【鼎談】『わたしたちに許された特別な時間の終わり』傑作トーク選 text 太田信吾×若木康輔×金子遊

左から太田信吾監督、若木康輔、金子遊

11月29日から横浜シネマ・ジャック&ベティでの公開がひかえる太田信吾監督のドキュメンタリー映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』。8月のポレポレ東中野における東京公開では、多彩なトークゲストが来場したが、そのなかでも評判の高かったイベント1本を紹介したい。

8月31日(日)の夜、太田監督とneoneo編集委員である若木康輔(構成作家・映画ライター)、金子遊(批評家・映像作家)の2人が登壇した。若木はneoneo web上で太田監督のインタビューをおこない、ネタバレ満載の記事にもかかわらず多くのアクセスを記録した。金子には、完成前の段階で実は『わたゆる』制作の相談にのっていた、という逸話がある。この日のトークイベントは盛り上がっただけでなく、途中で思わぬアクシデントがおそった…
(採録=坂田秋葉、写真=大澤一生)

neoneo編集委員・若木による太田監督インタビューはこちら!
【Interview】嘘のない感情を描くために演出を仕掛けた―『わたしたちに許された特別な時間の終わり』太田信吾監督インタビュー


 

上映に立ち会うということ

太田 皆さん、今日は遅い時間にも関わらず来て下さってありがとうございました。この映画の撮影は2007年から始めました。最初は増田壮太くんというミュージシャンのプライベートを撮り貯めてYouTubeにアップするという目的で、映画館で上映することになるとは思っていませんでした。2010年の12月に彼が亡くなる、僕も本当に予想していなかったことが起きてしまい、そこから、まあちょっとどうしようかな、と思ったんですけど、彼の遺書の中に「この映画を完成させてほしい」と明記されていて、そこからご家族の皆さんと相談しあいながら、なんとか彼の魅力だったり、恥ずかしい所も全部含めて、現実を伝えていきたいっていう思いで映画にしました。

公開の過程ではクラウドファンディングという仕組みを使い、公開という形にまで漕ぎつけられて、本当にひとりひとりのご協力、力というものを痛感している次第です。もし今、客席に応援して下さった方がおりましたら、本当にありがとうございました。僕は大学時代から映像制作を始めて、映画を劇場公開するのも今回が初めてだったんですけど、ドキュメンタリーを撮ることについて、先人達の作品や活動を見ながら、いろいろ考えてきました。その過程で僕も刺激を頂いてきたお二方をゲストにお招きしています。金子遊さんと若木康輔さんです。

簡単にご紹介させてください。まず、金子遊さんは映像作家として活動しながら、色々な雑誌等に批評を書かれている批評家です。初めてお会いしたのは、この映画の制作中です。増田君が亡くなってしばらく経った頃、金子さんも自分の撮っている映像作品に出ている身近な方が、同様に自殺で亡くなられたということで、共通の知人に紹介してもらいました。それから、どうやってまとめていったら良いのかなど色々と相談をさせていただいて。仕上がった後も見て頂いたり、パンフレットにも解説を書いて頂きました。

若木康輔さんは、テレビの構成作家の傍ら、neoneoというドキュメンタリー専門ウェブマガジンの編集に、金子さんと一緒に関わっている方です。先日、この映画のインタビューをして頂きました。お二方には、作り手の視点と批評の視点の双方からこの映画を語って頂ければと思っています。

若木 僕ら2人はneoneoの同人ですが、金子氏は映画が完成する前から相談に乗っていて、僕のほうは試写で拝見した後で、お話を聞いておきたいなと思ってインタビューを申し込みました。偶然ですけど、結果的にはbeforeとafterの両面から『わたしたちに許された特別な時間の終わり』をneoneoでプッシュする形になっています。

neoneoのサイトで読める僕のインタビュー記事は、冒頭で「出来れば見た後に読んでください」と断っています。というのも、今見終わったばかりの皆さんの中にも、スカッとしない部分があると思うんです。あの場面には演出があったのか、それともハプニングが起きたのが撮れているのか、とか。ドキュメンタリーとフィクションの間を往還し、時には一体と化している構造の映画ですから、もやもやした部分がいっぱい出てくる。そこについて、割と細かく聞かせてもらっているんです。

ですから今日は、同じ話を繰り返すよりも、インタビューの続きをしてみたいと。実は、公開前のインタビューの席で、太田さんはとても暗かったんです。とてもナーバスな雰囲気に感じられた。最初はどうしようかな、大丈夫かなと思ったんだけど。実際に話が始まったら、とても丁寧に答えてくれたんですけどね。お客さんをまだ目にしている前だから、この映画がどんな風に受け入れられるのか分からない。そういうことなのかと解釈していました。

でも今日、久しぶりに太田さんに会ったら、とても明るくなっていた。表情が。

金子 ほっとしたっていうか、重い荷物が降りたっていうのかな、っていう感じはしたよね。

若木 うんうん。インタビューの時、太田さんは、この映画がどんな風にお客さんに受け入れられるか分からないけど、できるだけ劇場に来て、お客さんの感想を聞いて、お客さんの顔を見たいっておっしゃっていました。それはすごく思い詰めたような感じだったんだけど。

