【Interview】ありのままの「フタバ」を提示すること――『フタバから遠く離れて 第二部』舩橋淳監督に聞く text 若林良

2012年、福島第一原発事故によって避難を強いられることとなった、福島県双葉町の人びとを追った1本のドキュメンタリー映画が公開された。舩橋淳監督による、『フタバから遠く離れて』。埼玉県加須市にある旧騎西高校へと、全町避難をしてからの9ヶ月を描いたこの作品は、公開当時、オーディトリウム渋谷では連日満席が続き、公開数日でアンコール上映が決定した。その後も各地での劇場公開、国内約100ヶ所で自主上映が行われ、またベルリン国際映画祭をはじめとした、海外の映画祭においても多大な評価を得た。

しかし、双葉町の苦境は、これで終わったわけではなかった。長い避難生活で町民の間に不満が多く出始めた町の避難所や仮設住宅では、町議会と町長が対立。2013年2月には、当時の井戸川克隆町長が辞任に追い込まれた。避難先で新たに行われた選挙では、井戸川氏とは異なる町政方針を打ち出した伊澤史朗氏が町長に当選し、双葉町は新たな局面を迎えることとなる。役場は福島県いわき市に再移転し、旧騎西高校からの避難者の完全撤退が完了した――。

舩橋監督は、双葉町へカメラを向け続け、前作後の2年あまりを、『第二部』として新たにまとめあげた。その過程で、双葉町はどう変わったのか、また、双葉町を見つめ続ける上で、自身の「ドキュメンタリスト」としての姿勢はどのように確立したのか。『第二部』が公開中の舩橋監督に、今回、改めて話を伺った。(取材・構成 若林良)

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「フタバ」と出会うきっかけ

――舩橋監督が原発問題、その中でも「双葉町」を題材にしたドキュメンタリーを作ろうと思われたきっかけについて、お伺いできればと思います。

 舩橋 双葉町が「最も遠くに避難した町」ということを知ったのがそもそものきっかけですね。
まず、3.11当時の話になるのですが、原発事故の直後は、僕は日本のメディアが流す情報に対して、大きな猜疑心を覚えていました。

当時、日本のメディアと並行して、アメリカやフランスなどの国際メディアにも注目していたんですが、そうしたら、日本のメディアが触れていないような、色々な情報が出てきたんですよ。メルトダウンについては、アメリカのメディアが3月12日の時点で言及していましたし、CNNは3月17日の時点で、福島がレベル7の、世界最悪の原発事故だということを明かしていました。一方日本では、どちらも1ヶ月以上遅れての発表だったんですね。また、安全区域の範囲や被ばく量に関しても、報じられている「正しい」情報がころころ変わって、何に頼って判断したらいいかわからない状態だったんです。そうしたメディアの状況に対して、非常にフラストレーションを覚えていたことが大きかった。

 双葉町の存在を知ったのは、ちょうどそのような時でした。双葉町という町が原発から200キロ以上離れた、埼玉県の加須市にある廃校に役場機能ごと移転したというニュースを聞いて、これは正しい判断だと思ったんですよね。双葉町は「最も遠くに離れた町」で、福島県の自治体の中では、唯一県外に避難した町だったんです。他の自治体は、全部福島県の中で西の方に避難したりしていたんですけど、県境を越えて、より遠くに逃げたという判断は素晴らしいと思った。それで、双葉町の避難所に行って、いろんな方に「双葉町」がどのような町だったのかをいろいろと伺うことにしました。

その時は、これをドキュメンタリーという形に残そうとは考えていなかったんですが、しばらくして、あることに気がついたんですね。福島第一原発の電力がほぼ100%、首都圏に送られていたということです。双葉の方にその事実を聞いてから、違和感が自分の中で強まる一方でした。被災された方は学校の教室という、プライバシーも何もない所でお弁当を食べて、お布団を引いて寝ているわけなんですけど、そういった生活を毎日見続けて、そこから家に帰ってテレビをつけて、パソコンや携帯の充電をすると、非常に奇妙な思いになるわけです。

