【Review】新たな時代の民族意識は可能なのか「ドキュメンタリー・ドリームショー アラブを見る」を観て text 足立正生

『密告者とその家族』

2.「今」に現れる歴史を語る

今回の特集上映された作品群の大半は、中東の歴史について直接間接に深くかかわった表現をしていることが一つの大きな特徴だと感じさせられた。それも、中東の歴史はイスラエルの占領というパレスチナ問題の本質を避けて通れないことに結びつけて描かれている。

日本人にとっては、日本の近現代史を丸ごと語ろうとすると、明治維新や日清日露の戦争期、特に第二次世界大戦の敗北と戦後を軸にして、駆け足の編年的な羅列になるし、政治動向や文化思潮などをバネに経過と変遷が重要なファクターとして断片化され、各種に変調していく流れとして描かれがちである。「今」につながる歴史は、例えば司馬遼太郎の小説のように、過去についての偽「物語」として描かれる傾向があるように思う。

ところが、この作品群を観ていると、中東のイスラム世界、いやアラブ世界では、引き伸ばされて奏でられていたアコーディオンをグーッと押し縮めた時間としての「今」を語ることになるようだ。いや、ドキュメンタリー作家に限らず、アラブの人々は「現在」という時間の流れの中におかれた自分の実態を、歴史的な背景の中で否応なく見つめざるを得ない立場に立たされているとさえ言える。

例えば、エジプトの作品がそうだ。『彼と彼女、ヴァン・レオ』(2001 アクラム・ザータル監督)が語るのは、母親の遺物の中に残されていた一枚の全裸ヌード写真の謎を解いていく過程で発見する歴史の切れ端だ。そのヌード写真を撮った老写真家ヴァン・レオを探し出して、作家がインタビューする。そこで分かって来るのは、写真の主が祖母だったというだけではない、英国の統治下にあったカイロの文化情況から出発した写真史を軸にした中東の歴史そのものだ。写真家は、写真は白黒だからアートになり、カラー写真やヴィデオで想像力を限定しまうのはアートではないと極言したり、人々が肖像写真に込める自己の人間観など、今に反映されている歴史的な価値とその捩じれを提出する。インタビューした作家だけでなく、観ている私たち自身が背負っている家族や社会の歴史を振り返ってみたくなるくらいだ。

もう一つの『選ばれた物語』(2013  ヨハンナ・ドムケ、マルワーン・オマラ共同監督)に見られるエジプトの歴史の現実も歴史への自省に満ちている。ナセルによる民族解放革命でエジプト再生が進むはずだったが、その民族主義を引き継いだ為政者たちが“独裁”と服従のシステム社会に作り変えてしまった結果を、自分が写真家として勤める新聞社内部の実像を通して映し出す。独裁者は、エジプトの「歴史的な栄光」の継続だけを捏造するように指示を徹底させ、社会全体を「無為の世界」へと転変させてしまったことを冷徹に浮かび上がらせる。それも、現実社会の矛盾を暴露し、為政者を批判する使命を持っているはずの新聞社のビルの中を上階から下階へと順次凝視しながら降りて行くと、各階のジャーナリストや労働者が、“独裁”像を批判し投獄されないために、一切の仕事を止めて無為に時間を過ごすしかない姿となっているのだ。それがエジプト社会全体に蔓延していることを象徴的に浮かび上がらせる。作家は、「アラブの春」と呼ばれた反独裁の民衆蜂起の結果がムスリム同胞団の選挙勝利で、宗教色による独裁へと向かうのではないか、そして、軍事クーデターによる独裁が再び開始されるのではないか、とも予見するように作品を閉じる。

中東問題を専門とする歴史学者の三木亘さんが論文集『悪としての世界史』を出している。世界史を俯瞰してみると、時代の中で『悪』として登場したものが常に歴史経過を変異発展させる動力になって来たという研究総括を書いている。中東のみならず世界の近現代史の中で『悪』と言えば、イスラエルという人口国家を作り出して利用して来た欧米植民地主義こそが、その典型だ。