今、公開が始まって二週間位経ってね、賛否両論ある映画だから、嫌な映画を見たと直接言われることはたびたびあるみたいで。今日のお客さんの中にもいい気分はしていない方もいらっしゃると思います。「自殺の才能」なんて、あえて神経を逆撫でするような言葉を用意している映画でもありますから。太田さんは、どんな言葉でも直接言ってもらえるのは大歓迎なんですけど。ただ、そういうことが重なってガックリきているどころか、むしろ明るく、ポジティブな雰囲気になっているから。そこを聞きたいんですよね。映画の公開が始まったことで変わったところがあるのか。

太田 でも、この間もゲストの方になんでそんな暗い顔してんだって言われたんです。多分、まだその暗さはあって、もうこういう顔なんだと。

若木 アハハ、そっかあ。

太田 初上映は去年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でしたから、そこですでに、お客さんとふれあう機会は持てていました。ただ、映画館で、首都圏のお客さんに見て頂くのは初めてだったので、どうなのかなあって思っていたんですけど。

若木さんは今、「自殺の才能」を神経を逆撫でするような言葉とおっしゃいましたが、そこはもう僕もあえてこうやっています。ふだん生きていて、自殺という問題に対してあまりにも、臭い物に蓋をするような感覚があって。駅のホームのアナウンスでも、人身事故が起きてもそれが自殺ですとは決して言わない。

増田君は本当に、人に対して優しい遺書をちゃんと書き残して亡くなりました。喧嘩別れしたり、僕も含めて至らないことがあった人はたくさんいて、彼にもドロドロと渦巻くストレスのようなものが多分あったはずなんですけど、全部チャラにして、綺麗な言葉を残して去っていった。

でも、その優しさに甘えてはいけないという気がして。むしろ、その彼の怒り、執念のようなものをちゃんと表に出さないと、このまま彼が亡くなった、悲しい、だけではその傷はだんだん癒えていって、そういえばああいう人もいたね、ってなっちゃうと思ったので。

見ている途中で気持ち悪くなって、吐いちゃった方も2人位いるのを僕は見ました。一方で昨日は、中学生の時にいじめが原因の自殺で友達を失くしたという方がいらっしゃって、なかなかオープンにしにくいことを晒してくれた、作ってくれてありがとう、と言ってくださって。それは、良かったなと思ったんですけど。

金子 この映画を2013年の10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭で見たときに、こちらのパンフレットにも書いてあるんですけど、大の大人で恥ずかしいんですが、僕は号泣しました。涙が止まんなかったです。

それはなぜかっていうと、それは太田君との関係性とも関わっています。2010年11月から12月に僕は、自分の最初の劇場公開作である『ベオグラード1999』という映画をアップリンクで4週間公開した。それは僕の24、5歳の時に付き合っていた恋人がいて、彼女も増田壮太君と同じでミュージシャンで、これも偶然ですが、高校生の時にYAMAHAのコンクールでシンガーとして準優勝かなにか穫ってている。大学もそれの推薦入試で入っていてね。大学ではアイドルを続けながら、アートを勉強していたのかな。ルックス的には『風の谷のナウシカ』のナウシカみたいな子で、ちょっと歩いているだけでみんながハッと振り返っちゃうような、校内でも伝説の綺麗な女の子だったんです。

その子が大学を出て、就職が上手く行かなくて鬱病になっていて、僕と再会した。僕はちょうどそのときイラクでバビロン音楽祭というフェスティバルがあるので、そこへ彼女が行って歌ったらどうかって提案し、一緒にイラクに行ったんですね。当時はまだフセイン政権で、二つのイラク戦争にはさまれた経済封鎖されていた時期でした。そこで彼女が大観衆を前に歌って、それがイラク全土にテレビ中継されて、すごく喜んでくれました。またイラクへ戻りたい一心で、その旅をコーディネートしてくれた民族派団体で彼女は5年間働いていたんですが、そこを辞めた途端に自殺してしまったというのを、その『ベオグラード1999』という映画で扱いました。

それを見た太田君の早稲田大学時代の恩師・鹿島徹先生が「太田君が同じような境遇で悩んでいる、友達が亡くなってしまったということをモチーフに映画を撮っていいものかと。金子さんちょっとお話をして下さい」という事で会ったのが2011年2月ですね。3・11の直前だったので覚えています。上映のとき、僕は「30日間バトルトーク」と名づけて、毎日ゲストを迎えて劇場でトークしました。上映に必ず立ち会い、そこで自分がなぜこういう映画を撮ったのかということを、言葉で喋るっていうことをやったんですね。それをせざるを得なかった倫理は、今から考えると、美しい女の子だった彼女の自殺を食い物やネタにして、映画を作って自分だけ公開して喜んでるという風に自分で思いたくなかったからです。「彼女がそこにいて、そのように生きていた」という証を少しで多くの人に見てもらうことが、彼女の魂をいやす行為につながると信じていました。だから、太田君がちょっと清々しい顔をしてるっていうのは、僕にも経験がある、喪の仕事をきちんとやっている人の表情なんじゃないかと思います。

若木 金子さんの言う、映画を見せるだけでは伝えきれないという気持ち。太田さんにも通じるものがありますか?

太田 そうですね。ただ、上映中に映画を見ることをまだ僕は1回もやっていないというか、やれていないんですけど。何か、僕には映画の中で全部出し切ったという感覚があるので。後はもう受け取ってもらえたその反応を、ぶつけてくれる人がいたらそれが欲しい。それでここに来ていますね。

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