つまり、双葉町の人たちが作ってきた電気を、自分は使っているわけですよね。文明が発達していく過程で、人間は数え切れないほどのゴミを出し、環境を傷つけてきた。その代償として、地球温暖化などのしっぺ返しを自分がうけたと言われれば、それは納得できなくもありません。でもこの原発事故に関しては、しっぺ返しが偏った形に起きているわけです。僕が使った電気のために、遠く離れた双葉町の人がしっぺ返しを食らっていると。これは不平等ではないかと強く感じたわけですね。

でも、なぜこんなことが起きているのかということは、当時の僕にはわからなかった。それがわかるまで、電気を使ってきた自分と、電気を作ってきた双葉町の人たちとの対話を、映像記録として残そうと思いました。それがドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけです。

時間が経過して、少しずつ勉強してわかってきたんですが、先ほど述べた不平等がなぜ起こったかというのは、日本が原発の輸入を進めた1950年代から60年代前半の、日本政府と当時のエネルギー庁による取り決めが発端だったんですね。Atoms For Peace、原子力の平和利用ということをアメリカのアイゼンハワー大統領が打ち出したのですが、日本はそのキャンペーンを鵜呑みにしてしまった。ヒロシマ・ナガサキの悲劇を味わった日本だからこそ、原子力という悪魔のエネルギーを平和利用するべきだというキャンペーンです。今でこそ、悪魔のエネルギーは悪魔のエネルギーでしかなかったことはわかっていますが、その頃はそれに乗っかってしまった。原発を輸入して、発電所を建てた。

発電所が設置されたのは低人口地帯と呼ばれる、人のあまりいない地域です。つまり、政府やエネルギー庁の人間は、原子力を使うリスクを充分にわかっていたわけです。だから、都心には絶対に作らせなかった。こういった、地方に対してリスクを不平等に背負わせるシステムが、60年代の前半には確立してしまったんですね。

これは本来非常におかしいことで、事故が起きたときには、我々東京の人間がその責任を背負う必要があるはずだと。倫理の問題になるのですが、そういった問いかけを行うことを、日本はあまりにおろそかにしていると思います。これまでほとんど議論は行われなかったし、今もそういった状態がずっと続いている感じがしますね。

――舩橋監督は著作『フタバから遠く離れて―避難所からみた原発と日本社会』(岩波書店)の中で、「町民の状況は刻一刻と変化していく。それを記録し、問題を可視化するのが自分の役割だと思っている」と語られていました。第一部だけで完結させず、もともとその先を撮ることは決めていらっしゃったのでしょうか。

舩橋 映画と同時に出される、『フタバから遠く離れてⅡ―原発事故の町からみた日本社会』(岩波書店)にも書きましたけど、第一部は当初、1年くらいまでは撮るつもりでいました。だけど、当時の民主党政権が、2011年12月16日に、原発事故収束宣言を出したんですね。僕は避難所にあるテレビで、皆さんと一緒に会見を見ていたのですが、野田首相の言葉にはみんな頭にきていました。こんなに人々を放置していて、「原発事故は終わった」は、どう考えてもおかしいと。政府のこういった対応と、双葉町に凝縮される被災地の現状については、一刻も早く外へ発信しなければと思ったんです。

そこで、それまでで撮った部分を急ピッチで編集して、2ヶ月後のベルリン国際映画祭で発表しました。それが『第一部』だったんですけど、原発避難が終わるまで撮ることは決めていたので、編集をしながらでも、クリスマスの後の餅つきや、お正月などは撮影を続けていました。重要なイベントについては撮ることにしていましたし、ある程度ずっと続けていこうとは思っていましたね。

『フタバから遠く離れて 第二部』©2014 Documentary Japan, Big River Films

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