3.新しい時代の自己を求めて
今回の作品群の中には、アラブのドキュメンタリー作家たちが描く、旧くて新しい歴史観や民族意識の模索、そして、それらを超える他の規範で描こうとしたものなどが表現されていることにも注目した。残念ながら、最初に評価した『我々のものではない世界』以上の力強さこそ無いが、少なくとも、それぞれがナイーブに現実と自己を対比して描き出そうとしていることだけは印象に残る。例えば、新しい映像感覚と批評精神で『私たちは距離を測ることから始めた』(2009 バスマ・アル・シャリーフ監督)など、究極的にメタファー化した方法の作品もあったりした。
しかし、今ここで述べたいのは、一つは、『モーゼからの権利証書』(1998)と『ニュースタイム』(2001)が描こうとした世界だ。この二作品の監督アッサ・エル・ハッサンは、移民したパレスチナ女性の視点から、自己のアイデンティティの明確化を試みる作業そのものを、彼女の故郷であるパレスチナに帰郷し、そこに住む人々を訪ね歩く中で説明しようとする主題で同じものである。『モーゼからの権利証書』では、日本の“天皇は神の子”という説話的な神話そっくりに、聖書に書きとめられているとして、「神がイスラエル人に約束して与えた土地だ」と主張して、故郷パレスチナを占領して不法に住み着いている入植者が彼女にうそぶく。彼女は、その荒唐無稽な「土地の所有権と居住権の根拠」に唖然として言葉を失ってしまうが、しかし、それはイスラエルの不法入植者たちが、イスラエル政府と軍が権利を保障してくれる現実を盾にとって正当化して居座る時の言い訳で、現代世界では全く通用しない主張が“イスラエルの常識”として罷り通っている異世界ぶりを見つめる。
『ニュースタイム』では、行き詰まりを感じる自己の新たな変化成長を求めてパレスチナ自治区に出かけ、下宿滞在した街の一角、特にそこの路地で“狩人ゲーム”に熱心な少年たちの姿や隣人たちを部屋の中から見とれる手法で描いていく。平たく言えば、引きこもりの女性が、何処からともなく現れてはエネルギッシュに走り回る少年たちを憧れるように見つめるのだ。ところが、TVのニュースが流れ、その静かな街角が徐々にイスラエル占領軍と抵抗して闘うパレスチナ人たちとの戦場に化していくのを告げる。下宿の主や隣人は安全な地区へと避難していく。それでも、少年たちは毎日集まっては、何処かへ出かけていく。そう。少年たちはイスラエル軍と闘うために石礫で獲物を狩る訓練をしていたのだし、占領軍の戦車や部隊が展開してパレスチナ住民に筒先を向けている戦車に立ち向かおうと出かけていたのだ。少年たちの仲間にはイスラエル軍に殺された者も居る。女性監督も、一度は、その少年たちの闘いの現場に付いて行くが、長くは見つめられないまま、再びいつもの路地に戻って少年たちと話し合う。この、静かに見つめるカメラ目線の中の少年たちは、本来、彼女の弟たちのような存在だが、彼女は、闘う“狩人ゲーム”以外の少年たちの日常生活の世界には決して入って行こうとはしない。いや、入って行けずに、少年たちとのほのかな”友情“だけを受け止めて、生きていればまた出会おう、と何事も無かったように終わるのだ。
つまり、この二作品によって、実態的にも精神的にも、彼女自身が故郷から弾き出された存在だと自覚させられた点を提示しているのだ。欧米への移民として生まれ育った自分の元故郷はイスラエル人たちに占有され、自分の同胞である少年たちが切なく必死に占領軍と闘いながら生きている世界にも入って行けないでいる。まさに、ディアスポラ化している自己を見つめることで、それを解体しない限り自分のアイデンティティを取り戻すことはできないことを、暗示している。
しかし、このような故郷や人々とのかかわり方で、新たな自分が発見できるのだろうか? 発見してどうするつもりなのだろうか? 新たな自己を形成する作業は、闘いである。過去の歴史がもたらした「自己の現実」に向かい合って、見つめるのではなく闘わない限り、自問自答するだけでは何の回答も得られないだろうし、世界や歴史や戦争と「個人」を対比して自己を捉えるという常套的な方法の陥穽に入り込むだけではないのか。その先には、自己撞着を続けるという、いつも通って来た苦闘の道程が遥か向こうにまで伸びていることを感じた。
