自分が持っている価値観を変えないと、何も変わらない
原 『セッションズ』(12)(※注4)のことが扱われていたよね。
佐々木 『バリアフリーコミュニケーション』の方ですね。
原 あれはさあ、障害者のセックスを扱っているよね。いい映画だなあって思う。
佐々木 僕もそう思います。
原 障害というものの持っているあるシリアスな状況を描きながら、愛の物語だよね。いってみれば、だから障害を持っていない私でもああなるほどって感動する。もし今後我々が作るとしたら、同じようなことはいえるかも知れない。要するに違いだけ描いていっても、やっぱりそれだけでは表現したことにならないんだよね。
佐々木 そうですね。
原 かといって、これはちょっと別の話にずらすけど、民族的なマイノリティ、少数民族を扱った時にね、少数民族の人にカメラを渡してさ、その人に回してもらおうっていう発想があるよね。その人が撮った映像をこっち側が作った映画の中に取り込んじゃう。それで何か新しい世界がそこに現れているんですよね、という作品がある。これはかなりいかがわしいよね。
佐々木 そう思います。
原 マイノリティといわれる人がカメラを回せば、自分たちの価値観、文化というものを持った映画が描けるかというと、そうでもない。その人の価値観が変わらなければ、どうしようもないわけだから、イコールにはならないよね。もし本当に自分たちのことを深く深く考えていって、それを表現しようとすると、表現の仕方も相当深く勉強してもらわないと、そういうふうにはならないよね。ただ渡せばいいというものでもない。
あと、コレもいおうと思ってたんだけど、今年の大阪芸大2年生の実習作品なんだけど、障害者の性の問題を撮りたいといって、ボランティアで、少し報酬はあるっていってたかな?性処理の補助をしているNPOがあって、そこの女性が重度の脳性マヒの男性の性器をしごいているのを撮影してきたんだよ。そのものズバリをアップで撮っていて20分ほどの作品だけど、「これだけじゃ映画にならないよ!前後に何かあるだろ!」って言ったんだけどね(笑)。
佐々木 それに何の意味があるのか僕にはわからないです。
原 でも、極端にいうとそこまでいくよね。で、やっとそこまできたんだなぁとさっきの話に戻るんだけど。あなたの場合もそれを撮ろうと思えば撮れる可能性はあったけど、撮ってないよね。それはどういう意識だったのかな?
佐々木 品がないなと思ったんです。友達のセックスは見ない。
原 見たくない。
佐々木 そうですね。見たくないし、自分のセックスも見られたくない。
原 じゃあAVもあんまり好きじゃないんだ。
佐々木 そうなんですよ。
原 俺もAVは嫌いなんだけど。まぁAVの話は置いておいて(笑)、なぜ自分は見たくないと思うんだということはもちろん考えるよね。
佐々木 考えます。
原 何故?
佐々木 それを見たところで、わかった気になるのが嫌だったんです。見ただけで障害者のセックスについてわかっている、問題の答えがあると思えなかったんです。
原 でも、あなたのいまの答えは、自分がやったことと矛盾してるよ。『バリアフリーコミュニケーション』で筋委縮症だったかな?女性の写真を撮るっていうエピソードがあったよね。あの女性の身体は僕らから見れば、明らかに障害で歪んでいるよね。これが数年前なら障害者の肉体を見たくないという意識があからさまに世間にはあったんだよ。何らかの価値観が働いているわけだよね。それが少しずつ少しずつ、見ても平気なんだと変わってきた。お互いに見合うもんでしょ?それが確実に進んできてるわけだ。だったらそれがもっと進んでいくと、セックスしたってどうってことないじゃんってところまで繋がるよね。
佐々木 その通りだと思います。『バリアフリーコミュニケーション』に出演てくれた森山風歩(※注5)さんに関して言えば、彼女の意志は素晴らしいと思うし、見せることも、見たい人がいるならば見せるべきだし、見るべきだと思います。ただ今回の作品で、僕は門間さんのセックスは撮りたいと思わなかった。友達のセックスを撮るという考えはなかったんです。
原 なるほど。
佐々木 いえばいいよっていってくれたかも知れないですけど。
原 そうだよね。作品の流れからみると、そういう感じはするよね。
