初めに
昨年末、東京の新宿で、山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加した作品の中からアラブ作家たちのドキュメンタリー群が上映された。それを連日のように観に出かけて、あらためて「映画とは何か」「ドキュメンタリーを作るとは何か」を考えさせられた。さらに、その作品群には、中東アフリカの民族意識と時代認識、ひいては歴史認識の特徴が表れていることを強く印象付けられた。
特に、作家たちの製作意図を巡っては、多くを考えさせられた。私自身がパレスチナ解放闘争を長年協働していた頃の人々の思いや姿、その時代情況を思い返しながら、現代の若者たちが過去とは違う現在から未来へ向かってどう生きようとしているのか主張していて、新しい時代認識の構築を問われているのだと考えさせられる機会になった。
結論的に得たのは、現代アラブの若い作家たちは、決して現実に埋没していないし、何よりも、自分の存在を形作る歴史情況や個別の欲求、更には家族問題や社会政治状況を正面から捉えて、それらと闘争しているということだ。そして、少なくとも、各作品は、時代と歴史を捉えて、現実に真摯に対峙する方向性を持っていることだった。その感想意見を述べてみたい。
1.活き活きと映し出される世界観、人間観
最重要な作品は、2013年の「山形」で大賞に選ばれた『我々のものではない世界』(2012 パレスチナ人作家、マハデイ・フレフェル監督)だ。そこで語られるのは、イスラエルの虐殺・収奪・占領から逃れたパレスチナ避難民の三世代目に当たる生粋の“キャンプ生まれ”の作家が味わう難民キャンプの人々の生活だ。難民キャンプからの脱出を図る父親の出稼ぎビジネスに伴って、クエート、デンマークへと移住し、そこで留学生として映画を志した。毎年難民キャンプに里帰りする彼は、祖父や親族たちや隣人たちを長年撮影し続ける。彼らは、国籍やパスポートがないために就職も留学も出来ない、まさに難民キャンプに閉じ込められている人々を“家族”として見続ける。
その理由は、難民キャンプに住み始めた祖父が、周りの人々には「写真気狂い」と呼ばれながらも写真を撮り続け、「儂たちが存在した証明は、この写真にしか残らないかも知れない」とマハディに苦渋に満ちて語って聞かせたからだ。彼の父親もまた、祖国へ帰ること以外は何もかも諦めてしまった祖父に代わって「家族」にビデオカメラを回し続けた。マハディ自身も自分のアイデンティティを証明し続けるかのように撮りため、二年間の編集期間には栄養失調で倒れたりしながら完成させたという。
こう書くと、『我々のものではない世界』は、深刻なパレスチナ問題を捉えた、生真面目で重苦しい社会派のドキュメンタリー作品だと思うかもしれない。だが、そうではない。
「ハーイ!僕はパレスチナ難民、難民キャンプで育った三代目の息子だ」と、実に軽々と、中東の現代史を体現させられた難民身分を語り始め、日々の生計で苦闘をしているキャンプの人々の生活を陽気に紹介していく。そこには、祖国を追われた厄災も、家畜同然にキャンプに閉じ込められている閉塞状況も、娯楽と言えば三本立ての空手映画かTVでのサッカー観戦しかない青春の悲惨も、全てが「自分たちの現実であることを凝視し、難民が生き延びるには逞しく冗談で笑い飛ばしながら、否応なく悲哀を開陳し、自分を信じて未来を紡ぐしかないことを陽気に物語って行く。そのバイタリティの凄さは、登場人物だけでなく、作家自身の生半可ではない楽天性を迸らせている。
例えば、切羽詰まった幼友達が懲りずに密航を繰り返す行為の哀しさ。対イスラエル軍へのゲリラ反撃の“英雄”の兄が負傷死して精神のバランスを失った叔父の奇妙な生活パターン。「絶対に祖国に還る」と主張してキャンプ地から一歩も出ない祖父の頑固さ。「本土にミサイル三発撃ち込めばアメリカは潰せるし、イスラエルが潰れる!」と今でも豪語する元ゲリラ軍司令官の鍛えられた殺気。それらには、パレスチナの人々が六〇年間以上にわたって蒙った受難の歴史が沸々と浮かび上がって来る。言い換えれば、一人一人の物語、そして独自の記憶と生活感情がバラバラに流れているように見えて、実はすべてが一つの歴史の濁流の中に流し込まれている現状の悲惨さが見えてくる。しかし、最後に、「それでも、僕たちは力一杯生きていくもんねー!」とヒップホップ調の陽気さで宣言するのだ。
この陽気さの中にこそ、あえて苦難の歴史をも引き受け、生きようとする力強さを観ることが出来た。難民キャンプの社会的な窮状は、振り返ってみると、日本の若者たちが置かれている社会環境とあまり変わらないことにも気づかされる。消費文化の歴然とした差異はあるものの、実は、ナイロン袋を頭からかぶせるような管理システムで息苦しくされ、自分の吐く息が綿飴になって鼻と口を塞いで窒息してしまうような日本の社会実情。腐敗社会の窮状として全く同じだ。そこで、パレスチナの若者は「生きるために戦う」と宣言する力強さを見せているが、日本ではどうか。日本の若者たちは、特に日本の若いドキュメンタリストたちは、彼らのタフさに拍手を送った上で、真摯に自己を晒すべきだと思った。
その視点から観ると、土井敏邦さんの『ガザに生きる』『第五章-ガザ攻撃』(2012)が上映された。イスラエルの残虐なパレスチナ占領攻撃とその非人道性に抗して生きる人々の姿を描き、人道的な立場から世界でも唯一残されているイスラエルの占領戦争の「不条理」を浮かび上がらせている力作だ。しかし、無いものねだりかも知れないが、パレスチナ問題の窮状を作り出している歴史経過と国際政治構造に加担した側に生きる日本人としての自らの発言や提案が作品の中でもっと強く打ち出されて欲しいと感じさせられた。