では、独断と偏見で言えば、このように、最も否定的にみてしまった作品群の中にこそ、作家がドキュメンタリー作品を新たな第一歩に進めることが出来る可能性の気配を感じたとも言える。この点について、最後に述べてみたい。
一つは、『共通の敵』(2013 スペイン人監督ハイム・オデロ・ロマーニ)と『悪意なき闘い』(2012 仏に滞在するチュニジア人ナデイア・エル・ファーニ-と仏人アリーナ・イサベル・ペレスの共同監督)が示している、中東アフリカ世界の新たな時代の到来を民衆が呼び込んだ「アラブの春」の闘いの後の現状報告だ。いや、アラブの作家という括り方は出来ないが、この作家たちは現状報告ではなく、現状を告発しようとさえしているのだ。その告発の視点の先には、新たな世界を作ろうとする問題意識が溢れてもいる。
この二作品が語るのは、チュニジアの民衆蜂起が要求して実現しようとしたのは、独裁政治の追放と民衆の民主的な権利の実現であったはずだが、その後の民主化の過程でイスラム主義政党が大きく伸長し、真の民主主義が宗教色に絡めとられる実態と今後の危惧を問題だと指摘している点で共通している。実際の例として、隣国のエジプトでは、民衆の革命が宗教政党「ムスリム同胞団」の社会支配体制へと“収奪”されたと言われ始めた時、それを口実に軍部がクーデターを起こして丸ごとハイジャックして軍政を敷いてしまった先例がある。では、チュニジアではどうか。同じように、共通の敵として民衆を抑圧して来た独裁権力を追放したチュニジアの諸勢力は、人々の民主化の闘いとして新たな社会を紆余曲折しながら実現していこうとしているが、立場異見の違いで、簡単には進まないのも当然である。しかし、この二作品が示すのは、新たな世界を模索する過程の素晴らしさではなく、近代欧州的な民主主義を正義や判断の基軸に据えた価値観からの現実批判だけが全体をくるんでしまっている。
『共通の敵』では、ドキュメンタリストなら見えるはずの、近代欧州の民主主義理念の以前から長年イスラム主義によるアラブ的な共同体意識との違いへの考察が、民主化運動の活動家たちの間の新たな難題として提案されているが、それ以上一歩前に出ることは無い。『悪意なき闘い』の方は、まるで仏国に亡命滞在して身に染みついた近代欧州民主主義に浸って生まれ直したような哲学と主張が生き甲斐として示され、故郷の産湯としての共同体意識などへの考察は一切抜きにして、現実を告発してしまっている。見方を変えれば、新しい社会に求めるものを「人間の全的な自由の実現」と主張していて、そのアナーキーなエネルギーには感動する。だが、そう主張すること自体が、まさに、先に述べたアラブの歴史上で欧米植民地主義者が爪跡を残した『悪』の再演をやっている。その主張は「人権」や「人道」のための戦士の戦いとして、欧州社会で好評を博して得々とする自分の姿を登場させていることに驚いた。「大」を付けた疑問符が脳裏で渦巻いて止まらなかった。しかし、考えようによっては、ここで示された『悪』は、イスラム主義の因習化した社会に、何かしら新しいものを持ち込んで変革の動機にもなるものかもしれないとも思う。そのように、両刃の刃としての自己存在を部分的にではなく、全面的に語ればよかったのではないか。ともあれ、この作品のメイン監督は、そうやって自己を晒すことによって重度のガンを克服し、作品のエンディングには、如何にも健康そうに登場できていた。因習と闘うドキュメンタリーを撮りながら快復したというのは、何とも、おめでたいことである。
ここで述べたい二つ目は、『イラク-ヤシの影で』(2005 オーストラリア人監督ウェイン・コールズ・ジャネス)という快作だ。米英同盟によるイラク攻撃の開始を予見しながらもバクダットに居座って、激変を伴って転変する戦前、戦中、戦後のイラク人社会での人々の生活実情と思いを拾い集めて行く。その目線は、いわゆるTVニュースの映像と少しも変らない一般的なものだが、イラク戦争関連で流されたマニュプレイト(=作為的に編集)された従軍記者が捉えたものとは全くちがう視点で、あくまで、戦争で破壊されて行く社会全体と民衆の生活の実情の側から記録し続けた点だろう。簡単には割り切れないサッダム独裁体制の支持の意味、米英共同軍が占領して駐屯した後の荒廃の中で米英批判だけでなく、一般民衆の人心が新たな自己を自覚していく状態、それとは裏腹にどんどん混迷を深める米国のイラク支配の実態など、出来るだけ恣意性を排除した描写を展開する。