佐々木 感覚なんですが、それを面白いと思えないのと、それを見せることで作品が違う方向に行っちゃうんじゃないか、見せること自体が目的になってしまうんじゃないかって思うんです。僕は障害者の性っていうよりも、個人的な流れの中で知り合った色んな人達の中で、マイノリティとマジョリティの境目が入れ替わるというのを描きたかったんです。映画の中での設定では、僕が演じる青年はセックスに関しては不能者という人物にしています。若干自分の経験を反映しているんですけど(笑)。ですから、直接的なものを見せるということは、僕の中ではちょっと違うと感じたんです。
原 そう思うんだね。でも、でも、そういいながら、自分のその考え方で本当にいいのか?という疑問はあるよね。表現って、ひとつ壁を壊して、その先にぶち当たる壁があって、それをなんとか必死に色々頑張って壊そうとするよね。でまた壁があってって、その連続でしょ?表現の課題としては、ひとつひとつ壊していかなきゃいけないよね。そうした時に、表現の壁っていうのは実は、自分がひとつの事柄についてどう思っているかっていう価値観を変えていくこと、自己解体とか自己変革っていう言葉を使うけど、自分が持っている価値観を変えないと、何も変わらないんで、そこに行きつくでしょ?
佐々木 それはいまこうして映画が完成して、こうして原さんにもご覧いただいて、色んな観客に劇場でみていただいて、たくさんの意見をもらって、やっぱり変わりますよね。僕自身が、いま変わる過程にあるんだと思っています。次に作るものが、お前それ否定していたことじゃないか!っていわれるかも知れないですし、セックスをバンバン撮るかも知れない。
原 そうだね(笑)。障害者のひとに対しての感覚でいえば、食事の介護があって、一歩進んでお風呂に入れてあげる、トイレにいったときにお尻を拭いてあげる、じゃあセックスまでって、あと一歩の距離だよ。で、我々の表現も少しずつ撮る領域を深めていくとさ、白昼堂々男のひとの性的な欲望を補助してあげるのを撮ったっていいじゃんってなっていくよね。好き嫌いは置いておいて、事実としてね。AVも好きじゃないっていってたね。
佐々木 そうですね……。僕も仕事でAVをやっていたこともあるんですが、21、2歳くらいの時なんですが、
原 ハメ撮り?
佐々木 ハメ撮りまで…
原 そこまでいかなかった?
佐々木 そこまではいかなっかったんですが…
原 男優を使って…。
佐々木 ええ、半年くらいADをやっていたんです。その普通じゃない空間というか、もちろんそこが面白いところだとは思うんです。僕もセックスはします。でも電気を煌々と点けて、大勢のスタッフの前で、それをカメラで撮るというのは非日常でどこか居心地が悪かったんです。そんなにセックスのことを考えたことがなかったのかも知れません。だから『裸over8』(※注6)でお題をもらって、この前身の短編『マイノリティとセックスに関する、2、3の事例』(※注7)を作りながら、自身の性と障害者の性というものを段々と意識して考えるようになったんだと思います。こうして長編化したのも、NONFIXに自分から企画を出したのもそういう流れがあったからなんです。
▼page4 僕であって僕じゃない虚構の人物がドキュメンタリーを撮る につづく
注4:『セッションズ』―2012年アメリカ映画。ポリオによって首から下が麻痺している詩人でジャーナリストのマーク・オブライエン。彼の童貞喪失を巡りながら、障害者の性の問題をストレートに描いた作品。
注5:森山風歩(もりやま・かざほ)―作家・モデル ファッションデザインも手掛ける。自身を綴った自叙伝『風歩』は、テレビドラマ化もされた。オフィシャルブログ→http://ameblo.jp/kazahonyan/
注6:『裸 over8』―2007年公開 裸をテーマに5人の若手監督が競演したオムニバス。第1弾には佐々木誠監督の他に、前田弘二監督、川野弘毅監督、桑島岳大監督、加賀賢三監督が参加した。
注7:『マイノリティとセックスに関する、2,3の事例』―2007年公開 オムニバス『裸 over8』中の1篇として制作・公開された。『~極私的恋愛映画』Chapter2の原型となった短篇。