうちに意識的に、自分の人生のシナリオですね、自分が亡くなるところまでは予見していなかったでしょうが、何か増田さんが太田君を使ってストーリーを書いている、そういう感じがしてきました。彼こそがこの映画の制作者のひとりでもあるという。

若木 うん……。

▼Page3 出演者と監督の共犯関係 に続く