だから、最後に、監督が自国オーストラリアだけでなく、欧米の全てのTVやメディアが放映や公開を拒否し、未だに自主上映していくしかない映像メディアの現状を嘆いているのが身につまされる。しかも、彼もまた、今後もこの仕方でドキュメントし続けると宣言する。自前のドキュメンタリストよ、頑張れ、と思わず独り言を漏らしてしまった。
最後になったが、若者が生きて戦おうとする新しさを提出しているのは、何と言っても『この2メートルの土地で』(2012 パレスチナ人監督アフマド・ナッシャ)だろう。世界各国に散らばって住むパレスチナ難民の若者たちが、イスラエルがパレスチナゲリラの侵入を防ぐために張り巡らした分離壁の前に集まって音楽祭を開催しようとするまでの姿を生き生きと描いている。かっては、若者は、何処に住んでいようとも民族解放闘争を担うゲリラとして武器を取って闘って来た。しかし、今は、武器を捨て、イスラエルとの妥協的な和平を目指している。だから、解放闘争は平和的な手段の中で力を発揮していく以外にない。そんな混迷した時代の闘いを、現代のパレスチナ人青年男女が、やれるところから始めようとして音楽祭に集うのだ。新たな闘い方は、欧米や日本の若者の闘い方と大差ない。いや、最初に述べた『我々のものではない世界』と共通していて、解放闘争の後退局面を引き受けて行く陽気な気概として表しているのだ。ちなみに、『我々のものではない世界』はイスラエルに報復暗殺された詩人で作家のガッサン・カナファーニの小説の原題であったし、音楽祭の開催で呼ばれて走り去る時に、誇りと見栄を込めて歌い上げたのは、生きていれば間違いなくノーベル賞を受賞したと思われるパレスチナ詩人(※編集注 マフムード・ダルウィーシュ)の長文の詩を暗記したものだった。
長々と述べて来たが、最初に結論を示したように、これらの作品は、現在進行しているそれぞれの事象が、否応なく、世界観、宗教観、民族意識などの属性(アイデンティティ)を常に正面から扱っている。ひょっとすると、それがアラブの作家たちの作ったドキュメンタリー映画の特徴だと痛感した。
【イベント詳細】
ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京
2014年11月15日(土)〜12月19日(金)
2015年1月10日(土)〜1月23日(金)
新宿K’s cinema にて開催
http://www.cinematrix.jp/dds2014/
(各作品の紹介あり)
【関連記事】
【Interview】DDS2012特集 『密告者とその家族』 ルーシー・シャツ監督インタビュー text 萩野亮
【金子遊のドキュメンタリストの眼3】 足立正生監督インタビュー text 金子遊
足立正生監督『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』
「第6回 座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」にて上映!
2月8日(日)16:00 「井浦新セレクション」にて
会場:座・高円寺2(JR中央線高円寺駅下車徒歩5分)
【プロフィール】
足立正生 あだち・まさお
1939年生まれ。映画監督・革命運動家。60年代前半に日大映研を率いて実験映画『鎖陰』(63)で伝説となり、若松プロ作品の脚本を多作。永山則夫の足跡を追った『略称・連続射殺魔』(69)では風景映画を提唱し、『赤軍PFLP・世界革命宣言』(71)でパレスチナの武装闘争の映画を撮った。74年以降はパレスチナへ渡り、日本赤軍に合流。2000年に日本へ強制送還。2007年に岡本公三を描いた『幽閉者テロリスト』で映画監督に復活。2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、コンペティション部門の審査員をつとめた。