そのイスラエルで、知識人の良心とまで言われる作家の『庭園に入れば』(2013  アヴィ・モグラビ監督)では、作りだされた『悪』・イスラエルに住むイスラエル人とパレスチナ人の親友が、かって共に生活していた実家がある地方を訪問し、想い出と現状を和やかに話し合うことから始まる。旅の途中、各所に「アラブ・パレスチナ人は立ち入り禁止」の立札がある。それは、変わらない友情を温めているつもりの二人にとって、あたかも抜き差しならない裂け目があることを告知しているかのように見えてしまう。宗教や心情を超えて共存しているつもりの自分たちを、見えない奥底で引き裂いて今に至る『悪』は、イスラエルの虐殺・占領による一方的な建国であり、その悲劇をそれぞれに引き受けて生きているつもりだったが、何一つ問題を解決できずに先送りして現在に至り、それはもはや絶望的な社会状況にまで至っていることを口論し合うことになる。家族や友情関係や未来への展望を語るには、どうしても避けて通れない問題として存在している実情を突き付けているが、『悪』をはびこらせているだけで変化発展させられていない現状を苦々しく足掻いてみせるのだ。

この主題は、旧作ながら上映されたミッシェル・クレフィの『石の讃美歌』(1990) で恋人たちの愛と記憶の痛みを表情にしたもの、『ルート181』(2003)で国連決議181号で指定されたイスラエル・パレスチナ間の停戦ラインが全く無視され虚構化されたイスラエルの「平和」の現状の悲惨さを提示してみせたものと通底している。

その悲惨さの最たるものが、イスラエル社会自体が抱える『悪』の構造として、二つの作品に描かれる。一つは、『密告者とその家族』(2011  ルーシィ・シャツ、アディ・バラシュの共同監督)で、密告者一家が晒される悲惨が描かれる。父親が長年イスラエルのスパイとして諜報機関に仲間を売り渡していた裏切りが発覚し、パレスチナ社会に「処刑」されるのを恐れてイスラエル側に逃げ込んでいる。彼自身は、家族の安全や職を得るためと金銭で買収されたという裏切り行為の理由はあっても、イスラム世界では社会通念として色濃く残っている共同体意識(ウンマの思想と呼ばれる家族主義と宗教的な共同体意識が混ざって作られたもの)そのものを踏みつけにする「大罪」を犯した人間と見なされるからだ。仲間や親戚や隣人からは、親しかった怨念を込めた石礫を浴びることになる。しかし、イスラエル政府と保安機関は、密告者は捨て駒であり、用済みで放置された一家六人の生きるための苦闘を助けはしない。人間が生きるために足掻く限界点を描き、占領に対する解放闘争が続く地域での、アラブ社会の通念とイスラエルの軍事国家の問題を縦割りにして見せる実像を描き切る。しかし、決定的な不満も残る作品だ。密告者たちの悲惨な実例を観て育ったはずの父親が、何故、共同体総体を裏切ってまで密告者になったのかという、金銭や射幸心を超えたところにあるだろう裏切の根拠が抉り出されないまま終わってしまうのだ。

もう一つは、同じ監督の作品『ガーデン』(2003)だ。イスラエルの首都テルアビブの一隅「ガーデン」地区で客引きをして暮らす若いゲイの荒廃した生活ぶりが描かれる。二人の出自はイスラエルとパレスチナで別々だが、社会に疎外されて出奔した共通の出自があり、それが友情の絆を形作り、危機的な生き様の中でお互いの信頼を深めていく。まさに、それは、戦争でしか存続できないイスラエル国家の緊張した社会が作り出した歪で、底辺に生きる人間ほど、その不条理を生かされてしまう姿が提出される。

この二作品は、イスラエルが占領と戦争によって作り出してきた『悪』そのものが、人々の毎日の生き様の中に深く桎梏を刻み続けていることを物語り、その悲惨な現状を真摯に描写し続けることで、比喩することを拒み、「今」を突き付けることに徹しようとする力作となっている。

『ガーデン』

▼page3 新しい時代の自己を求めて