【連載】documentary(s) ドキュメンタリーの複数形 #02「存在と類似――『美味しんぼ』「福島の真実」編を読む」 text 萩野亮

 

|なぜ井戸川前双葉町長は写実的に描かれなければならなかったのか

『美味しんぼ』のメインキャラクターは、山岡にせよゆう子にせよ、たいへん平板な線で描かれている。むしろ写実的に描写されるのは、毎回仰々しく登場する料理や素材、実在店の店がまえのほうであり、人物たちとはまるで異なるレイヤーに存在するかにみえる。『美味しんぼ』のコマには、「実在」と「非=実在」の両方のものが平然と共存し、かつそのレイヤーの境界は存外に明らかである。

これまで描かれてきた実在店の店主などと同様に、「福島の真実」編では、福島で活動する人びとが実名で登場し、単純な線で描かれてはいるがおそらくその人に似せて書かれているだろうことが推される。たとえば、飯舘村で畜産をいとなむ菅野義樹氏は、薄くあごひげをたくわえた「いまふう」の人物として描写され、またはおばさんやおじさんたちも皺などがていねいに描きこまれており、連載開始以来ほとんど風貌を変えないレギュラーメンバーとは明らかに異なる印象をあたえる。第604話に登場する井戸川克隆前双葉町長もまた、こうした写実的描写をほどこされた人物としてコマにあらわれる。

同じ「実在」する人たちのなかでも、なお井戸川前町長が異なるのは、その写実性が「推測」されるのではなく、すぐさま「理解」されるということだ。政治家であり公人である井戸川前町長は、2011年3月11日の原発事故以来、テレビや新聞、映画といったメディアに頻繁に露出しており、その人となりを知らない読者はいないにひとしい。たとえば『美味しんぼ』というマンガにふれたことのない人間でも、そのコマを占めている人物がだれなのかは、ひと目でわかる。

 

 

ところで政治家とは、短くないマンガの歴史のなかでもひときわ多く描かれてきた職業的人物であるだろう。ここで指しているのは、ストーリーマンガではなく、おもに新聞をシニカルに飾ってきた一コママンガ(カートゥーン)のことである。日本では「ポンチ絵」にさかのぼるカートゥーンが、ときの政治家の一挙手一投足を、新聞という速報メディアにおいて風刺の対象としてきた事実は経験的に知られるだろう。往々にしてそこでは、人物の外見的特徴を誇張した大胆なデフォルメがなされる。内容より先に、カートゥーンではいわば「線が冷笑している」のである。

『美味しんぼ』における井戸川前町長は、こうしたカートゥーンにおける政治家の肖像とはあらゆる意味で異なっている。カートゥーンが政治家の言動を軽快な線によってシニカルに冷笑するのに対し、『美味しんぼ』は、かぎりなく写実的に描くことによって、その発言をストーリーの文脈において肯定しようとする。いや、肯定する以上の意味をもたせようとしている。そのつよい意志は、花咲アキラによる丹念な線描にあらわれているといわなければならない。井戸川前町長は、本人に「そっくり」でなければならなかった。

|山岡と海原雄山はなぜ鼻血を垂らしたのか

山岡が鼻血を垂らした『スピリッツ』の同じ号では、浅野いにおの新連載『デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション』が開始されているが、この作品もまた「311以降」の時空をストーリーにすえたものである。そこでは『美味しんぼ』と同様に、ときの首相や政治家たちがときおりコマに登場するのだが、うまく特徴をとらえられたかれらは、モデルが誰なのかを明らかにしながらなお「実名」ではない。浅野いにおは、ここで「実在」と「非=実在」とを、同じタッチの同じレイヤーに溶かし込もうとしているのであり、事実、『美味しんぼ』の読後感とはまるで異なっている。というよりも、特異なのはもっぱら『美味しんぼ』のほうなのである。

かんたんにいえば、『デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション』をはじめとするマンガ作品がもたらすのは「ストーリー」の経験であり、『美味しんぼ』「福島の真実」編がもたらすのは「メッセージ」の経験であるということだ。写実的な線描で実在人物たちを描くことで、『美味しんぼ』はその発言を「メッセージ」としてまっすぐに読者に届けようとする。人物の発言だけではない。「福島の真実」編においても、やはりグルメマンガとして料理が登場するわけだが、福島産の素材をふんだんに活かした料理に山岡たちが舌つづみを打つとき、その光景は、それ自体が強固な「メッセージ」であるといわなければならない。

けれども、「福島の真実」編は、「ストーリー」の経験を完全に放棄するわけではない。主人公の山岡と、彼の実父であり、かねてより対立関係にあった海原雄山が、福島での取材を通してついに完全な和解にいたるというドラマが描かれているからだ(連載開始から30年かかっている)。海原いわく、山岡の母と出会ったのはまさに福島の地であり、したがって山岡の「根っこ」もまた福島にあるのだと。こうした設定じたいがとってつけたようなものに思われてならないのだけれども、それよりも重要なのは、くだんの鼻血描写が、ここできわめて重要な隠喩をおびているということだ。

 

 

ゆう子が山岡と海原の手と手を取り合わせることで幕を閉じる「福島の真実」編は、いわば山岡が自身のルーツを知り、父親と同じ血が流れていることをつよく確かめるシリーズとしてある。山岡だけでなく海原にもあらわれた「鼻血」が、まさにふたりに同じ「血」が流れていることのメタファーとして描かれていることは明らかである。山岡たちの鼻血は、強烈な「メッセージ」として読者に突きつけられながら、なお「ストーリー」の重要な結節点として機能しようとしている。この描写が批判されなければならないとすれば、ひとつには、海原=山岡父子を和解にいたらせる付け焼き刃のような「フィクション」に、予断を許さない「現実」をなかば回収しようとする、作者の無節操な態度においてであるだろう。

 

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